迷惑をかけたくないので裏庭の木を剪定する。合歓木は種子から育てて33年は経つ。毎年適当に枝を切らねば小川の向こうの家の壁に届きそうだ。
庭に植えた頃、そこは畑であったから、そんなことを気にせずに済んだ。いつまでも理想的な状態は続かない。家が建ったことで、その家の人から迷惑がられないようにせねばならない。幸い、その家が建って住人が暮らし始めた頃、筆者は自治会長をしていて、その夫婦と何度か顔を合わせて気安くなった。そのため、よほどのことがない限り、庭の木で文句を言われるとは思わないが、それに甘えてはいけない。それに合歓木は庭木ではないから、葉が繁茂する真夏は庭の光が当たりにくい。さて、
12日の投稿「牡丹露」に書いたように、合歓木とそれを挟んで立つ、名を知らない勢いがよ過ぎる木と椿の木にも手を入れるため、12日以降毎日脚立を使って剪定作業をしている。幸いにも土曜日はひどい雨で、小川の上流の堰が閉じられ、今日は昼前に目覚めたが、水深5センチほどに下がっていた。剪定作業には絶好の機会だ。それで、今年1月、
長田神社の参道の商店街で買った長靴を履き、小川の中に立った。一昨日の剪定では、小川に落としたて見つからなかったノコギリの代わりに、ほぼ新品の同じほどの大きさの取っ手つきのノコギリを使った。それは2月だったか、家内の友人の母親が高齢のために娘の家に転居するというので、家内がその手伝いに高槻に行ってもらって来たものだ。また長さ2.5メートルの細い角材の先端にそれを取りつけたが、前回のように外れて落下しないように取っ手に穴を釘で角材に固定した。ネジで固定するつもりが、取っ手の木はとても硬く、ネジが入らなかった。また、切った枝を小川に落下しないように自分の方へ引き寄せるためのS字型の吊り具を角材の反対側の先端に取りつけた。これは針金や紐、ガムテープで固定したが、また外れて流れの勢いが強い小川に落ちた。黄色なので落ちた場所の底にあれば目立つはずだが、川底を覗き込んでも見つからない。中に針金を使った頑丈なもので、木の取っ手をつけたノコギリとは違って、浮いたまま流れては行かない。たぶんどこかで見つかると踏んだ。探すには小川が干上がる必要がある。今日はその機会が訪れたので、早速長靴を履いて小川に立った。目を凝らしながら下流へと歩くと、30メートルほど先で藻に半ば隠れて黄色が目に入った。予想どおりに思ったほど遠くには流れて行かなかった。そのまま今度はノコギリを探しに行こうと思いながら、昼前に起きたばかりで何も口に入れていない。一旦家に戻ったが、もうすっかり空は晴れているので、いつ上流の堰が開かれ、また水深60センチになるかわからない。
食事の後、幸い水深はまだ5センチのままであったので、急いで長靴姿になった。だが、橋の下をくぐるのは嫌なので、小川沿いの道路をゆっくり歩いて光るものを探した。ノコギリはステンレス製で、水深5センチであれば必ず光が目に入る。水が多く流れている時にはほとんど気づかないが、ゴミが多い。それに光るものとして缶詰の蓋を2,3個見かけた。ノコギリに取りつけた木材は長さ50センチほどで、かなり細い。その浮力がノコギリをどこまで運び得るかだが、落下した時、水面に浮いたまま悠々と流れて行った。それで慌てて自転車で追いかけ、800メートルほど下流の小さな、使用されていないコンクリートの橋の上で待ったが、これまでの同様の経験からして、それは充分間に合い、筆者の到着が遅いことは8割はないと思っていた。また、流れている間に取っ手の木が水分を含み、どこかで沈んだ可能性が高い気がした。それで、落下地点から100メートルほど下流で光るものを見つけ、それに細い角材がついていることを確認した。早速小川に下りてそこまで歩き、手に取ると、ノコギリは赤錆がたくさん出ていて、多くの藻が絡まっていた。その藻のお陰でもっと下流には流れて行かなかったようだ。この小川は5月下旬頃に地元住民が一斉清掃をしてゴミや藻を取り除く。その日までに筆者は自力で見つけたが、錆びないはずのステンレスがわずか3日で無残な姿になった。まだ切れると思うので、ともかく出て来てよかった。家内は筆者がS字型の吊り具に続いてノコギリを発見したので、すこぶる機嫌がよい。失くしたものが出て来るのは嬉しい。そう言えば、今年の正月、筆者は母の家でサングラスを忘れた。それはかなり気に入っていた。母の家を出て5分ほどして忘れて来たことに気づき、取りに戻ろうかと思ったが、次回訪れた時でいいと思い直した。どこに置いたのかはっきりと覚えているし、家内はなぜそんなところに置いたままにするのかと、筆者がしゃべっている間に訝ったと言う。その後母の家に行くと、母は知らないと言う。妹が毎日顔を出すので、妹に訊いても見かけないとの返事だ。母は筆者のものだと知って大事にどこかに収納したかもしれないが、妹にあちこち調べてもらっても出て来ない。それでまた同じそのドイツのメーカーのサングラスを買ったが、おそらく70年代の製品で、以前と同じ形のものが見つからない。じっくり探せばあるのだろうが、それまで待てない。買い直したものはおそらく女性用で、何となく気恥ずかしく、似合っていない気がする。それで母の家のどこかから必ず出て来ると思っているが、今のところその連絡が妹からはない。ひょっとすれば母の家で置き忘れたのではなく、5分ほど歩いた途中で落としたかもしれないと思ってみるが、家内はそれはあり得ないと言う。母の家を出た時は真っ暗で、サングラスをかけないからだ。家内も大事にしているものを落としたことがある。以前に書いたが、筆者がロンドン土産のひとつとして買って来たペンダントのトップだ。同じものがあれば買いたいが、ネット・オークションを見ても似たものがない。
落としものは出て来ないと諦めた方がよい。出て来ると感激するが、自分の落ち度が解消されるからだ。落とし物をした時、その物が惜しいというより、うっかりしていた自分に腹が立つ。物忘れをしやすくなったのかと不甲斐ないのだ。それが手元に戻ると、うっかりした後悔が霧散し、少しは若返った気分になる。さて、話題を変える。金曜日の午後、風風の湯に行く少し前、5時半頃のことだ。筆者は裏庭の枝をたくさん伐採し、それを細かく切る作業を小川沿いの梅の木のそばでしていた。すると家内が大声で筆者を呼ぶ。何かと訊くと、隣家の玄関脇に蜂の巣のようなものがあると言う。蜂を見かけるのは裏庭であるから、不思議な気がしたが、家内は筆者が忙しくしているので、自分で枝切り鋏を持ってその巣があるというヒイラギの木の上端部分を切った。そして、ゴミばさみにその巣を挟んで筆者のところまで持参した。直径10センチほどの白いフワフワしたものだ。家内が踏み潰したのかと思い、筆者が積み上げていた枝葉の小山に捨てろと言った。それから5分ほどして筆者はその巣を見ようとしたが、どこにもない。家内に訊くと、捨てた瞬間に風に乗って小川に落ち、そのまま流れて行ったという。それならいいが、どうも蜂の巣とは違うようなので、家内が切ったヒイラギの木を見に行った。それはヒイラギの隣りにもっと大きく繁茂する南天の木で、その頂上部をばっさりと家内は切り落とした。その瞬間、小さな卵が落ちて割れたそうだ。それは蜂ではなくヒヨドリの巣であった。2,3週間前、筆者のすぐ脇をヒヨドリの番いがけたたましく飛び去ったことがある。南天の木に留まっていたのが、筆者が現われたので驚いたのだ。その頃からその番いはその木で巣作りをしようと思ったのだろう。ネットで調べると、ヒヨドリは地面から2.5メートルほどの高さの木に巣を作るとある。また、それは家にとって縁起のよいことで、ヒヨドリの巣は福の象徴ともある。そのことを家内に言うと、かなり落ち込んだ。せっかくの福を自分から捨てたことになるからだ。それどころか、何かよくないことでも起こるとどうしようと言った。家内が大声で筆者を呼んだ時、筆者は作業を中断してその巣を見に行けばよかった。そうであればヒヨドリは卵を壊されることもなかった。それで筆者が思い始めているのは、ノコギリが戻って来たことでもあり、木材でヒヨドリの巣箱を作り、来年はそれを隣家の裏庭のどこかに設置することだ。玄関脇の南天の木は低くなったし、またそこでは雨がかかりそうだ。今日の3枚の写真は今日の2時頃、家内とムーギョに買い物に行った時に撮った。最初の写真は
先月末の投稿に載せた小川に架かる桜を同じ角度で撮った。2枚目はもっと下流で、山吹が美しい。3枚目は松尾橋のバス停にある白いスミレで、もう盛りを過ぎていた。4枚目はムーギョの近くで、白いサクラソウが珍しい。