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●『近世の京都図』
昨夜の「アマリ十五玄義図」の説明の後に続けて書くつもりが、長くなるので分けることにした。京大総合博物館2階の企画展示室の隣には、仕切りパネル1枚で隔てられた日本史資料の展示室がある。



●『近世の京都図』_d0053294_21302965.jpg企画展示室から見えているにもかかわらず、ほとんどの人は覗かずに去ってしまう。「アマリ十五玄義図」を見終わった後、仕切りパネルの向こうに行くと、『近世の京都図』が開催されていた。部屋は企画展示室と同じ面積で、小中学校の教室の半分程度だ。そのためたくさんの展示は出来ない。地図が6点、しかも全部複製で、ありがたみは乏しいが、複製とわかららぬほどよく出来ていてこれで充分と思えた。先月15日に奈良国立博物館で見た『東大寺公慶上人』については以前に投稿した。その時、勧進のために京都を訪れた公慶が、京都市中のどの道を歩いたかを赤い線で記した大きな地図が展示されたことに触れて、その地図が今複製されて販売されると、きっとよく売れるだろうと書いた。この大きな京都地図が今回、この『近世の京都図』に展示されていて、思わぬところで早くも詳しい情報を得ることが出来た。こうして毎日ブログを書いていると、少しは自分自身の向上に役立っているとは思うが、それは全部あちこちほっつき歩いて得た情報をたぐり寄せ、そこからさらに新しい興味を芽生えさせ、それが次の行動につながるからだ。このブログの文章を全部読む人はいないだろうし、また読んだとしてもそうした網の目のように事項が関連づいていることに気がつかないと思う。それはひとつには、すでに情報を得ているのに書いていないことが多いこと、そして、それを書く頃にはさらに新しい何かを得ているので、ブログの内容は最新の筆者の頭の中にあるものとは言えず、むしろ古い糞のようなものであるからだ。こんな言葉を使うからまた「下品」だと言われるが、人間はみな糞をするし、過去の思考は実際に糞のようなものだ。本ブログのシンボルを「動く金糞」にしているのはそんな思いからだが、何もこれは筆者の考案ではなく、たとえばザッパにも同じ思いがあった。ザッパは糞は糞でもそれを聖なる糞と言った。筆者は黄金の糞と表現することで一応それとの区別はしている。
 いきなり話がそれた。この京都の地図の小展示は、筆者にとってはグッド・タイミングで、わざわざ訪れた値打ちがあった。もしこの展示にぶつからなければ、あるいは数年は知識のないままであったろう。説明パネルの文章をメモして来たので、それを参考にしながら書く。現存する最古の刊行都市図は京都から生まれた。これは当然だろう。昔の京都が日本の中心で、全国から多くの人が訪れるからには、版画で地図を作って儲けようと考える人物が現われるのは容易に想像出来る。「都記(みやこのき)」というのがそれだ。刊行年は記載されず、版元も不記載だが、遊廓の島原が、現在の地に移転させられた1641年以前の場所に描かれているところから、同年以前のものであるのは間違いがない。これは通称「寛永平安町古図」と呼ばれ、この博物館が所有するものには蒹葭堂や鉄斎の蔵書印がある。そのため、これだけでもとても価値がある。蒹葭堂が大切に所有していたということは、200年前にはすでに骨董的価値が高く、なかなか入手しにくいものであったに違いない。何枚も残ってはいるだろうが、蒹葭堂が亡くなった後、1世紀ほどしてか、今度は鉄斎が持ったことのある、いわゆる来歴が明確という付加価値つきのものとしてはきわめて貴重で、それが今はこの博物館の所有になっているのは、収まるべきところに収まったということだ。この地図は洛中の街区のみを黒く刷り出していて、前述の遊廓は六条以北の室町と新町の間に「けいせい町」と記されている。現在の島原はこれより1キロほど西にあって、当時としては洛中の外れの田畑の土地に持って行かれたわけだ。地図の大きさは大体幅50、高さ120センチほどで、縮尺がきちんと整ったものではない。この「都記」をもう少し発展させたものが、次に展示されていた「平安城東西南北町並之図」だ。サイズはほぼ同じで、洛中の街区を黒で刷る点も共通するが、市街の東西南北に有名な寺社仏閣をぱらぱらと散在させて絵画的に描く。そのため、視覚的に楽しい。また武家宿が多く見られ、京に藩邸が形成される以前の状況を反映している。これら2点の地図はかなり素朴な感じのもので、京都に住む人にはほとんど用はなかったものに思える。洛中は東西がせいぜい3キロほどとごく狭い範囲にあり、しかも碁盤目条の道筋ゆえに、京都に住む子どもでも迷子にはなりにくくて、地図を必要としないだろう。
 次に登場するのが「新撰増補 京大絵図」で、1686年に林吉永が刊行した。「京大絵図」と言えば「京都大学の絵図」と思われるが、当然「京都の大きな絵図」のことだ。「新撰増補」とあるように、元の「京大絵図」を改作したものだ。墨版は同じものを使用しつつ、寺社や山川を多色刷りにして豪華さを増している。大体150×180センチほどの大きさで、1枚ものの地図としては画期的なサイズだ。版木や紙は特大ものを用意したことになるから、売価も予想以上に高かったかもしれない。こうした地図の需要があるほどに京都への人の出入りが活性化していたことを伝える。ところで、この地図の墨1色刷りのものに、最初に書いたように、公慶上人が京都市内を托鉢して歩いた道順が赤で記された。公慶が大仏殿再建のため、諸国勧進を幕府に請願したのは1684年で、1705年には江戸で亡くなるから、まさに林吉永が刊行したばかりの「京大絵図」を用いたことになる。奈良博の展示ではもっと大きなサイズに見えたが、それは間近でつぶさに道筋の名前などを確認したためでもある。以前書いたように、この「京大絵図」は洛中部分は1本ずつの道を詳細に描くが、周辺部は大幅に省略して、全体としては縮尺は統一が取れていない。だが、著名寺社や名所の解説などの地誌的記載が充実して、洛中洛外の観光図として画期的な様式を持っているとされ、今見ても楽しい。特に歩いて現在の京都の中心部を散策する人にとっては、同じ道筋であるにもかかわらず、どこの建物がどう変化したかが確認出来て、江戸時代の京都をせめて想像上にしろ味わうのに大いに利用価値がある。話が少しそれるが、1枚の地図の中で縮尺が違っているというのは、江戸時代に特有のことではない。筆者が初めて買った大阪市の地図は昭和45年のものだが、それにはこう書いてある。「此の案内図は利用度の高い中心部を詳細に表現するため周辺部は縮小変形してあります」。これは大阪市が大きいため、中心部の縮尺2万分の1を周辺部にも適用すると、地図が大きくなり過ぎるための措置だ。これより3年前に売られた、同じ大きさの紙に印刷された京都市の地図も所有するが、これは「京大絵図」とは違って、嵐山などの周辺部も市中と同じ縮尺になっている。
 話を戻して、残る3枚の京都図を紹介しよう。まず「増補再版 京大絵図」だ。これは1741年に同じ林吉永が刊行したもので、さらに詳細になっている。1枚ものではなく、「北山より南三条迄」と「北三条より南伏見迄」の2枚に分けている。こうした方が見るのに便利であるし、後で版を彫り変える時にもよいと思ったのであろう。京都には御土居と呼ばれる土盛りが洛中を大きく取り囲んで今もその一部は存在が確認出来るが、この御土居のうちの洛中を8分の1町(5000分の1)の縮尺で描き、町並みや道筋、屋敷名、寺院の宗派などが詳細に記載されている。また、図の南の余白には三条大橋を起点とする距離、方角を方位円盤型で表示し、実用的な地図としての体裁をより獲得している。林吉永は名前のある地図刊行者としては日本を代表する人物で、京都の次には「ゑ入江戸大絵図」、「大坂大絵図」も刊行している。後者は1700年直前頃に世に出ているので、18世紀を境にしてこうした詳細な大都市図が完備して行ったことになる。林の「京大絵図」の次に登場するのが、「改正京町絵図細見大成 洛中洛外町々小名全」で、これは天保2(1831)年に竹原好兵衛が刊行した。縦横180センチほどで、京絵図としては最大の1枚もので多色刷りだ。やはり洛中とその周辺部は縮尺を統一するが、縁辺部は次第に縮尺を小さくする。人気を博して幕末までの30余年も版を重ねた。同じく竹原が刊行した「洛中洛外新増細見京絵図大全 完」は1862年の刊行で、60×90センチほどの中型版だ。洛中の東西の縮尺は7500分の1、南北は8000分の1になっていて、幕末の世相を反映して禁裏を赤紫色で刷り、白色の菊紋を大きく描いている。以上の6点以後、ますます京都の地図は作られた。もっぱら古本屋や骨董屋が扱い、しかもカラー・コピーしたものを販売していることもあるので入手は比較的簡単だが、この100年間でもどれだけ京都が変化したかがよくわかって面白い。
 そのことは筆者が所有するせいぜい30数年前の地図でも同じことだ。道路や地下鉄などを初め、変化したところがとても多いことに今さらに驚く。それは洛中に相当する区域だけに限らず、嵐山などの周辺部でも同様で、都市は常に変貌していることを思わないわけには行かない。古都としての京都をどう保存するか、この議論は昔からさんざん繰り返されているが、いつの時代の京都が理想的な町並みで、しかもそれを再現することがいいのかどうか、この問題は簡単には片づかない。京都は他都市に先駆けて市電を導入するなど、革新的なことを積極的に行なって来た歴史を持つが、それにしたがえば、どんどんと新しくして行ってもよいことになる。江戸時代の京都の町並みは確かに甍の波で美しかったであろうことはよくわかるが、地震や火災を考えると木造建築本位の考えは退けられる。大火災で灰塵に帰した歴史を持つ京都としては、ただ美的問題だけで江戸時代の町並みを再現することはまずあり得ようがない。だが、一方ではこれではまずいという危機感が京都人にあることは確かで、景観問題をどう解決し、古き町並みをばどう保存して行くかは他都市以上に敏感になっている。これは日本が自国の誇れる文化をどう捉えているかという問題を抜きにしては論じられず、実際に多くの人々が住んで現代生活を享受している京都市が、ただ国民のノスタルジーによって、古風な木造建築に住むことを強いられてよいはずはない。また、実際はそうした建物に住みたくても、建築費や維持管理費が嵩むあまり、泣く泣く古い町家を取り壊しているのが現状だ。これは遺産相続の画一的な法律の問題もある。保存したくても出来ない事情があって、古い家並の保存問題は京都だけでは解決出来ず、国がもっと本腰を入れるべきことに思える。だが、それは言うのは簡単だが、あまりにも問題の範囲が大きいため、識者の少々の議論ではどうにもならない。結局は日本をどのような形の国に今後して行きたいかのヴィジョンを国民がどう抱いているか、それを明確に打ち出さない限り、ただずるずると京都は破壊されて行くだろう。破壊がなくては新しいものは建たないが、その新しいものが見えないにもかかわらず破壊のみ進行しているのが今の京都の姿だ。ある意見の一致を見て、それに向かってどんどん京都を改造して行くならば、そうしてやがて出来上がる新しい京都の町並みは、数百年後には世界に有名なものになっている可能性はある。だが、そんな大がかりな都市計画は現在のような民主主義では無理だ。強い権力を持った人物が登場すれば一気に解決する問題と言えるが、それは一方で犠牲になる多くの存在を生むはずで、たかが美的な町並みのために本末転倒をしてはならない。結局、理想的な町並みは地図のうえにしか存在していないのかもしれない。いつの時代でも京都人は今のままで町並みがいいとはきっと思わなかったであろう。それを考えると今も昔も一緒になるが、それにしても正直な話、この30年間だけでも、ここ嵐山ですら樹木が大激減して駐車場面積が10倍以上に増え、そして目立つマンションが林立した。これではよくないと思うけれど、もはやとめどがない。
by uuuzen | 2006-02-15 21:31 | ●展覧会SOON評SO ON
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