旅が散歩になるほどに交通が発達し、一方で情報が格段に簡単かつ大量に得られるようになったので、行きたい場所が少なくなって来たように思う。

日本に訪れる外国人観光客は体験型が増えているそうだが、それはネットで見た名所を訪れるだけでは楽しい旅ではないことを意味している。画像や映像を見て行った気分になることと実際に行くことでは、想像と体験という大きな違いがあるが、その体験が想像していたことと大差ないか大したことがない場合がままある。それで行ったことのない名所が無数にあっても、想像することで充分と思うようにもなる。筆者は数泊する旅はめったにせず、たいていは日帰りが可能な場所を訪れるが、それは江戸時代であれば2、3泊は必要であったから、旅と言える遠方の度合いが小さくなって来た。つまり、「散歩」の範囲が拡大したが、リニア新幹線が出来ると日本中が散歩の範囲に収まり、「旅」は宇宙に行く場合に使うようになるだろう。それはともかく、筆者のこのブログは「散歩記」と呼ぶにふさわしい近場ばかりを取り上げ、「旅行記」を読みたい人には無価値かと言えば、たとえば大阪にある神社は北海道や沖縄に住む人にとっては旅する遠方にあるから、「散歩記」であることを恥じる必要はない。それに近場の散歩であっても訪れたことのない場所は多い。高津宮もそうで、筆者は認識を新たにしたことがある。そのひとつは今日の2枚目の写真だ。これは本殿前の南に一直線に延びる坂の階段を折り切った左手にあって、大きいのでよく目立つ。「恒富庵」と彫られ、美術に詳しい人には即座に北野恒富のためのものであることがわかる。独特の書体は河東碧梧桐のもので、これも書に多少関心のある人には言うまでもない。そばの石柱には「筆塚」とあるので、石碑の下に恒富が使った筆を納めてあるのだろう。恒富は美人画で有名で、金沢出身の大阪を代表する画家のひとりとされる。大きな展覧会がここ10数年の間に数回開催され、人気が増しているが、東京の鏑木清方や京都の上村松園とは違って女の艶かしさを表現し、美術の教科書では紹介されにくい。それだけ大人向きの画家であったと言い換えていいが、恒富は女をどう捉えるかということを考えながら、定型的な表現に嵌ることを拒否した。清方や松園の美人画は実在のモデルを使って描いたにしても作品はどれも同じような、端的に言えばきれいな人形のような理想性がある。それに対して恒富の作品は1点ごとに振り出しに戻って女を捉え直したと言ってよいほどに多様だ。女はさまざまであるから絵も当然そうなるはずだが、さまざまな女を肉薄した感覚で描くには女によく添い、その本質を知る必要がある。これは「女遊び」をしながら、それに溺れ切らない覚悟が前提となり、そのぎりぎりのところに恒富の美人画は存在している。だが、恒富の美人画の女性がすべて清方や松園に代表される清楚さと対局にあるのではない。清楚さも含んであらゆる女っぽさを恒富は見ていた。

「その1」で縁切り坂や相合坂について触れたが、「恒富庵」の碑はそれらの坂によく釣り合っている。この碑が高津宮に設けられたのは、恒富の家が近くにあったからだ。また恒富はまだ明確ではなかった大阪画壇を意識し、大阪の画人のまとめ役を買って出たところがあり、「恒富庵」の碑も恒富に学んだ生田花朝女らが発起人となって建立された。生田花朝女は島成園より少し年長だが、女流画家としての評価は島が圧倒している。島の作品は恒富の美人画を女性の立場から描き直したものと言えばよく、美醜を超えて凄まじい迫力がある。筆者はその作品よりも花朝女をより好むが、花朝女の写真はなおその人柄を直接知りたかったと思わせる。美人ではないが、小柄で芯がしっかりしていて、また優しそうだ。いかにも大阪の女という感じがして筆者はその写真を見ることに飽きない。その花朝女が師の恒富の石碑を建てたひとりであることは、高津宮が大阪画壇を代表するひとつの場所であったことになる。境内図によれば本殿のある高台の東端は梅林があるが、参道の両脇は公園の緑が広がり、「恒富庵」の碑を多少下がったところに「梅の橋」という小さな橋が架かる。この下にはかつて道頓堀につながる川が流れていたそうだが、今は梅ではなく桜の林になっている。上には梅林があるので下は桜がいいとされたのだろう。今日の最初の写真は本殿東の「高倉稲荷神社」で、境内図によればこの右手に「安井稲荷」があるが、筆者はわからなかった。商売の街である大阪であるからには、高津宮にも稲荷の社が必要だ。「安井稲荷」のすぐ北に階段があり、そこを下りると陰陽石と三神を祀る「谷末社」があるが、これも見ていない。比較的狭い土地に建物が密集していて、その隙間にあるような社は見つけにくい。それに当日は先を急ぐ必要もあった。今日の3枚目の写真は境内南端の鳥居で、筆者らは通常とは反対に北から入って南に出た。鳥居を筆撮影している時、初老の夫婦が鳥居脇の案内図を見ていた。近隣住民ではなく、またかなり遠方の旅人でもなさそうで、筆者らと同じように電車に乗って大阪見物にやって来たのだろう。写真を撮った後、西へと歩くと、ラヴ・ホテルが2,3軒あって、3、40代のカップル2組が中に入って行くところに遭遇した。恒富が生きた時代はどうであったのか知らないが、連れ込み旅館が並んでいたのかもしれない。ホテル横の道を南下しようと思うと、前方に信号がない。振り返るとちょうど女が下を向く男の手を引き、嬉々としてホテルに入って行くところであった。息子もその様子を見たが、どう思ったことであろう。家内はそういう風紀上よろしくない場所を早く脱出したがった。筆者は右往左往しながら、結局元の松屋町筋まで出た。3枚目の写真の下端は右つまり東が高くなっていて、松屋町筋は上町台地の坂下にあることがわかる。