渓流下りを連休中に楽しむ映像をTVで見た。京都の保津川下りと違って、全員が筏の上に立っていた。普通の筏ではなく、客全員が筏の両端に取りつけられている金属製の大きな把手を両手を広げて掴む。
それに川に落ちた時のためにライフジャケットを身につけている。それでもスリル満点で、かなり濡れる。保津川下りも真似すればと思うが、けっこう濡れるので、筏のような野趣は味わえる。また2時間近くかかるから、立ったままではかなり疲れる。若者以外では筏に立ったまま渓流を下る不安定さは喜ばない。これから高齢化がますます進む日本では筏よりは舟に座ったままの方がいいに決まっている。保津川は嵐山や梅津丸太で筏を組んで運ぶ水運が盛んであった。今ではもうそんな筏は見られないが、戦前の嵐山を描いた絵では必ずと言ってよいほどにその筏が描かれた。戦後になってもたとえばわが家のすぐ近くにあった銭湯は、天井に接した半円形のタイル壁画が保津川を下る筏を画題にしていた。あまり上手ではなかったが、その絵をよく覚えている。風風の湯にはそんな美術的な要素がなく、それが筆者には不満で、受付横の大きな壁面に何か嵐山に因む100号くらいの絵画でも飾ればいいと思うが、経営者にその費用もなければ、またそもそも考えもないだろう。筆者の屏風でもそこに飾るのはどうかと内心思わないでもないが、汚されれば面白くない。最近その壁面に、確か東急ハンズで売られている、安っぽくて派手な紙製の端午の節句飾りがかけられた。カレンダーか雑誌の付録のような感じで、それを見た時は目をそむけた。子どもの日や連休が終わったので外されたが、受付の人たちもその壁が殺風景で、何かを飾りたいと思っているのだろう。寿洛の土壁風の落ち着いた色合いの壁で、せっかくの玄関を入ってすぐ左手で目立つところなのにもったいない。これも先月に設置されたが、顔の部分を丸くくりぬいて記念撮影をする立て看板を受付の人たちが製作した。それが受付と前述の壁面の間に据えられている。絵の下手な中学生が作ったような感じのもので、客を喜ばせるために何かほしいという気持ちはわかるが、下品になっては旅の思い出もぶち壊しだ。ここはやはり、そこにしかない美術品を用意して、それによっても有名になることを目指した方がいい。美術品はよさがわからない者には無価値という意見があるが、わからなくてもそこに何か上品なものがあるというかすかな記憶は誰しも抱くものではないか。ある美術品のよさがわからないことを自慢気に言うのは、とても恥ずかしいことと筆者は思う。無知を偉そうに自慢するのは下品の極みだ。知らなければ、わからなければ、黙っておればよい。それで少しは下品さを曝け出さずに済むではないか。美術品に無関心の人は日本の国宝が全部なくなっても何とも思わないだろう。そういう人が大勢を占める国のどこに魅力があるかだ。宝のない国に筆者は行きたいとは思わないし、宝をお金と思っている人も敬遠したい。
今日は3月25日に撮った写真を載せる。家内と嵯峨のスーパーに行く途中で撮った。今年は桜の開花が早かったが、4枚目の写真ではまだ満開になっていない。渡月橋付近の川底改修工事は3月末までと計画されていた。2枚目の写真からわかるように、もう川の中に重機は入っておらず、また川の流れもきれいだ。3枚目の写真からは2台の重機が岸に上がっていて、作業員の姿も見えない。つまり、実質的には25日までに工事は終わった。後片づけのみという状態で、完全に工事現場がなくなったのは27か8であったと思う。大雨を伴なう台風がやって来れば今回の工事箇所がどのように変化するかだが、それは誰にも予測出来ない。水量によるし、上流からどのような大きな石や大量の丸太が流れて来るかわからない。5年前の秋の台風の被害以降、毎年この付近に重機が入っているので、たいていのことには驚かないが、毎朝松尾橋から渡月橋を1時間かけて一周している自治会のFさんは、松尾橋の少し上流に巨大な台地の中州が出来ているのに、それを少しも重機で撤去しようとしないことに疑問を抱いている。限られた予算の中で観光客の目によくつく渡月橋付近を最優先して河川工事を毎年行なっているのだろう。観光客がたくさん訪れる渡月橋付近が松尾橋よりも経済効果が大きいのは確かで、世の中は何事も金本意で事が決まって行く。また、これは初めて書くが、松尾橋は去年の夏頃から橋脚の改修工事をしている。橋の上を歩いているだけではそのことはほとんどわからない。車で走っている人も大半は気づいていないと思うが、太い橋脚の周囲をうず高く土嚢を積み上げ、川の水量が多くなっても作業に支障を来たさないようにしている様子が東詰めで信号を待っている時に振り返るとよく見える。現在の松尾橋の改修工事はこれまででは最も大がかりなものと思うが、昭和20年代に出来た橋なので老朽化が激しいことはわかる。橋を歩いていると、バスやダンプ・カーが脇を通るたびに、地震が起こったかと思うほどに揺れる。そういう橋が全国に無数にあるはずで、これからは改修の時代だ。住宅もそうであればいいと思うが、重機で1日で壊し、2週間で新しく建てる方が安上がりで、人家は歴史に残らない。100年ほど残るのは稀で、またそのように維持するには莫大な費用がかかる。民家が国宝になり得ないのであれば、家が美術品のように美しい必要はなく、ただ地震に強いという合理性が求められる。ところがその合理性は部屋が多く、天井が高く、冷暖房費が馬鹿にならないという不合理を抱える。TVでは立派な家を紹介する番組がとても多いが、グルメ番組や旅番組も同様で、美術を深く紹介する番組は皆無と言ってよい。「美しい日本」とはとても言えた状態でない。
先日も書いたが、東大の学生食堂の大きな壁画が処分された。現在における日本の美術に対する関心度がわかる出来事だ。それがワイド・ショーで取り上げられるかと思っていると、筆者の知る限りではどこも無視だ。それほどに今の日本は美術に関心がない。先頃、マラソンで新記録を出すと賞金1億円を贈呈すると言われ、結局若い男性がそれを獲得した。日本の芸術を目指す人には天文学的な賞金で、日本がいかにスポーツに力を入れているかがわかる。筆者はスポーツにはほとんど無関心で、好きなスポーツ選手もいないが、スポーツで国民栄誉賞が連発されるのに美術でそれを受賞した話はない。また今後もあり得ないだろう。「だろう」ではなく、「に違いない」。それほどに美術は個人的なことで、わかる者だけに価値があるという意見が大手を振っているが、わかるようにもっと学校で小さな頃から教育すべきであって、美のわからぬ者は醜もわからず、人間としては歪だ。東大を出ても美術に無関心という連中が国を動かそうとするのも大間違いで、日本は醜さをまっしぐらに走っていると言ってよい。それを暗に気づいているから首相が「美しい日本を」と言うのであればいいが、筆者がそのように思うのはあまりに楽観的過ぎる。勉強だけがよく出来て美術や音楽にさっぱり関心のない者は筆者にはとても退屈で、また全く畏敬することもない。一方で知性の感じられない画家も大嫌いで、美術とはそれほどに高い存在だと思っている。そうした歴史に燦然と輝く美術品を鑑賞するために、日本人はパリに旅行するのだろう。だが、美を味わいたいためにわざわざ高い旅費を払って遠方のルーヴルに行かずとも、美術品は日本にも溢れている。その気になれば明日にでも作品が入手出来る。ところが、そのような腹のふくれない物に金を使うのは馬鹿であると、美のわからない本当の馬鹿が自慢たらしく意見する。無知で無恥なムチムチ醜く太った連中が溢れ返っている世の中だ。それを野蛮と言うが、始末の悪いことに野蛮な連中は自分たち以外を野蛮と罵る。その話はもうやめておこう。渡月橋付近の桂川はきれいになったばかりで、「駅前の変化」のカテゴリーは当分の間、投稿はないだろう。人間と同じで、きれいになればやがて汚れ、またきれいにする必要がある。政治もそうあるべきだが、日本は中国とロシアを見習っているのか、首相はその地位に長く居座りたいようだ。「美しい日本」を主張するのは、美しさに憧れていて、自分の醜さを自覚しているからだとすれば、美術好きの筆者もそうと言えるかもしれない。長生きすると醜いことにたくさん遭遇すると昔年配者から言われたことがある。確かにそうだ。であるから渓流のせせらぎのような美しいものに魅せられたい。