締締め出されるのが午後6時で、それまでには3、40分の余裕があったと思うが、写真だけ撮って次に予定していた場所に向かった。いつもそのように慌しく行動するが、短時間でも印象が強い場合がある。

5月3日に生國魂神社を訪れた時は日差しがかなり傾き、また閉門までさほど時間がないと多少焦っていたからだが、それは人間で言えば最晩年に近いことだろう。では最晩年になると、それまで以上に毎日が印象深いかと言えば、その最晩年は本人にはわからない場合がある。50歳ではまだまだ人生はこれから楽しむという気持ちがあるが、突然事故で死ぬことがある。だが、70、80まで生きると、その頃からはいつでも最晩年で、本人もそれを自覚した方がよい。そして、それは日没前の太陽が眩しい時期で、心のどこかでいずれ死ぬことを想像している。そうなれば毎日は変化がなくてもいとおしくなり、済ませるべきことはさっさとそうしておこうという気にもなるのではないか。5月3日の生國魂神社参拝は、筆者にとっては当日のほとんど最後の予定であったので、それをこなしたことでとても気が楽になった。また、何度も書くように境内は思っていた以上に変化に富み、その大阪らしさが高津宮とはまた違った面白さがあった。まず昨日の3枚目の写真の「鴫野神社」を説明するが、絵馬と提灯に黒い錠前と赤で大きく「心」と書かれる。民藝を思わせる力強さで、造形的にとても面白いが、よく見ると「心」の点画は錠前に突き刺さっていて、心に鍵をかけている状態だ。社の中にたくさんの絵馬がかけられていて、それも同じデザインで、参拝者は何を目的に訪れるのかだが、縁切り、縁結びというから女性が大半であろう。鴫野の地名は大阪に住んだことのある人は聞いたことがあるはずだが、その名前からして鴫が多い野原で湿地帯であったことがわかるが、南北を走る今里筋と寝屋川に囲まれた三角州だ。現在はその西半分の先端までの区域に大阪ビジネスパークがあって、大企業の超高層ビルが並んでいる。TVで大阪城が遠目に映し出される時、天守閣の背後に超高層ビルが衝立のように林立するが、それらが建つ地域で、大阪城の東北にあって弁天島と呼んだ。そことその南部つまり大阪城東部には、戦時中は陸軍の大砲を造る工場があった。戦後はその古鉄を夜間に盗む在日朝鮮人を活気豊かに描いた開高健の小説「日本三文オペラ」の舞台になったが、長らく放置されていた。筆者は国鉄の環状線の車窓からそれらの地域を子どもの頃から眺めて来ただけで足を踏み入れたことがないが、電車の窓からでもあまり行かない方がよい雰囲気があった。現在はかなり変わって住宅も多くなっているようだが、JR環状線の大阪城公園駅から東に筆者は歩いたことがなく、また同駅の東北1キロの片町線の鴫野駅にも下りたことがない。それほどに大阪市は広く、大阪に生まれて高齢に達している人でも全域を知る人は少ないだろう。

「鴫野神社」は鴫野にあった神社との意味だが、前述の三角州つまり弁天島にあった。弁天というのは弁財天を祀っていた神社があったためだが、そこに弁天島で死んだ淀君が参拝していた。その社は大阪ビジネスパークが出来ることになって移転の必要が生じた。それがいつかは知らないが、地下鉄の谷町線の工事のために生國魂神社の参道が短くなり、蓮池がなくなったことと同じで、高度成長期だ。つまり、生國魂神社はこの半世紀でかなり様相を変え、あちこちから神社が移転して来た。鴫野神社のひとつくらい、元の場所に置けなかったかと思うが、大阪市が決めたことで、大企業の巨大ビル群の中にぽつんとあるのは土地の利用面からもったいないと考えられたのだろう。また神社を集約化した方が参拝者には便利という考えもあったはずで、会社員以外は訪れない大阪ビジネスパークよりかは繁華街に近い生國魂神社の方が多くの人に気づかれる。とはいえ、元のたたずまいがどのようであったか、写真は残っていないのかと思う。「鴫野神社」には弁財天とともに淀君を祀るが、縁切りと縁結びの御利益があることの理解はわからない。だが、強い女であった淀君であるので、悩む女性が参拝するのはもっともなことだ。さて、今日の最初の写真の鳥居は
「その3」に投稿した2枚目の写真の中央奥に写っている。数段の階段上に鳥居があって、それをくぐることは舞台に上がって別世界に行くような感じがある。大阪天満宮は南森町にあって、北から連なっていた森の南方に天満宮が造られたが、境内に森は残っていない。ところが生國魂神社にはごくわずかだが、今日の2枚目の写真のように、これが大阪のど真ん中かと思うほどの緑に囲まれた小径がある。わずかだが、ないよりはずっとよく、毎日歩く近所の人がいるだろう。境内にあった案内板によれば、「生玉杜散策道」と呼ぶ。戦前から変わらないのか、戦後に造られたものかはわからない。生國魂神社は戦争で大きな被害を受けたので、こうした散策道はたとえば江戸時代からあったとしても、何度も規模が変化して来ているはずだ。写真では雨で小径がぬかるみにならないように石が敷かれ、また雑草を刈り取り、樹木を適宜剪定するなど、手入れが行き届いている。これは寺社の基本で、必ず毎朝箒で掃かれる。その掃き清められた様子に気づいても何とも思わず、ゴミを捨てる人は寺社を訪れる資格がない。箒の跡目が見えると、そこに黙々と毎日作業する人がいることに思いを馳せ、そのことでわが身を振り返るのが寺社を訪れるひとつの効用で、「清め」を自覚して身の処し方もそうありたいと思うべきだ。2枚目の写真は鳥居から小径を50メートルほど南下して鳥居を振り返って撮った。小径を抜けると右手に3枚目の写真の社がある。「皇大神宮」で、天照皇大神を祀る。