腰を上げて散歩に出かけるのが億劫になると、身体もだが、精神が鈍って来るだろう。毎日1万歩は歩くべしと昔からよく言われるが、筆者はそのことをほとんど真剣に考えたことがない。
健康によい運動には関心がないのだ。それは感心する話ではないが、筆者と同じ年齢で毎日1万歩を歩く人が深刻な病気になって危うく命を落としかけるのであるから、あまり健康のための運動に神経質になると却ってよくないと思っている。それはともかく、昨日は腰を上げてひとりで大阪に出た。偶数月の第4日曜日に大阪心斎橋で郷土玩具の会が開催され、それにたまに参加する。この話は以前に書いたが、20年ほど前に伏見人形に興味を抱き、その後天神さんや弘法さんの縁日で探すようになった。やがて弘法さんの縁日で京都在住の郷土玩具の収集家Mさんから声をかけられ、いろいろと教えてもらうようになった。Mさんの家には二度訪問したことがあるが、Mさんから聞いていた京都で郷土玩具を商うFさんと、5年前に天神さんの縁日で知り合うことになった。それは筆者がよく知っている亀岡在住の古道具業者のSさんと話している時、Sさんは目の前に現われたFさんに声をかけたことによる。筆者はSさんのその声を聞いた後、Fさんに話しかけた。つまり、10数年前にMさんから聞いていたFさんと同一人物であると思ったからだ。それは正しかった。そしてFさんは即座に筆者をFさんと馴染みの別の古道具屋のところに連れて行き、筆者が伏見人形を集めていることをその業者に伝えた。そこでその日の売り物であった大黒さんの小さな土人形を2000円で買ったが、筆者はそれをなかなか気に入っている。その後も筆者は何度となく天神さんの縁日に出かけるが、もうその業者は店を出していない。Fさんに訊けば事情がわかるだろうが、Fさんも5年前の天神さんの縁日で出会って以降、Fさんが入会を紹介してくれた大阪の郷土玩具の会で一度か二度会っただけで、筆者がその会に参加するのと引き換えに姿を見せなくなった。そのFさんが4年半ぶりだろうか、昨日の会合に参加した。毎日1万歩の散歩のように、あまり規則で自分を縛ると長続きしにくい。Fさんがそう思っているのかどうか知らないが、気が向けば参加するというゆるやかな気持ちなのだろう。その点は筆者も同じで、年6回の会合の半分ほどしか参加しない。6回のうち1回は郷土玩具関係の博物館を訪れるが、それは電車で2時間はかかるので、筆者は今後も参加しないが、心斎橋であれば出かけるのに慣れている。それに昨日はうまい具合に3、4か月に一度開催される
美術骨董品のセールが重なった。それについては去年の3月に書いた。その後も毎回案内はがきが届くが、そのセールだけのためには出かけにくい。昨日は郷土玩具の会が終わった後、すぐに歩いて5分ほどの古美術業者のビルに直行した。客は多く、また社長夫妻と顔を合わせることが出来て、有意義な時間を過ごした。
郷土玩具の会はいつもテーマがある。今回は自慢のコレクションを持ち寄っての発表で、これは毎年4月と決まっているらしい。筆者は郷土玩具全般に関心はなく、伏見人形とごくごく一部の有名な玩具を集めている。それもここ数年はほとんど買わない。置き場所がないからだが、関心が薄れたことにもよる。そのため、伏見人形の掘り出しものがあってもめったに買わない。どちらかと言えば自分で作りたい方で、あれこれと山積している気になる用事のいくつかを済ませば、ぜひとも作りたいものがある。話を戻すと、せっかく参加するからには何か持参しようと思った。参加者はほとんどが70代で、また半世紀以上郷土玩具を収集、研究し続けて来た人ばかりだ。自慢のコレクションはきわめて珍品ということになって、筆者が所有するものはその部類に入るはずがない。それに伏見人形はあまり人気がなく、専門に収集している人はない。そのため、筆者が会合に参加するのは場違いだが、知らない玩具を見るには最適の機会で、勉強になる。また、顔馴染みとなった人たちと2か月に一度程度の2時間を同席するのは楽しい。ただし、会員は高齢化の一途をたどり、若い世代の新会員の参加が大いに期待される。昨日は筆者の背後に初めての参加者が座った。近畿大学の先生で民俗学を専攻し、土人形の発掘に力を入れている人で、筆者は気になって質問したが、予想どおり、その先生の発掘品は
5年前の6月に京都市の考古資料館で展示された。伏見人形に関心を持つ人はわずかで、いずれ出会ったり、つながりが生まれたりする。それほどに狭い世界だ。昨日は20人ほどが出席し、その中に横浜の収集家が去年12月に続いて混じっていた。その女性は特にこだわって収集している土人形があるが、昨日は20個ほどの小さなものをビニール袋に分け入れて持参し、それらの産地をみんなに教えてほしいと言った。するとFさんや会の主宰者など数人が一瞬のうちにほぼすべてを同定した。その様子を見ながら筆者は50年ほども収集を続けると、誰も追随出来ない目利きとなり、またその才能はAIに置き換えることが出来ないはずで、誰かに少しずつ見所を伝授しないことには、いずれ消えてしまうことを思った。美術品は高額であるので鑑識眼を磨く若手は絶えないが、関心を持つ人がごく限られ、価格も安価となると、目利きを目指す人はいないだろう。横浜のその女性は東京で有名な郷土玩具の会にも参加していて、最近そこで前述の20個ほどの人形の産地を参加者に訊いたそうだが、誰もわからなかったという。つまり、日本で最高の目利きが大阪の会に揃っている。
目の利く才能は、興味のない人には理解出来ない。ある美術品が本物かどうか、またその価格を専門家が下すTV番組がある。多くの人はそれに出演する目利きの才能をあまり信じていない。きっと間違えることもあるはずだと、むしろ揶揄する。そのことで筆者が思うのは、自分の子どもの顔を誰しも100万人の中から間違いなく探せる能力だ。その能力を理由を説明することは難しいが、深く馴染んだものは見誤らないということだ。毎日さまざまな絵画を50年も見続け、また見所を学び続けると、そういうことをしない人には想像すら出来ないほどの能力が身につく。さて、今日の話題に移る。最初の写真は下の土人形が筆者が持参したもので、二重に俵が取り囲む中、大黒さんが立っている。20年ほど前にネット・オークションで買った。彩色がないが、色が剥げたのではなく、最初から彩色されていない。裏面はほとんど真っ黒で、これは薪窯で焼いたことによる失敗作だ。煤を削り落とし、全体に胡粉を塗ると煤はほとんど見えないはずだが、製作者はそうせず、さりとて割るのももったいなので、知り合いに無料で贈呈したのだろう。今も製作販売を続ける伏見の丹嘉が焼いたもので、おそらく昭和30年代半ばまでのものだ。その後は電気やガス窯を使用し、素焼きで煤で黒くなることはなくなった。この型の人形はたまに市場で見かけるが、俵が鮮やかで安っぽい黄色で彩色され、筆者はその配色を好まない。無彩色の方がインドの土人形のような風情があってよい。背後のテーブルに並ぶのはFさんが持参した。左から男根を内部に持つ大型のこけし、沖縄の珍しい紙箱つきの馬の張子、雛人形の干菓子の木型とそれを基に型抜きした樹脂粘土製の人形、金沢の水引細工による五月人形の兜、縁日で500円で入手した賀茂人形、そして張子の大きな首で、いずれもFさんの売り物となる。2枚目の写真は会の主宰者のKさんのコレクションで、大阪の生国魂神社の近くで昔わずかに作られたものだが、写真左がそのオリジナル、右が復刻だ。この人形は最近読売新聞で紹介されたという。Kさんが言うには、オリジナルと復刻したものが瓜ふたつで、これは由々しきことではないかとのことだ。筆者はこの人形に全く興味が湧かず、ほしいと思わないが、それは他にいくらでももっと芸術性豊かな人形があるからだ。珍品であっても芸術性の低いものは簡単に模倣されるし、また長い時代を生き延びにくい。つまり神社の祠が燃えて新調されることと似て、この素朴な人形はどちらがオリジナルであっても誰も困らない。その意味で、優れた郷土玩具は今後どんどん誰かが模倣すればよいと思うが、著作権を主張するものがあって、そういうわけにも行かないようだ。