先月18日に2時間の映画『白バラの祈り』を見る直前、受付の女性が、明日も別の監督が撮影した同じ内容の映画があって、予約の必要がなく、入場無料と言う。帰宅してドイツ文化センターのホームページを調べると、パーシー・アドロン(Percy Adlon)の作品とわかり、即座に見に行くことに決めた。
同センター別室での「白バラ」の説明パネルもまだ少ししか読んでいなかったので、少し早く行ってそれを読むことにした。四条河原町から歩いて行ったが、とても寒かった。荒神橋をわたってすぐに左を曲がると、とっぷり暮れた夕空の中に桜の木が何本かあって、そのうちの1本に蔓がかなり絡まっていた。豆の細長い莢の形をした実が何個かぶら下がっていて、すぐに藤だとわかったが、桜の木の半分はすっかり覆われている。これでは花の季節にどうなるのであろう。今から取り除くに限るが、あそこまで絡むと除去は難しい。それほど藤はやっかいで不死だ。センターに着いたのは30分前で、もうたくさんの人が席に就いていた。前日はホールに入る前に住所氏名を記入させられたが、今回は早々と開放されていたようで、早い者勝ちで好きな場所に座れた。前日の40名限定は、映画の配給会社からの指示であろう。無制限にたくさんの人に見せると、ロードショーで見る人が減る。だが、この『最後の5日間』は1982年の作品で、入場制限の必要はない。ここで映画を見る時は、いつも最前列の中央あたりに座るが、幸い今回もそう出来た。見終わって明るくなったホール内を振り返るとたくさんの人で驚いたが、100人以上はいた。こんなことは初めての気がする。無料ということもあるが、実際の理由はアドロン作品であるに違いない。アドロンは今の20歳代にどれほど名前が浸透しているかは知らないが、日本では87年の『バグダッド・カフェ』の大当たりによって一気に人気を獲得した。実は筆者もその部類だが、91年10月にこのセンターのホールで「パーシー・アドロン監督特集」と題して5本の映画が上映され、それで初めてこの監督の魅力を知った。その後TVの深夜放送でも何本か放送されたこともあり、代表作はすでによく知られるようになった。
手元にある91年のチラシを確認すると、上映された5本は、『シュガーベイビー』『セレステ』『バグダッド・カフェ』『ロザリー・ゴーズ・ショッピング』、そして『最後の5日間』で、1本600円の入場料、みな1回限りの上映であった。このうち『シュガーベイビー』『バグダッド・カフェ』『ロザリー・ゴーズ・ショッピング』の3本は見たが、今回15年を経て、図らずも『最後の5日間』を見る機会を得た。チラシにはまず、『映画作家、台本作家として長い経歴を持ちながら、いまだにその全貌を知られていないパーシー・アドロン監督の初期作品を含む主要な監督作品を上映』とあり、その下に5本の映画を簡単に紹介してある。『最後の5日間』についてはこうある。『この作品で描かれているのは、反ファシズム組織「白バラ」のメンバーで1943年にミュンヘンて処刑された、ゾフィー・ショルの障害の最後の5日間である。この映画は、ゾフィー・ショルの日記と手紙、また妹のインゲ・アイヒンガー・ショルの回想に基づく心理劇の形をとっている』。この記述の妹の回想となっている部分は少し違うのではないかと思う。あるいは説明不足かだ。主演はレーナ・シュトルツで、これは『白バラの祈り』のユリア・イェンチに少し似た顔だが、もっと幼い感じでしかも可愛い。このことは21歳で死んで行ったゾフィーを思うと、よりふさわしいキャスティングに思えた。ユリアは精神的にも強くて逞しい印象のゾフィーを演じていたが、レーナはもっと素朴で可憐な表情を絶やさず、それがいかにも「白バラ」のイメージに似合っていて、この映画を強く印象づけていた。『白バラの祈り』の原題『SOPHIE SCHOLL-DIE LETZTEN TAGE』はこの映画の『FÜNF LETZTE TAGE』を明らかに下敷きにしていて、内容の点でも多くを参考にしたはずだ。だが、一番大きな差は92年に発見された人民裁判の記録を前者が大いに盛り込んだことだ。昨夜も書いたように、『白バラの祈り』は映画の大半はこの裁判の場面で占められている。それに対して82年制作の『最後の5日間』は当然のことながら裁判の様子がわからないため、それは全く描かれない。その意味で2本の映画を見ることでゾフィーの全体像が初めて鮮明になると言ってよい。
『最後の5日間』は最初処刑されることになる3人が空が白い平原の中で身を寄せて立っているシーンから始まる。この無垢な白は「白バラ」の連想を誘う。バックにはゾフィーが愛したシューベルトの音楽が流れる。映画のタイトルはごく控え目に画面の片隅に一瞬映し出され、ゾフィーひとりが画面を見る者に向かってこちらに歩んで来て画面いっぱいに微笑む。この冒頭の場面はまるで夢のような雰囲気がある。映画の中ではゾフィーはずっと収監されたままで、このような自然の平原の中に佇むことは許されなかったから、よけいに開放的な感じを与える冒頭のこの場面は重要だ。映画の大半は牢屋の中での出来事と、尋問官とのやり取りの場面だが、面白いことに牢屋の窓辺は『白バラの…』で使用された部屋と全く同じで、同じ場所を使用したかと思わせられる。このあたりは実際に残されている当時の建物を使用した可能性がある。あるいは『白バラの』がこの映画の影響を受けて、同じ部屋のイメージをそのまま踏襲するためにあえて同じ窓のある場所を探したかだ。『白バラの』にも登場したが、ゾフィーが収監された部屋には監視係としてひとりの女性エルザ・ゲーベルがいた。エルザは共産主義者で囚われの身であったが、ゾフィーのような極刑は宣告されず、やがて開放されて市民に戻り、そしてゾフィーの家族にゾフィーの最後の5日間のことを伝えた。そして妹のインゲ・アイヒンガーがこの映画の元になるようなものを何か書くなりしたのかもしれない。アドロンはゾフィーの最後の5日間を辿る時、同房者であるエルザの証言を最大の参考源にするしかなく、この映画ではエルザ役の女優はゾフィーと同じ重要な位置を占めている。この点も『白バラの』とは大いに異なる点だ。つまり『白バラの』のマルク・ローテムント監督は、アドロンが描いたものと重複しないように気を配りつつ、より事実に基づいてリアルで残酷な映画を作り上げた。この映画には濃厚に漂うそこはかとない優しさやファンタジーは『白バラの』では全く見られない。
この映画がゾフィーの最後の5日間をどう描いているかだが、まだ救われる気がするのは、『白バラの』とは違って、エルザを始め、他の囚われ人たちとの交流が少なからずあったことだ。だが、これは事実かどうかはわからない。エルザがゾフィーの遺族たちに伝えたこと以外にアドロンはフィクションを用意してつけ加えたかもしれないからだ。その疑問はあるが、一応この映画に描写されている刑務所内での出来事が全部本当だとすれば、そこにアドロンが描きたかったヒューマンさがある。そしてそれは他のアドロンの作品に共通して流れるもので、この一見アドロンらしくない主題を持った映画もやはりアドロンのもの以外ではあり得ないと言える。他の囚人としては中年男と若い男が登場するが、ふたりはとっておきの食料をゾフィーの部屋に持参し、あたかも最後の晩餐のように、エルザも交えて4人でささやかなティー・パーティーを開く。そして中年男がチョビ髭をつけてヒトラー風刺のパントマイムを演じる。ここはきわめて重要だ。それはなぜこれらの人々が捕らえられているかを暗黙のうちに観客に示すし、声を出さず、無言でヒトラーを風刺することしか出来なかった当時の人々を象徴もしていて、表現者としてのアドロンの精いっぱいの当時の抵抗者への賛美をよく示している。その風刺的な寸劇にゾフィーはけらけらと笑うが、そんな彼女がすぐに処刑されることを知っていたそれらの囚人たちの眼差しには深い悲しみが宿っていた。一方、尋問官は『白バラの』とは違ってもっと優しい人物として描かれていた。したがって、この映画では人間のいやな面を全く見せてはおらず、処刑の残酷な場面もない。ただし、友人のクリストフ・プロープストが逮捕されたという情報をエルザから聞いた時のゾフィーが大声で叫ぶシーンは酷い。そのようにして次第にゾフィーは処刑の日へと追い詰められて行くが、あくまでも大きな権力は映画の外にあるものとしてもっぱら描かれているため、『白バラの』のような恐怖映画の趣は少ない。これはアドロンが生温かったからだろうか。そうではない。若くして死んだゾフィーのありのままの平静な姿を描くことで、言外に当時の権力による避けようのない恐怖を浮き彫りにしている。
1935年生まれのアドロンは78年に処女作を撮っている。この映画は4本目だ。なぜこんな重いテーマを選んだかと言えば、アドロンがミュンヘン生まれであるからだろう。ゾフィーはミュンヘン大学でビラを撒いて逮捕され、そして処刑された。また、言うまでもないがミュンヘンはヒトラーに大いに縁がある。そんな歴史を考えると、アドロンがゾフィーの最後を映画化しようと思うようになったことは意外ではないどころか、映像作家としてはきわめて良心的で、見事に戦争の責任を感じてもいると言える。アドロンが生まれた1935年はとても象徴的な年で、同年8月2日にヒトラーはミュンヘンに対して「運動の首都」という称号を与えた。以下にヒトラーとミュンヘンの関係について少し書く。ヒトラーの国民社会主義ドイツ労働党は1920年にミュンヘンで起こった。1922年11月にヒトラーはビアホールの天井に発砲して「民族革命」を宣言し、翌日ムッソリーニのローマ進軍をまねして市内の将軍廟に行進し、バイエルンの権力掌握を試みた。バイエルン警察は実弾で対抗し、ヒトラー側16人、警察側3人が死亡する事態となり、ヒトラーは禁固5年の刑を受けた。だが、わずか9か月後に釈放される。その間にルドルフ・ヘスに「我が闘争」を口述筆記させた。そして権力を握った後、1932年11月にかつての将軍廟に勝利のパレードを敢行し、行進の先頭に血染めの旗を掲げる勲章受賞者たちを置いた。1934年6月、ナチ党内の分派である突撃隊長レームが蜂起した際、何百人もの古参の兵士やそのほかの対立者を射殺して粛清した。1935年11月、燈火燃える塔の下を埋め尽くした旗の間をぬって「運動を血をもって証した者たち」16人の棺を正規軍の手で国王広場の栄誉廟まで運ばせ、永遠の見張りにつくようにその場に安置させた。こうして「運動の首都」はその名に恥じない礼拝所を得たわけだ。ついでにミュンヘン大学についても書いておこう。第1次大戦後、ミュンヘン大学は徐々に極右、民族至上主義、反ユダヤ主義的傾向を強めた。すでに1920年にアインシュタインは大学での講演を許可されなくなった。1933年5月、国民社会主義ドイツ学生同盟(NSDStB)(結成は1926年)の学生組織は、入場券とプログラムを用意して「国民広場での焚書」に集まるように呼びかけた。これはあまりに有名な出来事で、学生もいかに安易に狂気に走るかの例をよく示す。1933年4月、「ドイツ職業官吏再建法」によってユダヤ系の大学教授、研究助手は大学を去り、亡命や自殺をした。1939年9月以降、多くの男子学生が兵士となるが、1943年1月、学生兵たちが抗議する事態が起こる。これはナチ管区長ギースラーがドイツ博物館で行なった大学式典で、「女子学生は勉強するより、総統に子を生んで差し上げろ」と言ったことに対してのものだ。この学生たちによる公の場での権力者抗議が白バラを勇気づけた。そして建物の壁に「打倒ヒトラー」や「自由」という落書きが行なわれるようになる。ゾフィーがミュンヘン大学内にビラを撒いたのは同年2月18日のことだ。ナチとしては絡みつく藤を少しでも早く取り除こうとしたのだが、もはやそれは遅かった。ついにナチの桜は咲かず、そのまま枯れたわけだ。