雀に米を毎日与えている。午前10時半頃になると裏庭で数羽がよく鳴くので、急かされている気分になる。

炊いたご飯を1000粒ほど容器に移し、小麦粉をからめてパサパサにしたうでフェンスの上に紐でくくりつけると、10秒後には数羽が舞い降りる。食パンの耳を細かく切ったものを与えたこともあるが、雀は違いをどの程度認識しているだろう。まずければ食べないはずで、餌をいろいろと変え、容器が空になる時間を計ると、好みがわかる。それには容器の色や形も影響するかもしれず、雀に美的感覚があるかどうかを知る手がかりにもなりそうな気がする。この美的感覚は現代の商品にはとても重要で、同じ内容でもそれを収める器が違えば売れ行きが大きく左右する。器の形状だけではなく、商品の名前やその文字の大きさや色合いなど、目に入るあらゆるものを吟味して中身がよく思われるように工夫しなければならない。商品の開発とともに、それを収める器のデザインにも気を配る必要があって、商品の販売には、また大規模に売るには、多くの人材が欠かせない。そのため、大企業の商品ほどよく売れることになって来たが、日本中どこでも同じ商品が入手可能となったのはいいが、その変化のなさを退屈と思う人がいて、新製品が考案され続ける。つまり、大資本による絶対的な人気を誇る商品でも、新登場の商品にいつ座を追われるかわからない。そのため、古くから売られる商品でも、はっきりとはわからない程度に少しずつ中身も器も時代に合わせて新しくする。その代表のひとつが森永のキャラメルで、筆者はその黄色い箱をスーパーの片隅で見るたびに、昔と同じでありながら、細部が変化して来ていることに気づく。それでもぱっと見は昔のままで、それが嬉しいような、古臭いような、奇妙な感覚に囚われる。そして味はどうかと思うが、買ってまで食べようとは思わない。小学生の筆者が毎日10円で買って食べたキャラメルはグリコのもので、たまに明治の白いキャラメルであった。前者は粒状のアーモンドが入っていて香ばしく、後者は赤い箱に白い雪の模様が散らばっていて味も独特だったが、今も同じデザインで売られているのだろうか。キャラメルを置く店とは別に、子ども相手の駄菓子専門店があった。これは以前に書いたことがあるが、小学5,6年生の時、近所の駄菓子屋でくじを引くと、1等賞が当たった。それには2種類の砂糖を固めた商品があってどちらかを選べと店主に言われた。筆者は抽象形の大きくて真っ白なものよりも、その3分の2ほどの容量の桃色で染めた鯛の形の方を迷わずに選んだ。前者は熨斗を象っていて、それもめでたいものには違いなかったが、鯛の方が見栄えがよいと思った。

昭和30年代はまだ駄菓子屋にそういう砂糖菓子を卸す店があった。そうしたものは森永や明治、グリコとは違って、家内工業的に作られるもので、東京オリンピックを境に急速にそうした店は姿を消した。今でも大阪の松屋町筋を歩くと、駄菓子屋に卸す菓子や玩具が売られているが、そういう店は東京オリンピック以降は激減したであろう。とはいえ、駄菓子工場は今もあり、また今後も大手の菓子メーカーの隙間を縫って安価な商品を製造し続けるだろうが、前述の鯛や熨斗を象った砂糖菓子はごく一部の高級店に座を譲った。
5月3日に家内と息子を連れて大阪市内を歩いたことは先日書いた。大阪に着いて最初に訪れたのはLIXILギャラリーで、今日取り上げる本展を見た。案内はがきが楽しい図案で、郷土玩具との関係を思わせたが、実際郷土玩具と「ふるさとの駄菓子」には共通点がある。そのことは今日の写真からでも明らかだ。日本が高速道路で結ばれない時代は、各地が個性的な文化を育み、玩具も駄菓子も独特なものがあった。大手のメーカーが量産の大ヒット商品を出しても、そういう手作りの玩具や菓子はひとまずは健在で、棲み分けた時代があったが、今ではコンビニが日本全土を覆い、そこで売られる商品はどれも日本を代表する大企業が作るものだ。かくて郷土玩具や「ふるさとの駄菓子」はほぼ全滅し、現在70歳以上の人を中心に懐かしいものとして記憶されるだけになっている。それで、若い世代がそうした昭和全盛期の玩具や駄菓子を懐かしがって復元する動きは今後も散発的にあるかもしれないが、大きな力となることはない。TVの何の宣伝か忘れたが、吹き飴細工で鶴を作る人の作業を大写ししたものがあって、祭りの縁日ではつきもののそういう菓子は、子どもの頃の筆者も何度か買ってもらったことがある。目の前で麦藁の先端につけられた飴の塊がみるみるうちに膨れ、そして要所に鋏が入れられて引っ張られ、次に筆で多少色づけされると鶴が完成する。手品を見るような思いがしたものだ。そういう技術は復元が容易としても、造形のレパートリーが問題だ。誰かが師匠からすべてを伝承していると思うが、数を作らねば技術は落ちる。そして今ではそういう楽しい菓子は、キャラクターの小さな人形がついた大量生産の菓子に席を譲り、幼ない子どもたちはあまり喜ばないだろう。もっとも、昔も本当に喜んでいたのは大人であったかもしれない。細工の技術というものがそれなりに評価され、また身近にいくらでもそういう職人がいたが、大量生産が全盛となって、そういう人たちは職を失った。手先の器用さや伝統的図像とそれに関係する造形が急速に失われようとする時、それを察して記録する人は必ず存在する。だが、形ある物として残る郷土玩具では無数の研究者、収集家がいるが、食べて消える駄菓子に目を留める人は稀ではないか。

本展は明治から仙台で営業する「石橋屋」の2代目の石橋幸作という人が、50年を要して仙台を中心に日本の各地を訪れて収集した「ふるさとの駄菓子」を紹介する。氏は1900年生まれで1976年に亡くなっているので、戦前から収集作業をしていたことになる。いくつかの方法で記録、分類したが、片っ端から駄菓子店を訪れ、めぼしいものがあれば入手して描き、またパルプに膠を混ぜた手製の粘土で同じものを造形し、着色するものが主で、作った数は1000点以上に及んだ。菓子であるからには味も復元出来るようにすべきだが、その点も感想を記録したのではないか。また、「ふるさとの駄菓子」は形や色はさまざまでも、材料はだいたいどこでも同じか似たものを使うから、その素朴な味わいは復元が容易であろう。その素朴な味ゆえに駄菓子は大手企業の商品に駆逐されたとも言えるが、たとえばグリコのアーモンド・キャラメルの製造には、アーモンドの輸入が必要で、個人経営ではなかなか太刀打ち出来ない。またキャラメルは1粒ずつ紙に包まれて衛生的で、それも駄菓子より優位に立つ理由ではなかったか。だが、その四角い形には遊びの要素は全くない。石橋幸作が収集した駄菓子は造形的に独特なもので、味よりも見栄えに重点がある。あるいは味は素朴でどこでもさして変わりがないので、形の変化で特徴を出すという考えがあった。またそこには食べて消えるものであっても、形の美しさを尊ぶ意識があった。その考えは現在の大手菓子メーカーにも残っていて、コアラや魚、きのこなどの面白い形の菓子があるが、郷土玩具に共通する、つまり日本の江戸時代から続く信仰や祈りに関係するものは皆無だ。これは日本らしさという概念が失われたのか、あるいは変わっただけなのか、そういうことを本展は考えさせる。とはいえ、「ふるさとの駄菓子」が完全に大手企業の菓子に地位を奪われたかと言えば、そんなことはない。本展で紹介される駄菓子には、全く同じ形や色合いではないにしても、スーパーで安価で売られるものがある。たとえば3色団子だ。その色合いの美しさは今後も忘れられることはないだろう。となれば、逆に石橋幸作が描いた、あるいは紙粘土で模した菓子を復元することは、採算が合うかどうかの問題を度外視すればたやすい。本展のような展覧会を石橋幸作が予測して全国を歩いたかと言えば、そういう時代が来るとはかすかに思ったであろう。消えて行くものを記録すると、必ず後世に目を留める人がいて、意外な形で役立つことがある。子どもが食べる菓子にまで美意識を求めたことは民藝の存在からしても当然と言えるが、機械による量産にはない味わいが手作りの品には絶対宿るという信頼を忘れると、それは国が一変したと言える。だが、一変しても誰も困らないのであればどんどん変化して行く。「ふるさと」は突き詰めれば「個性」であり、「個人」であるが、「周りがどうであってもオレはこうしたい」という気持ちが石橋幸作に強くあって、かくてその半世紀に及ぶ研究は独自のものとして遺された。