撮った写真をなるべく全部使うとなると、最近は4回か5回の投稿になる。この「神社の造形」のカテゴリーを始めた頃はひとつの神社に対して1回の投稿としていた。

それが現在のように変わって来たが、4,5回の投稿は文章量がそれに比例して増え、書く内容に困る。だが、あれこれ調べたり、直接関係のないことを書いたりして、投稿後はその神社に愛着を感じて充実感がある。つまり、何事も手間をかけるほどによい。それで、このカテゴリーの最初の方に投稿した神社は、撮っていない社がままあるので、再訪するのもいいと考えている。その点、天神宮神社は筆者の行動範囲から外れていて、たぶんもう訪れない。そのことを思うと、天神宮神社だけではなく、写真つきで神社について書くことは二度目はないと決心していることに気づく。それは神社についてだけではない。月末に投稿している思い出の曲についてもそうだ。それはほかに書くべきことがあるからで、ブログに投稿したことで思いを断ち切っている。そうすればまた何かが湧いて来る。そう思うので、たとえば天神宮神社について撮って来た写真の枚数から4,5回投稿すると決めた時、書くべき内容を予め分散することはしなかった。投稿ごとにその時に思っていることをすべて書き、次の投稿のことは何も考えない。そういう癖をこれまでつけて来た。今日は何にも思い浮かばないかと思っていても、書き始めると予想しなかったことが湧いて来る。それは読者にはわからないが、筆者はそうして予想外に湧いて来ることが楽しい。それがあるので毎日投稿出来る。繰り返すと、それは頭にあることを書き始めてからそれを終えるまでに全部吐き出すことが動力になっている。もちろん投稿すべき写真があってのことだが、写真を載せない投稿もたまにあるので、筆者の投稿は写真と文章が補完し合っているとは限らない。たとえば、天神宮神社についてネットで調べると、3,4つのブログがある。末社、摂社の名前を調べるためにそれらを利用することは多いが、それ以上ではない。そうしたブログは神社マニアが写真主体に投稿していて、文章の味わいを楽しむものではない。こう書くと、筆者の文章は神社のことを知るのに全く役立たないと言われそうだが、案外そうでもなく、訪れた時の思いやまた後にパソコンに向かって回想していることなど、それなりに神社との一期一会を書いていると思っている。何が言いたいかと言えば、何事も一期一会で、こうして書くことも一度限りだ。一度限りとなれば、それだけ抱えているものをすべて吐き出そうという気になるだろう。

今日は天神宮神社についての最後だ。筆者はブログ用に撮る写真はめったに没にせず、取り直しもしない。「一発で決める」のが好きで、天神宮神社で撮った写真は1枚だけを残して5回の投稿で全部使う。1枚残したは別のカテゴリーのためだ。それ用に加工を済ませてヤフーのマイボックスに保存してあるが、「神社の造形」の投稿のために訪れて他のカテゴリー向きの何かに出会うことはままある。そのため、筆者のブログは内容がカテゴリーを超えて交わっている場合がある。さて、今日の1,2枚目の写真は筆者には珍しく、境内の雰囲気を伝えるために撮った。最初の写真は階段を130段ほど上がったところにある本殿から南に続く細い道の南端まで行って振り返った様子だ。それを今画面いっぱいに拡大して眺めているが、撮った時のことを鮮明に思い出す。林の奥に石の鳥居が並んでいて、そこに木漏れ日がわずかに差している。行ったことのない熊野古道はこんな雰囲気かと想像してみる。つまり、新熊野神社の「京の熊野古道」とは大きく違って、同じ京都市内でもそこから5キロほど北東部の山手では、平安時代もこうであったかと思うほどに自然が残っている。そのことに驚いて撮った。2枚目は往路の斜面沿いの小径から2、3メートルほど低く、ショートカットの形で参道の階段に続く小径だ。そこをほとんど歩かず、往路を戻って本殿北の日吉、春日、八幡の三神を祀る社を撮った。その辺りのことを詳しく書くとややこしくなるが、本殿辺りとその南部の斜面沿いの社や塚は、異なる区画にそれぞれが位置すると言ってよく、どのような順序でお参りすればよいかわかりにくい。それで5回の投稿に載せた写真は撮った順序ではなく、いわば正しく境内を巡る場合に出会う社の順とした。これは撮影している時は初めての訪問であるので次に何が目の前に現われるかわからず、鳥居や社に出会うたびに撮影したが、投稿の際にそれらの名称を調べればよいと考えた。筆者はいつもそうしている。それはネットあってのことで、メモを取らなくても、記憶を反芻こととネットの情報によって社の配置や名前がわかる。つまり、こうして書くことで、短時間で境内を回って撮影して来た写真をしっかりと記憶することになる。これは写真をたくさん撮って来るだけでは駄目で、文章にする必要がある。確かな記憶にすることに価値があるかと言えば、確実な記憶はほかの記憶と化学反応を起こして新たな関心を惹き起こす。それは自分で予想出来ず、またそうであるから楽しい。さて、名前がわからない社や塚が並ぶ斜面は、本殿のある付近のおまけのような位置にありながら、原始的な雰囲気がなかなかよい。むしろこの斜面がこの神社の中心に思える。時代劇の撮影が出来ると思ったのは今日の最初の写真の眺めによる。

3枚目の写真は前述のショートカットの階段を下りる途中で撮った。これも岩を祀り、名前はわからないが、瑜徳明神であろうか。神社のホームページは現在製作中で、小さな社の名前は神社を訪れた人のブログによって知るしかないが、花を売りに洛中に出かけた白川女を顕彰する石碑があったり、誰かわからないが人物の胸像が石柱の上に建てられていたり、筆者が書かなかったことがいろいろとある。これも他人のブログで知ったが、半被姿の地元の子どもたちがお祭りの日にたくさん集まって神輿をかついでこの神社に訪れる。今日の4枚目の写真はその時に休憩する御旅所で、写真の奥の建物の前に子どもたちが勢ぞろいしている写真を見た。この御旅所は
「その1」で紹介した最初の写真の左方向つまり北に20メートルほどにある。筆者は北白川の古書店に訪れる際、この建物の前まで来てか戻った。当日は何の建物かわからず、投稿する際に御旅所と知った。氏神として範囲を知らないが、北白川一帯であろう。嵐山地区は5月のお祭りで松尾大社に14の自治会が子ども神輿を繰り出すが、最北部のわが自治会のみはそこに向かう前に、嵐山モンキーパークの出入り口のある高台の櫟谷宗像神社の本殿前に神輿を上げ、子どもたち全員を勢ぞろいさせて記念写真を撮る。つまり御旅所としての位置づけだが、櫟谷宗像神社は松尾大社の摂社で、まずは自治会内にある神社にお参りしてから大社に向かう。いつからそうなったのか知らないが、現在の80代の古老が子どもであった頃やそれ以前もそうであるはずだ。そういう伝統は容易になくならず、変化しない。筆者の息子が小学生であった30年前と現在はメンバーがほとんど全員変わっただけで同じ場所で同じ時間帯に同じ格好で撮影している。それは子どもがいてのことで、一時小学生が数人になって少子高齢化を実感したが、畑をつぶして10数軒が建ち、マンションが出来るなどして30人近くに増え、それがまた10人ほどに減って来ている。天神宮神社のある地域は蛇行する白川沿いに比叡山に続く志賀越道があって、神社の前から300メートルほど坂を上って行くと家がほぼ途絶える。そのことからして子どもの数は嵐山地区よりはるかに少ないことが想像されるが、子どもに伝統芸能の踊りなどをさせることのない地域であれば、子どもが減少すれば大人が中心になればよい。江戸時代は現在よりはるかに人口が少なかったが、それでもお祭りは伝えられて来た。嵯峨では神輿の担ぎ手をネットで募集し、日本全国からお祭り好きが集まる。時代ごとに知恵を出し合って対処すればよく、氏神様が消えることはない。境内の縮小、地震や火事などによる被害があっても、社や祠は建て直せばよい。樹木も30年でそこそこ育つ。人生は短いが、神社は何歳かわからないほど長生きだ。