瀬戸際に立つことはほとんどの人がないと思うが、そのためにギャンブルが好まれるのだろう。簡単に言えばスリルを求めるのは人間の本能だ。

そのために祈る対象も生まれた。それが神で、手を合わせて拝むことは願いを聞き入れてもらうためだが、神社に祀られる神によってはふさわしくない願い事もあるだろう。ところがその点はあまり考えられず、どの神社でもどのような願い事でも受け入れる。あまり細かいことを言わずにそれでいいのだろう。実際筆者は神社にお参りしてその神社ならではの願をかけることはなく、いつも家内安全を心の中で唱える。これが受験生であれば入試がうまく行くようにと願うが、そう言えば芸事を司る神社があり、そういう時は筆者はそれなりに仕事の技術のことを思い浮かべて手を合わせる。とはいえ、御利益があるとはほとんど信じていない。神社のすぐ近くに住まない人の方が多く、毎日お参りすることはなかなか無理だ。ほとんどの人にとって神社の参拝は非日常的行為で、またそれだけによく覚え、そのことがお参りすることの最大の効用と思っている。大原野神社がすぐ近くにあったとして、そこを毎日の散歩コースにすると、そうではない場合とどのように心に差が出て来るかとなれば、双方の経験をした人にしかわからないことだが、思い浮かべるよりも実際に訪れて境内の空気を吸う方がいいはずで、また大原野神社は特に雰囲気がよく、近くに住むのはいいように思う。それは1200年前から変わらない空気を吸えるということに尽きるが、一方ではその歴史に比べるとあまりに短い自分の人生を嫌でも思い出し、生きている間に何をすべきかなどと妙に焦ってしまうのではないかと危惧する。それは信仰を持っていないからだろう。そう思うと、神社のすぐ近くに住むよりも、筆者が実行しているように、気づいた神社に片っ端から訪れ、そういう経験の中であれこれと考えて行くことが、自分の成長を感じて精神的にはよい。そうそう、5月22日に大原野神社を訪れ、そして昨日の3枚目の写真を撮った後、鳥居をくぐると右手に西洋人の若い男女が数人立っていて、宮司と話をしていた。辺鄙なところにある神社でも今や外国人観光客が訪れるかと思いつつ、ただの観光客ではなく、神社を研究している若者たちではないかと確信した。そして彼らは感激していたはずで、それほどに1200年前のままの境内とその外を思わせるたたずまいが保たれている。京都市内の中心部ではもうそういう情緒は瀬戸際を越えて全滅で、ほとんどの外国人観光客で日本の文化を愛する人は京都にそう何度も訪れないだろう。その意味で大原野神社は市内でも理想的な場所にある。

1200年という年月は想像を絶するほどの昔のようでいて、中国では2000年やもっと昔から続く町がいくらでもあり、そう驚くほどでもない。またそう思うと、大原野神社がまだ現役であることが実感出来るし、実際鳥居や社殿の朱色は真新しく保たれている。これは寺とは違う考えによるだろう。寺では建物に施された色鮮やかな装飾はほとんどの場合、消えたままにされ、またそのことが枯山水と相まって自然なものとされる。神社は常に新しい方がよく、伊勢神宮も20年ごとに内宮と外宮で交代に社が新しく建てられる。どうせ建て変えるなら鉄筋コンクリートにして60年に一度にすればいいようなものだが、そうはならない。この古びた姿を見せないという考えは清潔さを保って生活すべきという考えに一致していて、神道は儒教に馴染むように思うが、国家神道は儒教の王と臣下の考えを中心にし、もっと身近な例で言えば、年下が年長者を敬う、あるいは父と子の関係、先生と児童、生徒の関係など、日本の常識として戦前まで保たれて来た考えだ。それがアメリカに戦争に負けてからは急激にないがしろにされ、挙句儒教は有害であると主張する外国人タレントも出て来ている。それを言うのであれば、あらゆる信仰はすべて害毒を撒き散らしていると主張すべきだが、では特別の宗教を信じていないので聖なるものは不要かとなると、誰でもそうとは限らない。聖なるものを忘れると、現実がどうなってもかまわず、むしろ破壊された方がいいと思うようになるだろう。誰でもいいから人を殺したかったという理由による殺人事件が頻発する昨今、そういう者が寺社に放火するかとなれば、まだそうはなっていないが、それは聖なるものに関心がなく、意識に上らないためだろう。それほどに寺社は今の若者には生活とは無縁のものなのだ。宗教は争いをもたらすだけのものか、あるいは精神の安寧により役立っているものかどうかだが、ある政治家が国を思う方向に導きたい時、神社を利用することは今後も大いにあり得る。そういう時、先に書いた神社に祀られるそれぞれの神はどういう役割を担うのか。大原野神社は桓武天皇の妃である藤原氏の氏神を祀るが、大日本帝国の政府による神社崇拝の考えがあった当時、どのような位置づけ、扱いを受けたのかとの疑問が湧く。伊勢神宮に連ならない単立の神社はあるし、国家神道の考えには矛盾があったように思う。その嵐が過ぎた今、大原野神社が1200年前のまま真新しくあることに改めて驚嘆する。今日の1,2枚目の写真は鳥居をくぐって左手の祠群だが、それぞれどういう神を祀るかはわからない。だが、そのたとえようのない美しさはこの神社の大きな魅力だ。3枚目は右手にある絵馬架けで、これひとつが立っているのはこの神社の慎ましさをよく表わしている。本殿は春日造りの一間社が4つ並ぶが、それをまともに見るには石段を上がって中門の向こうに行く必要がある。