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ぽんとちょう」のことを息子が「せんとちょう」と読んでいることを今年の正月に知った。京都生まれであるのにこれは恥ずかしい。

早速「ぽんとちょう」と教えたが、息子はこれまでその言葉を何度も聴いて来たはずで、「先斗町」を「せんとちょう」と読まないことをようやく知った。京都に住んでいれば京都の地名は何でも正しく読めるかと言えばそんなことはない。これは30年ほど昔、新聞で読んだ話だが、京都に来た修学旅行生が、道行く人に「からすまるまるふとるまち」はどこかと訊いた。京都人であればすぐそれが「烏丸丸太町」であることはわかるが、他府県人では「からすままるたまち」とはなかなか読めない。特に人名では、「キラキラ・ネーム」が流行り始めたここ30年ではどう読むのかわからない場合が多い。それで筆者はTVに表示される人名を全部音読みする。たとえば「金本清彦」は「きんぽんせいげん」だ。面白がってそうしているのだが、実際にその人に対してそのように呼ぶと怖い顔をされるだろう。それはともかく、関心のないことは誰しも覚えないもので、読み方が難解な地名を間違ってもそう困らない。ただし、無知は時として笑われる。もっとも、ほとんどの人は住む世界が違う人と出会うこと、ましてや話すことはまずないから、無知を笑われることは稀で、無知を恥とも思わずに死んで行く。そして、ネット社会になってそういう無知を自覚しない連中がネットに書き込みを大いに行なって、いっぱしの知識人を気取る。そんな連中はやがて大多数をいいことに、「ぽんとちょう」を「せんとちょう」と読もうと言い始めるだろう。無知ほど怖いもの知らずはない。それはさておき、大阪天満宮は天神橋筋商店街から少し東に入ったところにあって、商店街を漫然と歩いていては目に入らない。そういう人が多いからか、同商店街のアーケードの内側の頂上から鳥居の模型を等間隔にぶら下げて、神社の存在を気づかせようとしている。この鳥居の大きな張りぼての模型が吊り下げられたのは20年ほど前でないだろうか。天満宮より北側の2,3丁目にあって、「真朱」「桔梗」「浅葱」「萌葱」の順に北に向かって色が変わって行く。4丁目以北もそれに倣えば七色以上の鳥居の列が並んできれいだろうが、筆者は鳥居は赤と思っているので、紫や緑などの色は違和感を覚える。つまり、「桔梗」「浅葱」「萌葱」には反対で、せめて「紅」や「橙」など、赤系統でまとめてほしい。それでは変化に乏しいと思われたのかもしれないが、現在の4色では中途半端な気がする。また、どれもどちらかと言えば読み方が難解で、筆者は4月1日に息子と家内と歩いた時、息子に「真朱」をどう読むかと訊ねながら、絶対に知らないと思って早々と「まそほ」と教えた。それでも興味がないので10秒後には忘れて、今でも「しんしゅ」と読むに違いない。

「真朱」の正しい読み方を知っていて人生でどれだけ得するかと言えば、まず何の役にも立たない。それでも天神橋筋商店街がその文字を目立つように鳥居の大きな模型の神額として掲げるのはどういう人の発案かと思う。また、「真朱」「桔梗」「浅葱」「萌葱」の4色を選んだことも筆者には理解が及ばないが、天満宮と相談してそれがふさわしいということになったのだろう。あるいはこれら4色は天満宮を象徴する重要な要素かもしれず、筆者は自分の無知を疑ってみる。その一方で思うのは、天満宮の参道としての商店街は1,2,3丁目までで、阪神高速の下の扇町交差点から北はどうではないとの考えからか。扇町からはアーケード出入口上部に横向きのテントウムシが描かれていることだ。その星のつまり黒丸の数が4つで、それで天神橋筋4丁目を表わすが、そのきわめて合理的でわかりやすい表示と、「真朱」などの読みにくい漢字の神額を持った鳥居の模型が連なる2,3丁目とでは、雰囲気ががらりと異なり、人の多さも4丁目から北が俄然多い。そして、天満宮のある辺りは薄暗い印象がある。商店街は商店が居並ぶので、そこに天満宮が直接に面することは無理だが、天神橋筋商店街を歩いていて天満宮の存在に気づくには、商店街から東に伸びる細い道の奥100メートルほどにある鳥居に目を留めねばならない。その鳥居が
「その2」の4枚目で紹介した朱塗りの鳥居だ。これは境内の北端にあって商店街を向いているからいいようなものの、そうでなければ商店街を歩いても天満宮の存在に気づく術がない。天満宮の境内は長方形ではなく、不定形だが、この朱の鳥居のすぐ西に落語の寄席として20年ほど前に建てられた「繁昌亭」がある。それが建つ以前は何があったのか知らないが、商店とすれば上方落語協会が買収したのだろう。あるいは天満宮の敷地であれば、空き地が中心であったのではないか。落語好きな人、あるいはこの界隈を昔から歩き馴れている人は知っているだろうが、筆者が天満宮の境内の隅々まで知ったのは去年の暮れだ。それまではこの朱の鳥居から北の星合茶屋は知らなかった。いや、正しく言えばその茶屋があることは知っていたが、どこにあるのかわからなかった。それほどに天満宮の境内はすっきりとした形をしていない。それがまた魅力であると言ってよいが、周囲が森林であったところが現在のような形となって来た過程には、土地を金を出して誰が取得するという熾烈な競争があったはずで、それは「繁昌亭」を建てるにしてもその費用を誰が負担し、また維持管理をどうして行くかという問題があって、人の営みには先立つものが必要ということだ。そして、天神橋筋商店街という日本一長い商店街が存在することは、天満宮の今後は境内を誰かに齧り取られることを心配しなくてもよいに違いない。

この朱の鳥居は境内の北端に少しだけ北に突き出た境内のもので、菅原道真を祀る天満宮の本社の裏手にある。神額に「白米稲荷社」と書かれる朱の鳥居をくぐると、すぐ目の前が今日の最初の写真の社の左手だ。また鳥居をくぐってすぐ右手つまり南側に、大きな神社にはよくある白い神馬の木像を祀る建物がある。その写真は撮らずに目の前の社を見ながら南に歩き、社を正面から撮った。右手にテントが張られていて、そこに書かれる大きな文字が写真からはよく読めないが、朱色の何かを白の布のようなもので多少巻いた細工物が10個ほどまとめて立てられている。これが何か気になるが、何かを象った授与品が売られているようで、テントの文字は「神楽・鳥居 受付」と読めそうだ。テントの奥の黄色い看板は「白米みくじ」とあって、これも特別の形をしているのかもしれない。「白米稲荷」は初めて見る名前だが、稲荷は米のことであるから、「白米」は不要に思うが、WIKIPEDIAによれば伏見稲荷大社の奥院とされる。それほど格が高いとは知らなかった。白米は稲を精したものであるから、そのような名前であり、また扱いということか。今日の2枚目はもっと南に下がって鳥居と一緒に社を写し込んだ。稲荷社であるから、この石の鳥居も西の鳥居と同じ朱塗りにすればいいように思うが、代わりに赤い幟旗が大いに目立っている。3枚目の写真は「稲荷奥宮」とあって、こちらが中心という位置づけかもしれない。これは前述のように境内の北部から少し北に突き出た区画の東端のせせこましいところにある。写真からは左が1,2枚目の大きな社、右がコンクリートの塀になっている様子がわかる。伏見稲荷大社のように、奥に鳥居がたくさん並んでいるが、このどこか陰気な雰囲気に圧倒されて筆者は鳥居をくぐって奥まで行かなかった。家内と息子を放っておいてひとりで写真を撮っていたからでもある。当然鳥居が並ぶ突き当りには、狐の石像を両側に控える祠があり、またそのことがわかったので写真を1枚撮って引き返した。肝心の見ものはこの鳥居の列よりも左手に大きな社で、その内部は周囲が歩けるようになっていて、しかも狐が引っかいたとされる石に御幣が巻かれている。社の外観を2枚撮影するのであれば、1枚は内部を撮ればよかったが、最低でも2か月に一度は天神橋筋商店街に行くので、いずれ訪れようと思う。4枚目の写真は2枚目の鳥居の南西、つまり2枚目の撮影位置の左手にある八坂社だ。白米稲荷社の右手にもいくつかの社があるが、次回に写真を載せる。これらの小さな神社は天満宮のホームページの境内案内図に名前が記されず、ほとんどおまけの扱いだ。それでほとんどの人は無視するのかと思っていると、筆者が4枚目を撮影している時、40歳くらいの眼鏡をかけたサラリーマン風の男性が白米稲荷社右手に並ぶ社に熱心にお参りしていた。