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云々」を首相が国会で「でんでん」と読んだことを先日知った。にんべんを書き忘れた原稿と思ったのだろうと好意的に捉えることも出来るが、「伝々」という表記を筆者は見たことがない。

だが、今後は「云々」を「でんでん」と読むことが流行り、いつかそれが正しいと思われるのではないか。首相のファンはそうなることを希望しているだろう。どんなことでも時代とともに変わって行くものであり、「云々」を「でんでん」と読むようになってもごく一部の学者以外は誰も文句を言わない。民衆の大多数がそれでいいと思えば、どんなことでもその大多数の考えにしたがうことが民主主義だ。それで、仮に首相が自分勝手に友だちのために税金を投入しても、そのことに不満を覚えない人が過半数を占めるのであれば、みんなはそのことを認めて文句を言わない必要がある。つまり、ごく少数の博学の意見は異端であって、元来誰も聞く耳を持たないし、聞く必要はない。「云々」を「でんでん」と読んで何が悪い。昔はそれを「でんでん」と読んだのだ。いつの間か学者が「うんぬん」と読み始めたのであって、学問は不要、大学も必要なし、「云々」を「’でんでん」と読んでも滑稽どころか、それは偉い首相様の考えであり、これからは全国で「でんでん」と読むべし云々と、役所から伝々と達しがある云々。ついでに憲法でも法律でも何でも首相の好き勝手に変えるべきで、新しい日本を美しくすることに同調しない奴らは国賊で、抹殺してしまえ云々。とまあ、先ほどはトイレで『天才バカボン』を読んでいたので、上記のような過激な歌劇を「云々」から想像したが、独裁者の国家とは何でも独裁者の思うままになることであって、ある日を境に「云々」を「でんでん」と読むことになる可能性はゼロではない。それどころか、今の日本ではきわめてその確率は高い。日本は時に国全体にヒステリーの嵐が吹く。明治になってすぐ廃仏棄釈が始まったが、それは日本は神の国、つまり天皇の国であり、外国から入って来た仏教はけしからんという理屈であった。昔の天皇が仏教国家を目指したのに、それは見ない振りをするということであった。だが、外国の神を祀る神社もあるではないか。天皇が百済から后を娶っているのであるから、百済の神が民とともに日本に入って来て、それが現在の神社に混じっていることは何ら不思議ではない事実だが、学者たちがそう言ったところで、大多数の日本の民衆は朝鮮半島や中国の民を自分たちよりはるかに頭の悪い馬鹿と思っているから、神社が朝鮮の神を祀るはずがないという考えが正しいとされる。真実が誤りで、間違いが正しいとされることはいつの時代でもある。それほどに大多数の民は愚かで頭が悪い。あるいは為政者がそうだ。そのため、為政者は賢くあるべきだが、「云々」を「でんでん」と読む。首相は以前に「うんぬん」と読んだことがあるそうで、「でんでん」はちょっとした記憶違いという意見があるが、以前は振り仮名があったのだろう。

今日は天気がよかったので、家内と息子との3人で大阪に出た。そして4月1日と同じように大阪市内をたくさん歩いた。写真もよく撮ったので、順にブログに載せて行くが、今日は先日から断続的に投稿している大阪の天満宮の続きだ。今日も天神橋筋商店街を歩いたが、天満宮の近くに着いた頃は午後7時10分頃で、境内に入ることは出来なかったし、また天満宮のことは思い出さなかった。今日はふたつの神社を参拝したからでもあるが、そのことは後日書く。大阪に出かけた目的はその神社巡りと、梅田で展覧会をひとつ見ること、難波のタワー・レコードでザッパのLP『ランピィ・グレイヴィ・プリモーディアル』を見つけることであった。LPはもうなかったので、今度は京都で探すことにする。そうそう、中之島では毎年恒例のお祭りをしていて、たくさんのフリー・マーケットの店が並び、古本専門店もたくさんあった。じっくりと本を見たかったが、先を急ぐのでそうも出来ない。だが、さっと1軒に立ち寄って数秒で箱入りの内藤湖南の本を見つけ、数秒後に100円を支払った。帰宅して早速ひとつの文章を読んだ。それが先の段落に書いた日本の神社における外国の神についてだ。何年も前から筆者は立派な男の顔の代表として内藤湖南を思っているが、そういう人物の名前さえ知らずに書かれたことを嘲笑する連中が、ネット時代になって大いに跋扈しているように感じる。今も昔も馬鹿に博学の意味がわかるはずがないのでそれは仕方がない。それで、なるべく殻に閉じこもって博学の書き残したものを読むことで残りの人生を過ごしたいと筆者は思っている。さて、
「その3」に続いて撮った4枚の写真を今日は載せる。白米稲荷社の鳥居から東に誘導されるように道がついていて、今日の4枚の写真は東へ向かいながら北を向いて順に撮ったが、4枚目の写真の東をさらに歩くと、塀があって戻るしかない。写真1、2、3枚目は鳥居の向こうの玉垣がつながっている。そして4枚目の社が最も大きく、これは「霊符社」で境内の北東にある。星合茶屋のそばの祖霊社と同じようなものかと言えば、WIKIPEDIA には「天之御中主神」を祀るとあり、「アメノミナカヌシノカミ」と読む。万物を創造した神だが何もしないとあって、またどういう神であるかは学者によって意見が違う。神話のことであるのでさまざまな意見が出て当然だろう。神社研究は政治との関係で変化して来た、つまり歪められたところがあり、今後もそうだ。政治家が神社を利用し、神社は生き残るために政治家の庇護が欠かせない。宗教とはそういうものだ。神社と寺の関係の歴史も勢力争いだ。それに破れた方は飲み込まれて存在が小さくなり、祠ひとつだけが残る。

「霊符社」が境内の北東にあるのは、何か意味があるのかどうかだが、天満宮のホームページの境内案内図では番号が振られず、いちおう無視されている。天満宮が菅原道真を祀るからには、「天之御中主神」は脇に置いておくとの考えだろう。写真の1,2,3枚目はどれも似た形の鳥居で、玉垣の向こうの社も同じように見えるが、それぞれ別の神を祀る。鳥居は3つだが、最初の写真の鳥居の奥にはふたつの社が並び、合計四神のようだ。写真のどれがどの神を祀るのかわからないが、たぶん1枚目すなわち最も西が「住吉社」で、順に東へと「松尾社」「八幡社」「吉備社」だろう。松尾社は筆者が住む嵐山地区の氏神で大山咋神を祀り、この神は上賀茂、下鴨神社の別雷神の父とされている。今日買った内藤湖南の本に大山咋神について書かれている。それによると、比叡山の麓、大津の日吉大社も大山咋神を祀るが、それは「小日枝」と呼んで規模が小さい神社だ。それに対して「大日枝」は伝教大師が比叡山を開いた時に自分が信仰する大和の三輪の神を連れて来て鎮座させた神社で、それによって元からあった大山咋神の社は「小日枝」として山の下に移動させられた。寺が神社の領地を占領する過程でそのような勢力争いの行為があったのだが、元からの神をすっかり失くしてしまうことはしない。これは祟りを信じていたからで、元の神は目立たなくはされるが、完全になくなることはない。歴史が長い神社はそのように重層的になっていて、現在の社の大きさが古来変化しなかったと考えるのは間違いだ。菅原道真を祀る天満宮は平安時代の貴族の勢力を示すもので、それ以前にあった社は縮小され、隅に追いやられた。この、古いものをそのまま残す思想は中国や朝鮮にはないものと言ってよい。大昔の日本が祟りをどれほど本当に信じていたのか懐疑的に思う人が今は多いだろうが、ウィルスや菌の存在を知らない人には伝染病がどのような理由で発生するかはわからず、疫病を不運で死んだ政敵の祟りと考えるのは無理もないと思える。今でも物事をそのように捉える人はいるし、そのために神社にお参りして願をかけ、また神木を切り倒すことを嫌がる思いに誰しも同調出来る。祠も同様で、それがただの物に過ぎないと割り切れる人がどれほどいるかとなれば、人形でもそのままゴミ箱に捨てることを嫌がる人があるから、物に魂が宿るという思いは日本人に特に強いだろう。それが現在はどう変化しているかはわからないが、先日大阪で話をした古美術会社の社長は、日本は古くから物を大切にして来たので、古い掛軸がまだまだ出て来ると語った。もちろん少しずつあえて捨てられる、あるいは自然災害で消えて行くが、一方で新しく生産される。