4日に京都国立博物館に行って来た。一緒に鑑賞出来たもうひとつの企画展については明日書く。これらは「新春特集陳列」で、いつもの本館ではなく、別館を使用している。日本刀にはあまり関心がないが、たまには関心のないものを見ておくのもよいと考えた。

刀剣についての知識はほとんどない。子どもの頃は時代劇の映画を盛んに見て、近所の友だちとそれをまねて、「チャンチャンバラバラ、スナボコリ」などと歌っては遊んだものだが、筆者は西部劇の方が好きで、刀より銃のおもちゃがほしかった。メカニカルな銃の面白さに対して、刀は形が単純で、切ることだけに意味がある点で何だかとても恐ろしいものに思えた。それは今もあまり変わらない。包丁をたまに持って料理することはあるが、ナイフを買ってその形や光沢を楽しむ趣味はない。また、銃に関しても小学生ですっかり卒業した。その後、60年代半ば以降、モデル・ガンはますます本物らしくなったが、関心を抱いたことはない。学生時代の一時期、家庭教師をしていて、わざわざ京都から筆者の住む大阪にまでやって来る中学生がいたが、その子が大のモデル・ガン好きで、たくさんコレクションしていることを聞いた。筆者もそれなりに興味はあったので話は少々はずんだが、どんな銃が好きかというその子に質問に対して、筆者はドイツ軍が使用したモーゼルと答えた。それは四角い弾倉が引き金の前方に備わった、一風変わった大型銃で、今でも筆者は銃の王様と思っているが、そのことをその子に言った時、最も格好悪い銃と思っていたようで呆気に取られていた。教えるのをやめて2年ほどした頃だろうか、ひょいとその子がまたやって来たことがある。すると、モデル・ガン集めはすっかりやめたが、その代わりにただ1丁、モーゼルだけを買って大事にしていると言った。筆者の言ったことがようやく理解出来るようになりましたとも語っていたが、それっきり今まで会ったことはない。そして何年も経って筆者は京都に定住したが、時々その子を思い出す。今もモーゼルを格好いいと思っているだろうか。
さて、刀だ。正倉院に刀剣がかなりの数保存されている。調べると55口とある。1メートル以上のものが1本で、大部分が60から70センチだ。筆者の知る限り、これらの刀はあまり展示されたことがない。手元にある10冊程度の正倉院展の図録を調べると、1980年に2本の大刀(たち)が出品されているのみだ。そのほかにも出品はされたはずだが、興味が乏しいので印象にないのであろう。これらの大刀は実用のものと礼拝用のものがあるが、刀はこのように実用一辺倒ではなく、そこに神がかり的な力を認める宝物としての扱いも古くからあった。これはよくわかる。金属を鍛練して1個の形を作り上げる点で、銅鏡に共通しているが、その鏡が神宝とされるように刀もまた邪気から身を護る霊的な道具として神に奉るのはごく自然な発想だ。そして、人の階級が出来上がった社会では、下々の者が持つものと高貴な人が持つものとではまた自ずと差が出来るし、より巧みに、より豪華な装飾を加えたような名刀と呼ばれるものが登場する。これは刀に限らず衣装や日常の道具でも同じことで、博物館に展示されているようなものは大抵は支配者格の人々が用いたもので、大多数の一般人が使用したものは消耗品となって残らない。そこに目をつけたのが柳宗悦の民芸とも言えるが、民衆が帯刀することを権力者から許されなかったため、当然民芸には刀はない。あるのは大工や職人が使用する鋸のような道具類だ。その意味からも、刀は近寄り難く、また今回の展示のように特別な場所でしか見られないため、なおさら特別のモノという感じがある。さらに、現代でも作り続けられてはいても、佩刀の時代ではないので、過去の遺物という印象が強い。しかし、モデル・ガンに関心のある人がいるのと同じように、刀に特別の思いを抱く人は少なくない。それはシンプルな形をしていても、見所がいろいろとあって、しかも銃には決してない独特の魂が宿っているようなものと感ずるからであろう。以前TVの番組で、銃と日本刀のどっちが強いかを実験していたことがある。固定して刀の刃に向けて銃を撃つと、弾は見事に真っ二つに割れて飛び散り、刀の刃は無傷であった。これにはアメリカ人は驚嘆していたが、それほど刀は見事に作られているというわけだ。
最初、刀は大陸から招来されたが、武士の登場とともに少しずつ形を変えて完成に向かった。あたりまえのことだが、刀は人を切るためのものであるので、長い戦いがあればどんどん進化する。兵器と同じことだ。「大刀」は「断つ」から来ているが、変遷を簡単に書くと、まず正倉院に入っている刀はほとんどが直刀だ。これは帯をつけて腰にぶら下げて使用するもので、切ることと刺すことを兼ねている。仙厓の墨絵に、鍾馗がこの直刀で邪鬼の体を真っ二つにしている様子を描き、「一刀両断」の文字を添えているものがあるが、一方で鍾馗が邪鬼を串刺しにしている絵も描いていて、仙厓が直刀の使用法をよく知っていたことを示す。「大刀」と「太刀」という2種の呼び方があって、紛らわしいが、前者は奈良、平安時代の直刀を指すようだ。この直刀はやがて平安時代半ばまでには湾刀に席を譲る。刀にこの反りをつけることは簡単ではない。鉄の性質からすれば本来はうすい刃の側に反ろうとするからだ。それでも実戦でより有利なように、馬上から切りおろすにはつごうのよい湾刀が求められた。そして鎌倉初期にかけて、中反りから先反りに変化し、刃の断面の形もより切れ味に優れる切り刃造りや、さらに鋭い鎬(しのぎ)造りに変わる。これは刃の断面を直線だけで構成し、きわめてうすくしたものだ。これでは本来は折れたり曲がったりしやすいが、刀工の技量が上がって、鉄の本来の性質には相反する構造でありながら、より切れ味があって折れたりしにくいものが作られるようになった。よく切れるということは鋼が硬く、折れにくいのは鋼が柔らかいためだが、日本刀はこの矛盾する両方の特質を独特の鍛練法によって兼ね備えている。日本刀がさらに変化するのは鎌倉中期だ。これは蒙古襲来があったことによる。身幅が広い豪壮なものが作られる一方、船上での戦いに供するために短刀にも優品が現われた。また薙刀にも名品が出る。室町時代は世の中が安定し、刀は鎌倉中期のものを模すようになる。また反りが高い太刀は廃れ、先反りのついた打刀(うちがたな)が流行したが、これは刀の刃をうえにして腰に帯びるもので、刀を抜けばただちに切る動作に移れる点で、戦いがより激しくなった時代を示す。打刀は刺刀に対するもので、鐔(つば)をつけた様式のものが多い。桃山時代以降の刀は新刀と称するが、この時代以降は武士は打刀と短刀を帯びる風習が生まれたことは誰しも知る。
今回展示された刀は全部で24口で、インドネシアの珍しい剣もあった。京都がいかに歴史が古く、古刀をよく保存しているかがよくわかる。以下に目を引いたものを簡単に書く。まず鞍馬寺所蔵の「黒漆大刀」。これは坂上田村麻呂(758-811)の佩刀で、当然直刀だ。黒漆を塗った外装は古墳時代以来の大刀の系譜だ。次に鎌倉時代のものとして、泉湧寺の「太刀 銘大和則長」。則長は大和の尻懸派を代表する刀工で、同名が鎌倉末期から室町まで数代続いた。この刀は刃の文様に特徴があって、その説明がなされていたが、専門的になるので省略する。大覚寺の「太刀 銘□忠」は、「薄緑」と号され、源満仲(913-997)以来、源家の宝刀とされた。なお、□の部分は文字が読めなくなっている。「平治物語」には、朝長(1143-1159)が薄緑の太刀を帯びて戦ったと記される。次に南北朝時代のものとして、まず建勲神社の「刀 伝左文字」。これは奥の部屋の突き当たり正面にあったが、説明文を読むと生々しくて恐ろしい。左文字は筑前博多の刀工で、相州正宗十哲のひとりとされる。刀の名工が日本のどのあたりに集中してどういう特徴を持ち、どういう影響を与え合っていたかの知識は専門的な書物を繙く必要があるが、門外漢が勝手に考えても、鉄が産出するところ、そして有力武士がいたところ、剣術に優れた人材を多く輩出した地域、都やその周辺など、いくつかの代表的な場所が想像出来る。それはいいとして、この刀は、信長の事蹟を記した「信長公記」に「義元不断されたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断さゝせられ候なり」とあるもので、信長がどのようにしてこの刀で何度も切りつけたのか、想像するだけで痛々しい。それがそのまま真新しい形のまま目前にあるわけで、京都の寺社の長い歴史を改めて思う。歴史上の人物はほとんどがその実在をあまり感じることはないが、このような由来のある刀を間近に見ると、そうした人物の姿が眼前に見えるような気がして来る。その意味でも刀が魂を宿し、宝物として大切にされて来ていることに納得出来る。南北朝のものはもう1本あった。愛宕神社の「黒漆太刀 号笹丸」だ。これは鐔を含む金具回りまですべて黒漆をかけた皺革で包んでいる。足利将軍家の重宝で、将軍義昭から秀吉に贈られ、秀吉が愛宕神社に奉納した。何ともリアルなことで、そんな刀がすぐ目の前にある。
室町時代の「毛抜形黒漆太刀」は、伏見の御香宮神社に伝わっているもので、柄(つか)の化粧透かしの形から毛抜形太刀と呼ばれる。元来は宮中を護る衛府官人の佩用する兵仗太刀で、古式のものは身と茎(なかご)を共鉄(ともがね)で造り、茎そのものに毛抜形を透かすが、この刀もそうなっている。柄の金銅板に蹴彫される唐草が最大の見所とあった。刀はこのように装飾部分に手の込んだものが多くあって、複合的な技術があって初めて完成するものだ。高山寺の「三鈷柄剣」は、柄を密教法具の三鈷杵形をした直刀で、15世紀のものだ。同様に一風変わった形としてクリス剣があった。これは石清水八幡宮から最近発見されたもので、16から17世紀にかけて作られた。インドネシア周辺に見られる短剣で、超自然的な力を持つと信じられた。身の先端部が蛇行し、基部は左右非対称に広がって蕨手や瘤状突起を作り出し、また地の金の布目象嵌でザクロのような果実と五弁花の唐草文を描く。慶長遣欧使節の支倉常長の持ち帰り品で、ほかに4例が知られるという。次に桃山時代からは3口出品され、特に「倶利伽羅龍合口剣」は、刀身に龍が直刀に絡む様子の彫物が施されていて見事であった。同類の彫物は日本三槍のひとつとされる室町時代の「日本号」にもあるが、室町時代にはそれ以前の刀には全く見られない武神信仰を示す毘沙門天や摩利支天などの彫物が見られる。こうしたことから、刀が段々と工芸的に傾いて行った様子がわかる。江戸時代の刀の出品が最も多かったが、逆に重文指定されているものは1口のみであった。この時期、刀が量産される一方、贈答に使用されるものが多くなり、豪華な総合工芸品の趣が増したものが寺社に奉納されることが多くなった。また名刀の模倣も盛んに行なわれた。八坂神社に伝わる「太刀 銘出羽大掾藤原国路」は、同神社の正遷宮に当たって奉納された神宝類の中の太刀で、三柱の祭神のために同工のものが3口制作されたもののひとつだ。1654年に刀身を京の一条堀川に住んだ藤原国路、金具を京の有名錺(かざり)師の躰阿弥がそれぞれ作った。藤原は桃山期の名工で、堀川国広の第一の門弟とされる。この一門は美濃の志津一派の相州正宗一門の影響を受けたが、このためにこの刀も非京都的な刃文を持っている。さて、全然錆びのない刀が、真っ白な光沢のある繻子を広げたうえに水平に置かれて光っているのを見ると、ガラスケースの中に入っているからまだ異様な空気がこっちに伝わる程度も限られているが、これが生の状態で見ればもっと迫力があるだろうなと思う。手づくり精神の極地を示す日本刀であることはよくわかるが、物騒な刀を武士が日常的に帯びて歩いていた時代はもう来ない方がよい。とはいえ、銃弾が飛び交う世の中はさらに御免だが。馬鹿と刃物は使いようとはよく言ったものだが、刃物が一刀両断で馬鹿な世の中のことを始末してくれればと思う。