外に出れば暑いが、家の中ではひんやりと感じる季節だ。そういう時期に聴けば心地よい曲がいくつかある。今日は去年の「レコード店の日」でもらったLPがらみで書く。
去年の4月下旬、大阪のタワーレコードでザッパのミニLP『ROLLO』を買った時、抽選で中古LPが1枚もらえた。200枚ほどあって、さしてほしいものがなかったが、ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスを見つけ、迷わずそれにした。そのアルバムを知っていたからではない。彼のアルバムはその時初めて見た。『GOING PLACES』とあって、ジャケットには飛行機に乗る笑顔のアルパートと網タイツで横たわる女性が写っている。1960年代は女性をジャケット写真に使うことが大いに流行したが、イージー・リスニングのアルバムでは特にそうであった。アルパートはそれに倣ったのではないかもしれないが、女性とドライヴすることが夢であった当時、このジャケット写真は日本の男性にとってはかなり非現実的で、アメリカの成功者を体現していると思えたであろう。だが、よく見ると飛行機を運転するのは別の男性で、アルパートは日当たりのよい後部座席に座り、女性もほとんど日陰に入っている。デザイン的に目立たないジャケットだが、明るさは収録曲と釣り合っている。ようやく1年経って先日数回聴いたが、最初のは曲「ティファナ・タクシー」で、アルバムの邦題はその曲名と同じになっている。「第三の男」や「ウォーク・ドント・ラン」、「その男ゾルバ」など、名曲のカヴァーが目立ち、ジャケット裏に1969年の発売が記されるが、アメリカでは65年に出ている。日本でシングル盤がよく売れたので、旧アルバムを出そうという話になったのだろう。当時そういうことはよく行なわれ、欧米の大人気と日本のそれとでは数年の開きがある場合があった。筆者が中学生になってラジオでビートルズなどの洋楽を聴き始めた時、常にアルパートの曲がヒットしていたが、よく覚えているのは「蜜の味」で、これが大ヒットした。当時ビートルズやヴェンチャーズもこの曲を取り上げていて、ラジオでは聴き比べが出来た。筆者が最初に知ったのはビートルズの63年の録音だが、今調べるとアルパートの演奏は65年で、またビートルズの曲よりもはるかに頻繁にラジオから流れた。この曲は60年のブロードウェイ・ミュージカルに使われたとのことだが、ポール・マッカートニーはデッカ・オーディションで「ベサメ・ムーチョ」を歌ったから、曲の好みがリズム・アンド・ブルース一辺倒ではなく、幅広かったことがわかる。また、当時は他人の曲をカヴァーすることがとても多く、日本のポピュラー歌手はほとんどが外国のヒット曲を日本語訳で歌った。その傾向が下火になるのは70年代で、カヴァー演奏が禁じられたのではなく、オリジナル曲を歌う新たな世代のミュージシャンがたくさん登場して来たからだ。
ビートルズは64年まで他人の曲を盛んにカヴァーしていたが、それらがオリジナル曲と一緒にLPに収まると違和感がなく、それほど原曲をよく咀嚼していた。同じことはハーブ・アルパートにも言え、彼はトランペットでどの曲も自分のオリジナルのように染め上げた。「蜜の味」の頃、矢継ぎ早にヒット曲があって、筆者はビートルズと同じように作曲の才能があると思っていたが、『GOING PLACES』のレコード盤の作曲者名を確認すると、「ティファナ・ブラス」にアルパートの名前がないどころか、本人名義の曲は皆無だ。60年代の終わりにアルパートは「ジス・ガイ」をヒットさせ、そこでは初めてヴォーカルも披露したが、これはバカラックの曲であった。演奏家、編曲者として世界的に有名になることは珍しくないが、アルパートはその「ティファナ・ブラス」というバンドの名前が示すようにメキシコの音楽の要素で時代に快活感をもたらした。メキシコの音楽を「マリアッチ」と広く言うが、アルパートの音楽はアメリカ人によるメキシコ風であるためか、「アメリアッチ」と当時呼ばれた。「ティファナ」はJ.J.ケールにも縁があって、アメリカ西海岸はメキシコの要素を取り入れやすい環境にあるが、アルパートの出自をWIKIPEDIAで見るとユダヤ系ルーマニア人で、ロサンゼルス出身で南カリフォルニア大学に在籍中にマーチング・バンドで演奏している。63年の、28歳だろうか、自宅のガレージに録音スタジオを造り、メキシコのマリアッチ・バンドの曲を楽譜に起こして演奏を録音、その冒頭と末尾に闘牛場のざわめき音を加えてシングル盤「悲しき闘牛」を製作し、それがラジオで広まって人気が出た。同曲は女性の歌声やデュアン・エディを思わせるギターを加え、60年代前半の雰囲気が濃厚だが、闘牛場の観客音はビートルズの「サージェント・ペパー」にヒントを与えたのではないか。この曲は日本でも紹介されたが、最も古いジャケットでは演奏者は「ティファナ・ブラス」と印刷され、青を基調とした牛のイラストとなっている。その雰囲気は63年そのもので、アメリカでのヒット数か月後に発売されたのであろう。だが、日本初の大ヒットはやはり「蜜の味」だ。前述したように同曲はヴェンチャーズが演奏したが、彼らは「悲しき闘牛」もカヴァーし、一方でヴェンチャーズのヒット曲をアルパートがカヴァーしたので、アルパートの位置はヴェンチャーズに近かった。アルパートがカヴァーして大ヒットし、またあまり知られない曲をアルパートがカヴァーすることで、作曲者よりも曲そのものが有名になった。その点でもヴェンチャーズに通じるが、それはビートルズにも言えたのであって、60年代はそのような名曲が多く生まれた。
「闘牛」となるとスペインかと思わせ、また「ティファナ・ブラス」という演奏者名ではメキシコのグループかと勘違いされるが、60年代の筆者はアルパートの国籍がよくわからなかった。今にして思えばそれは『GOING PLACES』のジャケットに写る飛行機からも暗示されている。アルパートは世界を股によい曲はどんどん演奏する意欲があった。その国際性はかえってその後世界が狭くなったにもかかわらず、廃れたように感じる。ヴェンチャーズがアメリカ、ビートルズがイギリスというように、明確にどの国の音楽かがわかる、また聴き手が意識するようになったのも、60年代だが、アルパートがメキシコの国境に近いところで暮らし、メキシコの音楽に魅せられ、それを世界で通ずる味わいに変えたところに、大ヒットする理由があった。本場のマリアッチそのもののサウンドではあまりに濃すぎて通好みになる。ローカルで人気が出ても世界で有名になるにはアメリカの流行サウンドを意識する必要がある。それが絶対とは言わないが、ローカル色が強すぎると民俗音楽のように認識され、ラジオ局が取り上げない。そこで多人種国家のアメリカではそのローカル性を香りとして保ちながら、全体的には都会的な洗練を求めるが、それはアメリカが巨大な音楽市場を持っていたためでもあって、それほどにアメリカは世界のあらゆるものを飲み込む力があった。戦後の日本はそのアメリカの圧倒的な影響下でアメリカでヒットする曲が次々と紹介されたが、これは国力の戦いでもあって、日本が力をつける一方でアメリカ経済が芳しくなくなると、日本の文化が世界でもてはやされるようになった。今はその真っ盛りにあるが、音楽に関してはなかなか厳しいのが現実ではないか。ここ30年ほどは日本でもヒップホップが盛んだが、それもアメリカ、しかもその黒人譲りであって、洋楽という呼称はもう古過ぎるが、日本はアメリカの流行を数年遅れで追っている。ただし、音楽ではなく、コミックやアニメから発した「かわいい」要素が音楽に持ち込まれ、その日本の民俗的部分は経済力を背景に洗練されてもいるので、海外にも日本の音楽ファンを生んでいる状況だ。そういう中から世界的な名声を長く保ち続けられるミュージシャンが出て来るかどうかは誰にもわからないが、ネット社会になってあらゆる音楽を瞬時に再生出来るようになり、オリジナルの名曲を求める雰囲気が希薄になっている気がする。新しく作るのはメロディではなく、新しいアレンジという意味においてで、カヴァーすることで昔はさして知られなかった曲が有名になるのではないか。そしてそのことをハーブ・アルパートは60年代にさんざんやった。

アルパートの曲を何かひとつとなれば、筆者は「マルタ島の砂」が好きだ。そのシングル盤を10年ほど前にネットで買った。それをようやく今日紹介する。このレコードのB面はビートルズの「アイル・ビー・バック」で、レノン・マッカートニーの作品としてこれを取り上げるところに渋さがある。アレンジもなかなかよくて、オリジナルかと錯覚するほどだ。このレコードは70年の発売で、「ジス・ガイ」の後にあるが、アルパート人気がいつまで続いたかとなると、「マルタ島の砂」以降はあまり聴かなかった気がする。ただし、ラジオの番組のオープニングで彼の音楽がテーマ曲として長年使用され、時代を超えた古典としての風格を保ち続けた。それは日本だけのことではないだろう。レコード会社のA&Mの社長であることは80年代に知ったが、当時筆者はアルパートが世界的に有名、つまり金持ちになったのでその会社の権利を買ったと思っていた。ところがWIKIPEDIAにはアルパートが自分のレコードを発売するために創設した会社とある。彼は商才にも長けていて、『GOING PLACES』のジャケットさながらの成功者となった。日本で彼の音楽が歓迎されたのは、トランペット音楽のブームが数年前にあったことにもよるだろう。筆者が10歳になるかならない頃で、東京オリンピックの数年前だが、わが家にはラジオしかなく、ベルト・ケンプフェルトの「星空のブルース」やニニ・ロッソのトランペットも頻繁に流れていた。ただしそれらは「夜」や「静」のイメージであるのに対し、アルパートの音色は「太陽」と「動」であった。それがよかったのだろう。高度成長期に日本によく似合ってもいて、その明るい音色が今聴いても古さを感じさせず、最初に書いたように5月の爽やかさを連想させる。「マルタ島の砂」はアルパートのオリジナルと思っていたが、今ジャケット裏面の説明を読んでベルト・ケンプフェルトの作品であることを知った。これは初耳で、アルパートはケンプフェルトに大いに感謝せねばならない。ケンプフェルトはビートルズのデビューに関係し、またフランク・シナトラの「夜のストレンジャー」も作曲したが、60年代におけるドイツを代表するポピュラー音楽の作曲家としてその功績を改めて知る。邦題「マルタ島の砂」の「砂」は原題にはないが、「砂」は夏のイメージで、曲調によく合っている。マルタ島は地中海に浮かぶから、当時筆者はアルパートの国籍がますますわからなくなったが、マルタ島の民謡のメロディをケンプフェルトが採譜して作曲したのだろう。筆者は5月になるとこの曲のメロディを口ずさんでいることがよくある。そしてそのメロディはいつの間にかジリオラ・チンクエッティの「雨」のメロディにつながる。マルタ島はシチリア島に近いので、それは当然かもしれない。