池があれば必ず立ち止まって覗き込む。菱の葉が見えないかどうか確かめるためだ。そう言いながらめったに池に出会うことはない。
それで水田があればそこでもよく立ち止まるが、その水田も嵐山では毎年家が建ち、今ではほとんど見かけない。だいたい2週間に一度、自転車で向日市まで走る途中に、広々とした田畑がある。今日は先月28日にその道路で立ち止まって撮った写真を載せるが、水田の中に小さく鳥が見えたので慌てて自転車を停めた。鴫であるとわかったからだ。
鴫を初めて見たのは10年ほど前だ。渡り鳥かどうか知らないが、珍しいのは確かなはずだ。その珍鳥が水田の中に一羽だけいて、田んぼの中のミミズや虫を探している。カメラのズームを最大にして撮った写真をさらにトリミングしてようやく鴫かとわかる程度の写真にしかならないが、自分の目で見たことは嬉しい。鴫と言えば大阪に鴫野という地名がある。昔はそこにたくさんの鴫がいたと思うが、今では田んぼが皆無で団地が広がっているようだ。鴫はますます肩身が狭くなり、そのうち日本から消えるが、そうなると鴫野のという地名の由来もピンと来ない人ばかりになる。農家にとって鴫は迷惑な鳥なのかどうか。水田の鴨を放つことがあるので、鴫も益鳥ではないだろうか。完全な益鳥でなくても益か害のどちらが多いかとなると益のような気がする。それでも珍鳥になって来た現実を思うと、迷惑がられて来たのかもしれない。益か害かは生産性という言葉で置き換えられるga,子どもを産めないLGBTに税金を使うのはどうかと雑誌に投稿した女性議員のことが話題になっている。TVのワイド・ショーがそれを取り上げないところを見ると、裏事情があるのだろうが、それはさておき、生産性という言葉を子どもを産むことに使う頭がわからない。筆者が言わなくてもそういう意見はネットに多いし、またその議員が属する党の主は子どもがおらず、女性議員の発言はブラック・ジョークに聞こえて面白くもある。子どもを産むことが生産性の最たるもので、子どもが多い状態でなければ国に経済力も保てないとなれば、たぶん半世紀後には工場で子どもを栽培しているはずだ。試験管ベイビーの技術があれば、子宮をガラスで作り、そこに栄養を送るくらいの技術はすぐに出来る。そして遺伝子操作によって、頭がよくて美男美女ばかり生産し、国民の知能指数の平均が500くらいになるという時代が来て、セックスは不要、全員LGBTになってもいい。人間は望んで今の世界を作って来た。先の議員に同調する若者は少なくないが、数の原理で動く民主主義ではそういう世の中が正しいとされ、生産性がないと烙印を捺される者は死んで当然とされても何の不思議もない。
1971年だったか、アメリカ映画『ソイレント・グリーン』に、生きる希望をなくした老人が安楽のうちに自殺出来る装置を政府が発明し、それによって死んで行く人が描かれていた。その老人は死んですぐに人間が食べる食料に加工されるのだが、人が人を殺すことは食べることと大差なく、生産性のない人間が生きていて申し訳ないと思わせられる世の中は殺人を合法的に正当化することでもある。その延長に実際に人肉を食べるようになるだろう。燃やすのは生産性がないからだ。食べた方が断然エネルギー確保には合理的だ。筆者は目下10数年費やして本を書いているが、そのことを「風風の湯」でちらりと話すと、「道楽でんな」と言われる。つまり「趣味」だ。筆者は人生を賭けているつもりだが、それは自惚れというもので、本を読んで文章を書くことなど、生産性のない最たる行為とされるのが普通だ。そのことを自覚するからこそ、ブログを始めた時からこの画面の最上段のバナーに、筆者のいわば分身の
「マニマン」の前方にウンコの山を描いた。マニマンの後方にはそれを踏んだ足跡があり、そしてそこから
小さな花が咲く。政治家は自分が最も生産性があると思っているからこそ、生産性云々を大声で主張するが、いずれAIに置き換わり、生産性ゼロという真実が白日のもとに晒される。銀行も現在よりぐんと少なくなると言われるが、それは銀行員という職業がロボットに置き換え可能なほどに生産性の観点からは人間がやるほどのことでもないからだ。AIが代用出来ない職業に評論家が含まれていて、現在のSNS時代はそのことをほのかに予測しているように思うが、全員が評論家になった場合、評論は生産性がある行為とはみなされない。「道楽」に話を戻すと、筆者は昔から生産性のない人間になってやろうとどこかで思い続けて来ている。このブログにしてもそうだ。コメント拒否、アクセス数はどうでもいいと思いながら書き続けることは何の生産性もない。だいたい小説家や画家といった連中は生産性など考えない。小説や絵など、なくても人間は充分生きて行けるからだ。生産性を考えれば作品はつまらなくなる。そしてそういうつまらない作品ほど今は人気を得る。筆者の先祖はたぶん「田の力」であった農民だが、筆者は「男」に生まれて先の議員が言う生産性の子どもは、試験管ではなくてセックスしてひとりをもうけたので、どうにか生産性は発揮出来た人生だが、他には何の生産性もない行動ばかりして道楽三昧で過ごしている。それでも数人程度は筆者に同調してくれる人はあるはずで、それを信じて生きている。ただし、その人の思いは筆者が「田の鳥」の鴫を愛らしく思って撮影してもその鴫がそれを実感出来ないことと同じく、筆者には伝わらない。それでさびしいかと言えば、鴫と同じく、そうではない。