琴線に触れたことだけが長く記憶に残るのではなく、その反対に嫌なことをいつまでも覚えていることが多い。だが、それでは精神がおかしくなるので、よほど嫌なことでない限り、いつかはほとんど思い出さなくなる。
あるいは思い出しても心は痛まない。今日はまた52年前の中学3年生の春の遠足について書くが、どこを歩いて何を見たのかさっぱり覚えていないのに、往復のバスの中での全く些細な記憶がある。ただし、それもごくわずかで、実際は52年前の春ではないかもしれないが、たぶんそうだ。往路のバスでは筆者は友人のNと一緒に座席に座った。かなり空いていた記憶があり、仲のよい者と好きな座席に着くことが出来た。当時筆者はビートルズに夢中で、Nもそうであったので仲よくなったのだが、学級には筆者とN以外にビートルズのレコードを買って聴く者はいなかった。Nは駄菓子屋の息子で、筆者は学校帰りにNの家に立ち寄り、2階に上がったことが一度だけある。その時、制服姿のNの姉さんがふたりいた。その時の部屋の雰囲気はよく覚えている。これは3年ほど前にブログに書いたが、Nが肝臓癌て死ぬ2、3年前に筆者は何度か大阪で会い、一度は家内も一緒にNの家の近くの喫茶店に入った。その店は筆者の中1の同級生が経営していると聞いていたが、店の奥にその姿はなかった。姉が嫁ぎ、両親が死んだ後もNはその借家に住み続けたが、築半世紀以上を経た木造であったのにほとんど修理していなかった。Nが死んだ直後、借家を明けわたす必要から、長女が愛知の田舎から駆けつけ、高価な機器や机など、かさばる物を無料でNの近所に住む幼馴染が持ち帰らせた。しばらく経って長女は筆者に電話して来た。Nの残した紙類の中に筆者の手紙やはがきがあり、またケータイに電話番号が残っていたのだ。30分ほど話したが、長女は最後に新品同様のバッグを遺品として送るので受け取ってほしいと言った。予想どおり、バッグは送られて来なかったが、2年前のお盆頃に娘と息子を連れてわが家に車でやって来た。遺品はNが使っていたアコースティックのギターに変わり、ケースつきで新品の弦も2セットほど入っていた。それとビートルズのシングル盤とEP盤数枚だ。筆者とNがビートルズでつながっていたことを長女はよく覚えていたのだ。ギターを調弦せず、レコードはかけずにそのまま置いているが、それを見るたびにNを思い出す。Nの学校での成績はクラスの半ばほどで、宿題をして来なかった時、また先生に指名されて前の黒板に答を書かねばならない時など、筆者はこっそりとノートをわたして窮地を救った。筆者はNが怒ったところを見たことはないが、Nは筆者が癇癪持ちであると気づいていたろう。それでも級友の前でそんな姿は見せたことは、小学6年生の時に侮辱されたことに立腹した一度だけだ。

遠足のバスの中でNと筆者はビートルズの曲について語り合いながら、○分○○秒という表示を書いた紙をNに見せた。そこに筆者は「○:○○」と書いていた。Nはそれは間違いで、「○'○○"」が正しいと言った。当然それくらいは知っているが、「○:○○」でも誤りではない。それはビートルズのアルバムを見ればわかる。だがそのことを言わなかった。どうでもいいことであり、すぐにほかのビートルズの話題になった。復路の車中でよく覚えているのは、バスが大宮通りを南下し、右手に東寺の五重塔が見える頃、国鉄の線路を越える大きな坂を上って行った時の眺めだ。新幹線が開通して1年半ほどで、その高架が見えた。たまに市バスでその坂を通ると、52年前の遠足での眺めを重ねる。さて、今日の本題だ。「京都西山方面 遠足のしおり」によれば、バスは5号車までだが、参加した生徒の合計は122人だ。これは学年の生徒数の3分の1だ。3分の2はどうしたのだろう。その記憶がない。欠席ということはあるまい。おそらく当日の遠足は3つの班に分かれたのではないか。何となくその記憶がある。また生徒が分けられたとして、生徒はコースを選べたのかどうかだが、そうではなかった気がする。前述したようにバスがとても空いていたのは1台に乗る人数が少なかったからだが、最初から122名の参加であることがわかっていれば5台は不要で、ぎりぎり3台で済む。そうしなかった理由はわからない。それはさておき、京都への遠足であれば、今も観光客に人気の金閣寺、清水寺、嵐山が相場だが、西山の善峰寺と三鈷寺、そして大原野神社の3か所となると、中3にとってはあまりに渋く、記憶にほとんど残らない。西山を選んだのは「京都西山方面 遠足のしおり」を作った筆者の担任の先生であるはずだが、あるいはその地が中学生の遠足の地としてはふさわしくないという意見が職員会議で出たので生徒を3つのグループに分けたのかもしれない。たぶんそうだろう。この遠足の目的は、古い社寺を見ること以上にハインキングで、そのルートも「京都西山方面 遠足のしおり」に記されているが、筆者は全く歩いたことを覚えていない。これは大勢でぞろぞろと歩き、景色を楽しまなかったからだろう。だが、確かにこれらの寺社を訪れたことは、筆者のアルバムにある白黒の小さな3枚の写真からわかる。52年も前のことなので忘れても仕方ないと言えるが、その意味で写真は大切な記録だ。3枚のうち1枚のみがどこで撮影したものか判明したし、またそこにはNも写っている。琴線に触れるようなものでは全くないので、その写真を次回かその次に載せようかどうか迷っている。