寝床がまっさらの白いシーツで、それが何重にも重なった中心にある丸いテーブルに、おいしい食べ物が山と盛られ、甘い香りを発散している。
その出来たばかりの白いホテルに、黄金虫は毎年やって来る。同じ地域の花が同じ時期に一斉に咲くのは、花同士で常に連絡を取っているからだ。虫や鳥、魚も同じで、風が運ぶ匂いを感じ取って、迷わずに目指す場所に突き進む。どこからともなく黄金虫はわが家の裏庭がにある牡丹が開き切った日にやって来るが、今日はその牡丹が満開になった。翌日には花弁に萎れが目立ち始め、明後日には地面に落ちる。そのことを黄金虫も知っている。それで明日には別の牡丹の蜜を吸っているはずだが、牡丹の花はさほど多くないはずで、黄金虫にとっては極上のホテルで休む気分だろう。人間も含めて動物の一生は嫌なことや辛いことの方が多く、そうであるから稀に幸福感の絶頂が訪れる。咲いた牡丹の花の中心に黄金虫がいる様子を見ることは楽しい。もぞもぞして体中に黄色い粉がこびりついている。花弁に挟まれて眠っている。そんな黄金虫を邪魔したくない。牡丹が精いっぱい咲くのは黄金虫に来てもらうためだ。そして必ず飛来する。双方に信頼があり、決して裏切られることがない。あたりまえのように咲いて、あたりまえのように飛来する。わずかな迷いも裏切りもない。花弁が散る時には黄金虫は目的をすっかり遂げていて、双方とも未練も後悔もない。また来年と言い合って潔く別れる。それは筆者も同じだが、たまに写真を撮っておくのは牡丹と黄金虫の幸福感が年に一度の稀なことであるからだ。それに、裏庭に出て牡丹の花を見る時間は5分ほどだ。その間に黄金虫がいることは、筆者には幸運だ。その一方、熊蜂を見かけないが、筆者が眺める5分以外の時間にやって来ているかもしれない。それを白いシーツを敷いたハンモックの中で横たわりながら待ってみることを想像するが、ハンモックが無理なら、庭に椅子を出して日陰でぼんやりして、黄金のような夢想の時を持つのもよい。それは黄金虫が腹いっぱいの蜜を吸った後で花弁の下でしばらく眠ることと同じで、大輪の花に降り注ぐ快適な日差しの中でしばらくは満ち足りた気分に浸っていたい。それで元気が回復すれば、また花は次の作業を始め、黄金虫は飛び去り、筆者もすっかり牡丹と黄金虫のことを忘れる。これは「逢花打花逢月打月」ということで、愛でる対象が次々に出て来ることが人生の意味だ。今日の2枚の写真は今日撮ったが、虫が嫌いな人は虫を無視して、自分が虫になったかのように、白いシーツが何重にも重なる寝床で甘い香りに満たされながら眠る姿を想像すればよい。人間様を虫と同一視することはけしからんと思う人は、自分が虫程度であることを自覚した方がよい。