必ず写っているとは限らないのがフィルム・カメラで、シャッターを押す時にはどこか祈りを込めているところがあった。デジカメでは液晶画面で写っているかどうか確認出来るが、筆者の10年もっと前のオンボロ・カメラで画面が小さい。

また反応が遅く、それに電池の消費量が大きいので、筆者は液晶画面を確認したことがない。その点はフィルム・カメラ世代の思いによるだろう。それに、フィルムのように撮影枚数を気にすることなく写せるとはいえ、被写体に向けてほとんど1枚だけ撮る。写真撮影を記念のように思っているところがある。それで写ったと思っていたのが、帰宅してそうでないことがわかるとがっかりするが、すぐに忘れる。その点ではデジカメ世代と言えそうだ。今日の最初の写真は日差しが写り込んでいる。これは社を真正面から撮ることを原則としているので仕方ないと諦める。もう少し時間をずらすか、立ち位置を変えるとよかったが、撮った時はわからなかった。こういう光が入ることは映画でも御法度とされていた。それが1969年のアメリカ映画『イージー・ライダー』では無視され、またそのことが当時の常識に反することで格好いいとみなされた。今日の最初の写真を加工する際にそのことを思い出したが、筆者は失敗写真と思っている。社がよく見えないからだ。これは「すべらんうどん」を食べさせる店のすぐ南西にあるが、神額が日差しに遮られて見えない。WIKIPEDIAによると「祖霊社」とあるので、菅原道真を祀るかと思きや、道路によって隔てられた南の境内に大きな本殿がある。「祖霊社」は天満宮の代々の神官や氏子、崇敬者の祖霊を祀るとあって、すぐそばにうどんを食べさせる茶屋があるのはなかなかよい。「星合茶屋」という名称で、そこに「玉子料理の店 双樹」という店が入っている。双樹はお釈迦さんの沙羅双樹の木に因むのではなく、天満宮と言えば梅であるので、梅の木を指すのだろう。筆者が座って食べた席は最南で、目の前に梅の木が何本かあった。星合茶屋では玉子もいいが、梅干の入ったおにぎりを売ればどうか。
「その1」の最初の写真には、大相撲でも開かれるのかと思うほどの多色の幟旗が見える。これがなければ奥に茶屋があるとはわからず、またこれ以上多ければ下品になるという、ちょうど頃合の数だ。また鳥居をくぐってすぐに石橋というのがよい。特別の場所に入るという思いが増す。入ってすぐ、橋の上右手から奥を撮ったのが「その1」の2枚目で、「天神橋」という金属のプレートに目を留めた。これは現在の天神橋北西詰めにもある。130年前の明治半ばに木の橋からドイツ製の鋼材で建て替えられた時に橋の南北の出入口上部に掲げられた。星合茶屋にもあることを去年の暮れに知ったが、2枚の大きな銘板とも大切に保存されている。

「その1」の4枚目の小さな祠は、うどんを家内や息子よりも先に食べ終えて撮ったもので、茶屋の北隣りにある「宇賀社」だ。祠のすぐ左に見える壁が茶屋だ。うどんを食べるのは屋外に並べられた横長の椅子と卓を利用するが、茶屋には屋根つきの部屋がある。その中でも食べられそうだが、雨が降っていない限り、普通は庭を見ながら屋外で食べるのではないか。というのは、筆者らが注文した時、南の道路を隔てたどこかから神楽が聞こえて来た。巫女が舞っている様子が目に浮かんだが、神楽が終わって5分ほどすると、生まれて100日の赤ちゃんを抱いた女性とその両親らしき人たちがやって来て、屋根のある場所に入った。ガラス扉なので中は丸見えで、彼らもうどんを注文した。天満宮で特別に神楽を舞ってもらった客なのでそこに入ったのかどうか知らないが、支払う御神饌にうどん代が含まれていて、巫女さんからそこに行って食べるように言われたのかもしれない。また赤ちゃんがいれば外では食べにくい。星合という名前でぴんと来たのは、七夕に関係があるのではないかの思いだ。WIKIPEDIAによればやはりそうで、七夕には「星愛七夕まつり」が開催される。狭いので祭りの規模が気になるが、幟旗が目立つように、短冊を吊るした笹がたくさん並んで賑やかなのだろう。池は京都の神泉苑とは比較にならないほど小さく、また亀が泳いでいて「亀の池」とも呼ばれる。水面があるのはほっとさせられる。500メートルほど南に歩けば天神橋に着き、淀川から分かれた大川が見えるが、それはそれ、これはこれだ。この池はすぐ横に「祖霊社」や「宇賀社」があるところ、かなり古いものだろう。現在は建物が間際まで迫って、京都や奈良のような昔の風情はないが、先日書いた京都の新熊野神社の東に大きな池が昔あったことから想像するに、この一帯は昔は湿地であったのではないか。大川の流れはかなり変化して来たはずで、千年ほど前は星合池付近を流れていたか、あるいは河川敷でほとんど何もないところであったのだろう。それがどんどん家が建ち、境内が狭められて現在の形になった。菅原道真が大宰府に向かう際に立ち寄った時に神社がなかったかと言えば、WIKIPEDIAには「大将軍社」があったと書かれる。それが後年天皇の命によって天満宮が建てられた。ということは、道路の北側の「祖霊社」や星合池のある区画が最も古いのではないか。それには「大将軍社」が現在どこにあるかが関係する。そこで調べると、これは道路の南の天満宮境内の北西にある。いずれその写真を紹介するが、大阪天満宮は菅原道真の存在によって出来たが、元はもっと古い神社があった。そのことを筆者は初めて知った。

ネットには、「大将軍社」の創建は大化の改新によって難波宮へ遷都された頃に遡るとある。7世紀半ばのことで、天神信仰より250年古い。大将軍神社は京都にもあるが、筆者はまだお参りしたことがない。桓武天皇は平安京を造る時に京都の四方に大将軍神社を設けたとあって、「大将軍」の名から想像出来るように、これは害悪を免れるためのもので、風水の考えによる。今ではほとんど鬼門を考えずに家を建てるが、昔は疫病などの不運に祟られないように方角をとても気にした。それにはそれなりの合理的な理由がある。太陽が東から昇って西に沈むからには当然だ。同じ家の中でも北と南とでは気温が違う。古いまじないであると一蹴する人もあるが、大昔から言い伝えられて来たことにはそれなりの知恵があると見る姿勢も大切だ。それはともかく、大阪天満宮の大将軍社は、江戸時代は現在の場所にはなく、200メートル北にあったとされる。それは京阪国道を越えて現在は小学校のある辺りで、そこには明星池があったという。やはり京都の新熊野神社の西にあった池と同じで、そこも今は学校になっている。明星池は星合池とは「星」で通じている。これは昔の天文が方角そして占いに関係し、また大将軍神社が方角に関係していることから理解出来そうだ。明星池の畔にあった大将軍神社は、天満宮を建てる際にその北西角に持って来られた。これは難波宮での大将軍神社が担った守護すべき方角をそのまま守ったものだ。また元の大将軍神社のあった地域から南の天満宮の地域までは森が広がっていたが、現在は天満宮のある辺りの「南森町」という地名のみが残っている。樹木の森が鉄筋コンクリートのビルの森に変わり、神秘の片鱗もない。また森が潰されて行く過程で、風通しも悪くなって疫病が流行るのではないかとの心配もあったろうが、今は医学の発達によって疫病を怖がらない。それがいいことなのかどうか。緑豊かな森林の中に朱塗り社殿が並ぶ奈良の春日大社のような趣は大阪ではほとんど望めないが、境内には背の高い樹木がどうにかあり、また社殿は建て変わって来ているとはいえ、昔と大差なく、そこで拝むという行為を人々は続けている。先の風水に対する考えと同じで、神社にお参りすることを「神頼み」の迷信事として一笑に付す人がいるが、千年以上の歴史に対する新しい考えが今後千年持つかどうか。また持たせていいのかどうか。さて、今日の2枚目の写真は「すべらんうどん」を食べた場所から南の鳥居を向いて撮った。神楽が鳴っていたのは道路を超えてすぐにある左奥の建物だ。3枚目は「祖霊社」の南隣りで真新しい「高坐招魂社」とある。4枚目は鳥居を出てすぐ南で、息子と家内の後ろ姿を写し込んだ。