椿事はめったにないが、めったやたらとあるのがうっかりだ。先月21日は家内の顔の湿疹を見てもらうために一緒に大きな病院へ行った。

午前中に入ったのに診察は午後1時半と言われ、筆者は時間を持てあますことになった。それで2週間に一度ほどは出かけている向日市に行くことにした。そして気になっていた樫原の三ノ宮神社に立ち寄って写真を撮ることにしたが、その経緯は
「その1」と
「その2」に書いた。今日はようやくその続きを投稿するが、遅れたのはうっかりしたことが理由でもある。次にそれを書く。先月21日は早く病院に戻らねばならないのに、三ノ宮神社がどこにあるかわからず、結局最短距離の10倍は要してしまった。それでもようやく神社を訪れることが出来たので気分よく向日市まで自転車で走り、家内が待つ病院にちょうどよい時刻に着いた。それで安心と思っていたが、「その3」を投稿しようと思うとどうもおかしい。筆者が入った境内は「三宮天満宮」で、その社を写して来た。では「三宮神社」はどこにあるのか。同じ境内にあることを知ったのは数日後だ。通りに面した鳥居の奥に鉄筋コンクリートの建物があることに気づいてはいたが、その建物はガラスが嵌っていて、中は部屋になっている。幼稚園児の声が聞こえていたこともあって、幼稚園に属する建物と思ったが、それが「三宮神社」で、その鉄筋コンクリートの建物の向こうに本殿があることをネットで知った。本殿の写真なしでは投稿は出来ず、家内が次に病院に行く一週間後を待った。その28日は家内の診察は案外早く終わり、筆者は22日と同じようにひとりで向日市に行った。そして22日と同じように、また今度は最短距離を走って「三宮神社」すなわち「三ノ宮神社」に向かい、社殿を撮影した。それで今日の「その3」が投稿出来ることになった。うっかりが原因で二度手間となったが、筆者は割合そういうことをする。だが、それは癪なことなので、別の用事を作ることがしばしばだ。28日もそうした。もうひとつ別の神社を訪れたのだ。その写真はいずれ投稿するが、樫原と桂の位置関係や樫原地域の道をかなり知ることになった。またそうなると樫原はなかなか雰囲気のいい町であることにも気づいた。神社巡りをしなければ用のない地域であったが、逆に言えば神社のない地域は筆者には面白くないこととなる。神社があるのは歴史が古いからだ。で、歴史のある町は趣がある。ニュータウンには神社はないか、あってもその地域からかなり離れている。ニュータウンが面白くないと意見はよくわかる。歴史の翳りがないからだ。陰影に乏しい町ではそこに住む人々が陰影を多く抱え込むのではないか。あるいは陰影を全く欠いてペラペラの二次元みたいな精神になるかもしれない。

ニュータウンは洛西にも有名なものがある。桂から京都市芸術大学に行く途中の国道9号線の南側にある洛西ニュータウンだ。それが完成したのはまだ40年ほどだ。筆者の従兄の家族が3年前までそこに暮らしていたが、3人の子のうち長女がJRの桂川駅前の新築マンションを購入し、そこに従兄夫婦は娘と一緒に引っ越した。洛西ニュータウンよりはるかに交通の便がよく、また買い物にも不便しなくなったが、従兄は去年9月1日に死んだ。洛西ニュータウンは古いのでエレベーターがなく、とても不自由していると聞いていたが、娘が真面目で両親と暮らすための新築マンションを買うとはえらく親孝行であった。それなのに、従兄はほとんどそこに住まずにあの世に行ってしまった。筆者は洛西ニュータウンをまともに訪れたことはないが、5月22日に大原野神社に家内と自転車で行く際、そのすぐ際を走る道を南西に向かえば大原野神社に最短距離で着くことを知り、そのとおりに走るつもりが、いつものうっかりでとんでもなく大回りをしてしまった。そのことは先の「その1」に地図で示した。洛西ニュータウンが出来るまではその地域は竹藪や畑であったはずで、竹林が多く消えたこともあって、洛西ニュータウン沿いに竹林公園を京都市が作った。それが出来たのは洛西ニュータウンが完成した頃を思うが、昔から気になりながら、また一度だけその際を自転車で走りながら、まだ訪れたことはない。それもあって5月22日は大原野神社に行く前にそこに立ち寄るつもりでいたが、「その1」の地図からわかるように、筆者はその公園の400メートルほど西にある道を南下した。そうそう、その南北に走る急な坂の道の東側は洛西ニュータウンのような5階建てのビルが並ぶ団地ではないが、一戸建てが並ぶ新興地区だ。それは洛西ニュータウンの造成と同じ時期に出来たのではないか。ともかく、新しい町が出来て学校や病院が建ち、その結果竹林が激減した。洛西ニュータウンに南接する大原野に同様のニュータウンが今後も出来ないことを願うが、これは京都市の考えひとつだ。デヴェロッパーとやらがうまく市に話を持ちかけると、歴史的時間で言えばほんの一瞬で景観が激変する。京都はそのようにして昔のよさを壊して来たが、かろうじて大原野はそれを免れている。京都縦貫自動車道が出来て自動車に乗る人にとっては綾部や福知山に行くことがとても便利になったと聞く。ところがその自動車道は大原野を縦断していて、景観を台無しにしている。もうそうなれば、いずれ大原野も新築の家やマンションが目立つだろう。ちょうど高槻の水無瀬がそうなって来ている。人口減少に拍車がかかっているというのに、家だけはまだ増加中で、日本社会の歪さがわかる。

今日の4枚目の写真の左端に金属製の駒札があって、そこに神社の由緒が書かれる。それによれば、三ノ宮神社は宮が三つで三神を祀るが、創建はわからない。樫原は樫の木がたくさんあったことゆえの地名で、洛西ニュータウンのあった地域も竹以外に樫があったのだろう。だが、この神社は「樫原神社」ではなく「柏原神社」と呼ばれていたことがあると書かれる。樫と柏は違う木だ。柏餅は当然後者で、落葉樹だ。またどちらもドングリが出来るが、ともかく樫原地区は緑が豊かであったということだ。たぶん京都市芸大の西と思うが、大枝塚原という場所があり、そこに鬼の首塚がある。その鬼は京都と丹波を結ぶ山にいた山賊で、彼らを倒したのが平安中期の武将源頼光とされる。頼光は三ノ宮神社の近くにあった小さな祠に供えてあった神酒を飲んで酔い、その酒を山賊に飲ませて退治した。それで鬼を退治した「酒の神」すなわち酒解大神、鬼を倒した「武勇の神」すなわち素戔嗚大神、大枝山の「山の神」すなわち大山咋神の三神を祀る現在の三宮神社が造られた。本殿は伊勢神宮から昭和49年に下賜され、その手前の鉄筋コンクリートの拝殿はその2年後に建てられたので、2年間は鳥居の奥に木造の本殿が見えていたのだろう。さて、今日の最初の写真は先月21日、残り3枚は28日の撮影だ。天気が少し違ったが、写りからはその差があまりわからない。鳥居をくぐって正面の舞殿が2枚目、その向こうに拝殿前で撮ったのが3枚目、その左端から奥の本殿を覗いたのが4枚目だ。拝殿は自由に入っていいのかどうかわからないが、ネットからは内部の天井に大きな方形の天井画が吊り下げられていることがわかる。「素戔嗚大神」や「大枝山鬼退治」の画題はいいとして、「禁門変殉難志士」があるのは幕末の禁門の変で死んだ3人の志士の墓が近くにあるためで、幕末の歴史に関心のある者には周知の神社であろう。歴史は積み重なって行くが、変化がほとんどない場所もあればそうでないところもある。寺社は当然前者だが、同じ寺社でも少しずつ変化して行く場合があり、三ノ宮神社はその部類に入るだろう。それを端的に示すのが鉄筋コンクリートの拝殿だ。筆者はそれを好まないが、昭和51年では無理もない。その頃に洛西ニュータウンは入居が始まり、当時の人は建物を鉄筋コンクリート製にすることに迷いはなかった。その方が地震にも強いという考えだが、そう言えば風風の湯でMさんから、先日の大きな地震で安藤忠雄設計の鉄筋コンクリートの建物にひびが入ったと聞いた。つるりと仕上がったコンクリートの表面が売りの安藤忠雄設計の建物であるだけに、ひびが入れば見る影がないではないか。三ノ宮神社はせっかく伊勢神宮から本殿が下賜されたという椿事があったのに、拝殿をなぜ木造にしなかったのか。コンクリートの寿命は60年とされるので、後20年すれば建て変えられるかもしれない。