瀧を登る鯉がいるとは思えないが、川を遡上する魚がいることから、鯉ならば瀧でも登るのではないかと考えられたのだろう。「瀧」は「龍」に因む漢字で、勢いよく落下する水流を見て昔の人は龍を思ったのではないか。
「登龍門」という言葉は鯉が瀧を登れば龍になるという思いから生まれたが、この故事を筆者は小学3,4年生の頃の漫画で知った。「とりゅうもん」とルビが振ってあったはずだが、中学生2年か3年の時、ラジオで洋楽番組を聴いていると、「とううりゅうもん」と東京のDJが発音していた。そうなると「とりゅうもん」は間違いかと思いつつも、「登山」は「とざん」で、「登頂」は「とうちょう」であるので、「とうりゅうもん」でもいいのではないかと考えるようになった。どちらがより多く使われるかとその後も気にして来たが、50年ほど経った今、圧倒的に「とうりゅうもん」の方が多いと言える。だが、最初に筆者が覚えたのは「とりゅうもん」であるので、筆者は今もそう呼んでいる。それはさておき、大阪の天満宮には「登龍門」がある。これを知ったのは数年前のことだ。本殿の東西にあって、曼幕が下がっているので普段はそこを利用しないが、ネットに情報によれば初天神の日に限り、誰でも利用出来る。また、受験生を対象に1月から3月にかけて10日に一度ほど、3000円で「合格守」を買うと通り抜け参拝が出来る。どちらの門から入ってどちらに抜けるのかは知らないが、東から西への一方通行ではないだろうか。東西の門から人を入れれば、中で衝突してしまう。それは瀧らしくない。「登龍門」は科挙に合格という難関を意味する言葉で、大塩平八郎の乱で焼ける前の本殿にこの門があったのかどうかだが、おそらく本殿全体は同じ形で復元されたのだろう。また東西の「登龍門」の両側に青銅製の燈籠があって、基部の表面に鯉が瀧を登って龍になる様子が精緻に表現されている。これは戦時中に金属の供出でなくなったものを戦後に復元した。供出前に写真を撮り、正確な図面も作っておいたのだろう。金属の供出となると、京都の北野天満宮にもたくさんある牛の銅像も同じ運命をたどったのではないかと思うが、牛の銅像は各地の神社にあってまだ作りやすい。天満宮は大塩平八郎のために大きな被害を受けだが、汚職を嫌悪し、清廉な性格であった大塩は大坂市民に人気があって、乱を起こして見つかるまでの1か月ほど、かくまう人があった。大塩のような人は今では反権力の危険人物とみなされ、特に東京では理解されにくいだろう。以前にも書いたが、大塩は自分が出世出来ないことの腹いせに乱を起こしたという研究家の意見を取り上げてNHKはTV番組を作った。その頃からNHKはおかしくなり始めたように思う。現在の政権に文句を言う奴は非国民という印象を視聴者に刷り込み、正義感も私欲があると貶める。大塩は儒者として有名な著作も残しているが、そんな人物が今の政界や学者、御用評論家にいるか。思想と行動が一致した稀有の存在として、筆者は中学生の時の授業以来関心がある。
先日天満宮に駐車場がないと書いたが、前回の投稿を終えて気づいた。今日の1,2枚目の写真を撮っている間、家内も息子もトイレに行った。交代して筆者も行ったが、そのルートは何年か前に訪れた時と同じく、蛭子門を入ってすぐの辺りから左手の建物の中を通って突き当たりまで歩く。その建物の中が薄暗い駐車場であることを思い出した。車はどこから出入りするのかと言えば、蛭子門だが、狭い門なので車はぎりぎりではないか。トイレは同じ場所にあったが、何年か前に比べてきれいになったと思う。さて、最初の写真は境内の南端中央にある表大門を入ってすぐ東側にある「御井社」で、祠も玉垣も新しい。2枚目はもっと新しいようだが、「御井社」の東隣りにあって、「御神水」が飲める金属とガラスで出来た芸術的な祠だ。これを知ったのは、TVで桂三枝こと文枝が柄杓で水を汲んで飲んでいた様子を見たことによる。それで去年暮れに訪れたが、祠の扉は閉まっていた。4月1日に家内と息子を連れて訪れたのは、このモダンな祠を見せたかったからでもあるし、また今度こそは水を飲もうと思った。家内がトイレに行っている間、息子と一緒に祠の前に行くと、先客の若い女性が中央に立ったまま、5分ほどそこから動かなかった。水筒に水を入れ、ハンカチを何度も濡らして化粧直しを続けるなど、すぐ横で息子が待っているのを知っているのにつんと澄まして悠然としている。よほど背後から「後がつかえている」と言ってやろうと思ったが、変質者扱いされてはたまらない。息子は筆者の顔を何度も盗み見しながら、しびれを切らしていたが、女は筆者の存在を背後に感じたのか、ようやく祠から離れた。筆者は怖い顔をしていたのかもしれない。ともかく、ようやく息子と水を飲み、筆者はまず祠の真正面から写真を撮った。水はぬるくておいしくないが、井戸はあっても大阪市内の地下水は飲めないほどに汚れているであろうから、水道水だろう。ガラスを積み重ねたデザインは有名な女性ガラス作家の作品を思わせるが、天満宮は大阪のガラス発祥の地とされ、その石碑が蛭子門近くにあるので、あえてガラスで作ったのだろう。2枚目の写真を見て知ったが、この祠は毎月1、10、25日しか扉が開けられない。筆者はそれを知らなかった。出かけたのがたまたまエイプリル・フールで、運がよかった。家内を待っている間に本殿の前に立って今日の3枚目の写真を撮ったが、考えたことがある。本殿右側背後に「若杉」という文字が大きく見えるビルが入り込むからだ。本殿の中央に立ちながら、それが写らない位置を探して少しずつ前に歩んだ。そしてちょうど本殿の屋根に隠れたところで撮った。そのような撮影場所があるとは思わなかったので、本殿の写真は無粋なものになるなと半ば諦めていたが、見事に背後は空のみという写真となった。
何百年か昔は本殿の背後に大きな樹木があったであろう。それがビルに変わったが、どうにか視点をずすらせば現代の建物が目に入らない。若杉のビルはいずれほかのビルに建て変わるか、ビルでなくなる可能性もあるが、現代的なものを否定しても仕方がないことを「御神水」の祠が暗に語っているのかもしれない。3枚目の写真を撮った後、息子に質問した。写真の左右を少しはずれたところに、大きな石燈籠が1対あって、その台座に変体仮名3文字が刻まれている。それを「さこは」と読める人は10人にひとりもいないと思うが、読めても意味がわからない人はさらに少ないだろう。「さこは」は「ざこば」だ。これは雑魚を扱う市場のことで、大坂の西、確か安治川の河口辺りにあった。江戸時代の大坂の地図を所有するが、立ち上がって探し、広げるのが面倒だ。ともかく、そこの商人たちが寄贈した燈籠だが、文字の彫りがとても深く、千年後もほとんどそのままだろう。大坂の商人は金を儲ければこのように大きく寄付して来た。その代表は中央公会堂で、またその近くにある府立中之島図書館だ。今は天満宮だけではなく、寺社に大金を寄付する人は稀なように思うが、家内の実家に毎月読経のために訪れる葛城のとある寺の住職によれば、檀家の中に1億円ほど寄付してくれる人が必ずいつの時代でもいるようだ。そういう人がいなければ、檀家が全員で均等割り負担して建物の修理費用なのを捻出するが、おそらくどの寺も檀家が減少の一途をたどっていて、廃寺も目立って来ていると聞く。大阪天満宮はすぐそばに天神橋筋商店街があり、またこれは筆者の想像だが、落語の寄席会場として繁昌亭を建てたのは、毎月いくらかの金額が天満宮の収入となる仕組みがあってのことではないか。敷地が天満宮のものに思えるし、また近くの数軒の飲食店も天満宮に地代を支払っているのではないだろうか。東京浅草の仲見世の店舗が浅草寺に支払う土地代か建物代かを何倍も値上げされるという、最近報道されたニュースを思い出す。寄付によって燈籠や建物が出来ても、それを維持するのに金がかかる。そうそう、境内北西の「蛭子遷殿」は、元は蛭子門を入ってすぐ左にあったらしい。それが現在の場所に移されたので「遷殿」と呼ばれるようになったかと思うと、そうではなさそうだが、蛭子門の外に建つ蛭子の石像がまだ新しいのは、繁昌亭が出来た平成18年に、江戸時代に行なわれていた「十日えびす」の行事を復活させたためだ。そのことが天満宮のホームページに出ている。商人の街の大阪であるので、蛭子神社がいくつもあって、近場で「十日えびす」のお参りが出来るのは便利だ。今日の4枚目の写真は表大門を出て撮った。「若杉」の大きな文字が門柱にうまく隠れて見えない。