4日に京大西部講堂を撮影した後、通り向かいの総合博物館でこの展覧会の大きな広告看板もついでに撮った(下掲)。デジカメの充電したばかりの電池は、かろうじて2枚の写真を写す電力だけ残っていたわけだ。
この展覧会はTVでも盛んに紹介され、博物館開館以来の評判になっている。11日に染料を買うついでに足を延ばしたが、予想外にもたくさんの人が次々と訪れていた。筆者はこの博物館が2001年に出来てすぐに一度訪れた。その後玄関回りが少し改装されて、入りやすくなった。1階と2階が展示室で、それ以外の階は収蔵庫や研究室に当てられている。今回の企画展は2階の1室で行なわれたが、出品作品は絵画が1点と、それに付随していた容器などで、たった1枚の絵のための企画展だ。こんな展覧会は初めての経験だが、それでも見る価値は充分にある。この『マリア十五玄義図』という絵は、正式には「紙本著色母子十五玄義・聖体秘跡図」と呼び、昭和5年に茨木市下音羽の民家の屋根裏から発見された。2001年に重文指定を受け、2004年に修復、このたびはその完成のお披露目だ。重文指定を受けなければまだ発見された当初のままに置かれていたはずだが、絵具の剥落などが進行していたから、修復はかなり遅れたと言ってよい。昔から本で紹介はされてはいたが、今回修復が完成したものと比べると、当然のことながら皺や絵具の剥落が平らになって見栄えがよくなった。それからすれば、修復技術が進んでいる近年であった方がかえってよかったかもしれない。いずれにしても現時点で最良と思われる保存方法が採用されて修復されたのであるから喜ばしい。この絵は中央上部に幼子キリストを抱くマリア像を、下部左側にポルトガルのイエズス会を創立したイグナチウス・デ・ロヨラ、右側にフランシスコ・ザビエルを描き、周囲に15の絵をぐるりと配置する。絵の名称はそのことに因む。会場ではふたつ折りでカラー印刷のパンフレットをもらえた。15図の名称を順に列挙すると、「告知」「訪問」「生誕」「奉献」「神殿でのキリスト」「ゲッセマネの夜」「むち打ち」「茨の戴冠」「十字架の運び」「磔刑」「復活」「昇天」「聖霊降臨」「被昇天」「戴冠」で、イグナチウスの左に聖マチアス、ザビエルの右に聖ルチアが描かれる。イグナチウスとザビエルが聖人と記されているので、両者が死んだ後に描かれたことは確実として1622年以降、そして江戸幕府によるキリスト教大弾圧が激烈となった1630年代以前には描かれたはずだ。初期洋風画としては非常に貴重な作例となる。誰の作画かはわからないが、イエズス会などの宣教師が日本で開いた学校であるセミナリオに学んだ日本人が描いたことは確実であろう。器用な日本人が、宣教師がもたらした油彩画や水彩画をすぐに完璧に模写し得たことは当時の文書に残っているが、何しろキリスト教が禁止されてからは、南蛮屏風といった風俗画はさておき、こうしたキリスト礼拝用の絵はみな廃棄されるか、あるいは隠れキリシタンによって密かにかくわまれるしかなかったから、遺品はとても少ない。
南蛮文化は九州に最初上陸したが、当然それは京都に及んだ。フランシスコ・ザビエルら宣教師の一団が鹿児島に上陸したのは1549年8月で、これはザビエルがその前年にマラッカで鹿児島出身のヤジローという日本人に出会い、短期間にポルトガル語の読み書きを覚えた様子を見て日本に興味を抱いたことによる。鹿児島での布教は成功し、次に山口でも多くの信徒を得るが、ザビエルの志をついだ宣教師が京都に入ったのは1559年で、地道に伝道を進め、1576年には「昇天の聖母」教会を建設した。これは南蛮寺と呼ばれて、現在の中京区の蛸薬師新町東入ルに3階建ての木造としてあった。現在はこのあたりはキモノの問屋のビルがひしめいている。ザビエルの上陸から20年を経ずしての教会設立は、織田信長がキリスト教に寛容であったからだが、日本の伝統を尊重しない信長は一方で京都にあった石仏を建物の基礎に使ったりして、それが発掘されて今は京都文化博物館の中庭に展示されていたりする。信長が死んで秀吉の時代になると、当初は理解を示したにもかかわらず、九州の有力なキリシタン大名が相次いで亡くなった途端、ただちに宣教師追放令を出した。1587年のことだ。大坂や堺、京都の教会は没収され、宣教師は20日以内に国内から立ち退くことを命じた。これはキリストが力をつけて諸大名を次々と信徒にして行くその勢力に危惧を感じ、自分の天下統一の妨げになると思ったからだ。こうした動きがある一方、1593年、ポルトガルのイエズス会を牽制する目的でスペインのフランシスコ会の宣教師がフィリピンから秀吉を訪れ、そして布教禁止を無視して京都や大坂に教会を建てた。イエズス会とフランシスコ会は対立するが、このさなかの1596年、土佐にスペイン船が上陸する。スペインが領土拡張の方法としてまず布教し、次に軍隊を送って征服するという情報を秀吉は耳にし、すぐさまイエズス会とフランシスコ会の9人と、日本人信徒17人を京都で捕らえて九州まで送り、長崎で処刑した。これは日本初の大殉教としてあまりに有名だ。今は公園になっているこの西坂の丘に立ったことがあるが、殉教のことを知らないでも、なぜかしらいやな感じの空気が漂っている場所に思えた。秀吉が1598年に死んだ後、家康は初めは貿易を思ってキリスト教に寛大であったが、やがて秀吉と同じ考えを持って各地で弾圧を強化する。弾圧があれば信仰の炎はかえって燃えるし、また少々のことでは動じない宣教師は相次いで日本に潜入するが、しらみ潰しに信徒を摘発する動きはやまず、信徒が多かった長崎では1620年代半ばまで信徒への拷問が続いた。
絵が見つかったのはほとんど奇跡と言ってよい。絵は縦73.5、横61.7センチで、さほど大きくが、克明緻密に描かれているため、原本にかなり忠実に模写していることが想像出来る。絵が竹筒の中にくるくると巻かれた状態で収まり、長年の囲炉裏の煤によって両端が少々焦げてたが、掛軸というのは、絵の周囲に別の布を貼りつけるので、それが保護の役割を果たしたため、絵本体はほぼ無傷のまま伝わった。掛軸の仕立てには一定の決まりがあるが、この絵の場合、それは無視されていて、専門の表具師がしたのでないこと明らかだ。それがまた隠れた信仰の生々しさを伝える。今回は裏打ちされてあった和紙も別に展示されていたが、これも素人の仕事を思わせるもので、しかも後に補強を施した跡は何度も広げられては巻かれたことを証明し、信仰がそこそこの期間続いていたことがわかる。縦にふたつに割った竹筒の中に収めた状態のままでは発見される恐れがあるが、この竹筒を屋根裏の竹による他の補強材と同じように見せかけていたわけだ。それにしてもまさか江戸時代のままの屋根ではないはずで、家の人は密かに伝えて続けて来たのかもしれない。絵が発見されたのは、大正時代に京都からキリシタンの墓碑が発見されたことに触発された地元の研究家が、同様の墓碑を探し続けたことがきっかけにあった。この博物館には京都から発見されたキリシタン墓碑が10ほど保存されている。蒲鉾型と板碑型があって、前者はずんぐりとして大きな蒲鉾を横たえた形をし、後者はうすい板状で、上部が丸くて中央が尖っている。最も新しい年号のものは慶長18(1613)年のものだ。この翌年に幕府による弾圧が京都に起こり、信徒は壊滅的打撃を受けた。茨木の研究家が目をつけたのは、地元がキリシタン大名の高山右近の領地であったからであろうが、その意味で言えば、さらに高槻や茨木からは同様のものが出て来ないとも限らない。高槻城を築き、教会の建設や領民の改宗につとめた高山は、信長や秀吉にしたがったが、家康の治世下の1614年にマニラに追放された。そんな弾圧の嵐が吹き荒れる中、信徒は隠れて礼拝し、こうした絵も各地で密かに描かれたはずだ。どのくらいの信徒がいたか、その正確な数の把握は不可能だが、ザビエルの渡来から家康の大弾圧までの約70年間、洗礼を受けた数は数十万はいたと言われる。殉教者は資料でわかっているものだけでも4000人強で、実際はこの数倍とされる。当時の人口を考えると、こうした数値は決して少なくないし、信徒が必要とした礼拝用の絵もかなりのものになるはずだ。そんな中の1枚、しかもとてもていねいに描かれたこの絵が伝わるのは、当時の人々が同時代的にヨーロッパ絵画を知っていたことを改めて教えてくれて、その事実がどのように当時の人々の心の奥底に沈澱した記憶となっていたかと思う。ていねいに描かれているのは、信仰の対象として当然なことだが、見慣れない図像や画風を前にして、当時の人々がそれを宝物のように思ったことがよく伝わる。
日本の現在のキリスト教徒は人口の1パーセントほどだと思うが、それが一向に増えない理由を分析した本を先日の新聞が紹介していた。韓国は戦後急速にキリスト教徒が増えたが、日本は秀吉の時代からでも神国かつ仏教保護で、明治新政府になってもまだキリスト教徒を流刑に処していたから、キリスト教徒が今以上に日本に増えるには、今後数百年単位の年月における政治や思想の変化を待たねばならない気がする。そしてそれだけ待っても今以上に増加している保証はどこにもない。宗教にはもともと寛大であった日本人は遅れてやって来たキリスト教に対してもすぐさま受け入れたと言えるが、当時の日本は仏教が大きな支配力を持っていたから、どっちみちそれとの摩擦は避けられなかったであろう。鎖国があったから日本独自の文化が醗酵して育ったのは事実だが、秀吉や家康がキリスト教を弾圧しなければどのような文化が日本に育っていたか、それを想像するのは面白い。この絵は時代から言えばスペインの黄金時代であるバロック美術に相当するが、エル・グレコにあるような当時の最先端のモダンさはない。むしろルネサンスのシエナ派の絵に近い中世の趣があって、時代的には遡った古風さが支配的だ。ヨーロッパの田舎で量産されたような、どちらかと言えば民衆絵画に近い雰囲気が濃厚で、それがかえって当時の日本の民衆の素朴さと相まって独特の温かさを内蔵することになった。紙はさておき、絵具は全部ヨーロッパからのものを使用したのかどうかだが、これはパネル説明によれば日本にはない顔料が使用されているとのことだ。また赤外線撮影によると、下絵の線描が克明に見え、その流麗な線からは素人ではない人物の手になることがわかる。これは当然だろう。そして、そんな絵師が信徒ではない絵師と交わって、こうした西洋画の技術を直接あるいは間接的に伝えたかどうかに興味が湧く。きっとそういうことはあったはずだ。珍しいものに興味を抱く人はいつの時代にも存在し、そういう人々はどんな苦労もいとわずにそれに触れたいものなのだ。鎖国下の日本は出島を通じてオランダと通商し、細々とながらも洋画やその風は伝わっていた。それが一気に開花するのは明治になってからだが、去年の秋、滋賀県立近代美術館で見た『近代日本洋画への道』の最初に掲げてあった初期洋風画を思い出しながら、そんな作品が生まれるきっかけは全部ザビエルが来日したことに端を発しているのだと思うと、今年生誕500年を迎えるザビエルをもっと広く大がかりに紹介すべきだろう。