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●神社の造形―大原野神社、その1
いつながりを思って春日大社に出かけたのかどうか。一昨日書いたNのことだ。生前にNがどれほど神社に関心があるのかを訊かなかった。彼女は大原野神社と何らかの関係があったのだろう。



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狭い地域のことで、同紙社の近くにNの家系は代々住み続けて来たはずだ。大原野神社は春日大社を勧請したもので、Nが春日大社を訪れたのはそのことを意識してのことであったろう。日本画を描いていたNが神社をどのように描くか、あるいは神社でなくても神社にまつわるものをどう画題にするかについてはいろいろと考えていたと思うが、筆者が知る限りの作品は植物を描いたものばかりで、しかもそれに神社は関係がなかった。一昨日書いたNが春日大社で出会った画家は、春日大社を描き続けたようで、またそれを燈籠で象徴していた。神社を画題にする時、また春日大社となれば、誰が見てもそれとわかるのはやはり燈籠で、また石燈籠よりも社殿や回廊にずらりと並ぶ吊り燈籠だろう。春日大社ではそれらを「万燈籠」と呼ぶが、実際はそれほど多くはない。それでも数え切れないほどあって、前述の画家がやたら燈籠ばかりを描いたのは、その数の多さに少しでも近づこうとしたからかもしれない。「万燈籠」と聞くと、またそれを画題にするとなると、曼荼羅を思い浮かべるが、神仏習合時代ではそれは的外れではない。「春日曼荼羅」もたくさん描かれて来たので、燈籠を連作のように、あるいは1枚の絵にたくさんの燈籠を描くことは理にかなっている。Nは「神社の造形」に関してどう思っていたか、あるいは絵画についてどうあるべきと考えていたか、そういう話を筆者はNとしなかった。神社ないし仏教に何らかの関心は持っていたようだが、そういう思いを作品に昇華出来るのは才能と年月を要する。覚悟もだ。ところが一方では創作活動以外の食べて行くために必要な生活がある。誰でもそうだが、思想を深め、技術を磨き、自分が少しでも納得が行く作品を生むことはほとんど奇跡に近い。アンドレ・マルローが熊野大社を見てどう思ったかだが、自然と調和した朱塗りの鳥居にまず目を奪われたのではないか。「神社の造形」はその自然の緑に対する朱色の鳥居や玉垣でほとんど表現し尽くされている。そしてそれは画家の手を借りずに、古代の無名の人たちが美意識にしたがって完璧に造り上げた。そういう美しい神社を画題に今の画家が新たに表現出来るものがあるとは思えない。手も足も出ない状態でそれでも神社を描くとなれば、それは抽象画になりそうな気がしている。そしてそれが具体的にどういうものになるかはとっくの昔に脳裏に描いている。朱色と少し土で汚れた白壁の対比で、つまりは巫女の衣裳と同じだ。そういう話をNとするには筆者は当時はまだ神社についてあれこれ考えていなかった。
●神社の造形―大原野神社、その1_d0053294_01372944.jpg
 先月22日に家内と出かけ大原野神社について今日を含めて3回投稿する。52年前の中3の遠足についてはさっぱり記憶がなく、それどころか間違った記憶が混ざっている。24日に樫本神社について書いた時、筆者は遠足ではその前を通らなかったと書いた。それは間違いだ。往路は善峰寺でバスを降りたが、大阪に帰る時は大原野神社の駐車場でバスはに乗り、大原野道を東向日へと走ったはずだ。ならば樫本神社の前は通っている。それに、先日は大宮通りを南下して右手に東寺の五重の塔を見ながら国鉄の線路を越える坂道を走ったと書いたが、東向日にバスが出れば、もう大宮九条まで戻る必要はなく、東寺を見ながら坂を上った記憶は別の遠足だ。それはいいとして、中3のその遠足はハイキングが主で、大原野神社はおまけのようなものであった。それほどに見るべきものが少ないと言うのではないが、とても慎ましやかな真っ直ぐに伸びる林の中の参道と、その突き当たりにある本殿がある程度で、大勢で訪れるとその味わいはなかなかわからない。それでも見ておくことは無駄ではない。いや、ほとんどは無駄だが、わずかな人物がわずかに記憶する。何でもそういうものだ。絵具は毎年大量に造られるが、名画に使われるのはそのうちのごくわずかにもならない。学校教育も同じようなものだ。社会に出てどれだけ数学が役に立つかと言う人がある。確かにそうで、大半の人にはどうでもよく、時間の無駄だ。それでもごくわずかな人にはそれが運命的な出会いとなる。だが、そういう考えは危険かもしれない。というのは、子どもが自分のことを普通かそれ以下の存在と思ってしまうと、生きる喜びが深く味わえず、やがてそのことから他人に危害を与える事件を起こすかもしれない。そのため、教育はどんな子どもにも生きる勇気を与えるものでなければならないが、現実はその反対になっていて、落ちこぼれは放置される。勉強のよく出来る子は放っておいても勝手にやるもので、先生からはほんの一言の励ましでよい。あるいはそれがなくても年月が経って学校でのことを反芻し、消化不良であったことを学び直そうとする。教育とは結局やる気を引き出す以外のことではあり得ない。にもかかわらず、現実はやる気を削いでいる。さて、今日の最初の写真は大原野神社を後にする時に撮った。右端のわずかな自転車の車輪は筆者のものだ。階段の途中に家内が写っている。着いた時に撮影しなかったのは筆者の撮影位置に、50歳くらいの男性が乗る車が停まっていたからだ。2枚目の写真は階段を上って北に延びる参道の途中で、左手の石燈籠の火袋に鹿が彫られている。これが見ものとなっていることは52年前の「遠足のしおり」に書かれていた。参道の突き当たりに見えている朱色を目指して真っ直ぐに歩いて行くのは、昔の恋人に会うような気分になる。3枚目は参道の途中に右手に広がる池で、奈良の猿沢の池を真似たものだ。
●神社の造形―大原野神社、その1_d0053294_01423304.jpg

by uuuzen | 2018-06-29 23:59 | ●神社の造形
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