邪な思いでも神様は聞き入れる。ただし、何が正しくてそうでないかは人によって考えが違う。それで、神に祈るとどんな願いでも受け入れてもらえる。
たとえば恵比寿神社にお参りして商売がうまく行きますようにとか、宝くじが当たりますようにとか、金銭的な願をかけるとする。耳がかなり遠いとされる恵比寿の神様はそれを聞き入れてくれるだけであって、願った人が金をどう使おうが知ったことではない。あるいは人の心を見透かしていても、その人の心は次の瞬間に変わるものだ。つまり、神様にかなえてもらった金運を、その後どのように使うかは神様の知るところではない。その金で親孝行する人もあれば、極端な話、殺人者を雇う人もある。後者は邪な行為と言えそうだが、前者の親は大悪党で、後者の殺人がひどいことをされたことに対する報復とすればどうか。邪か正義は立場によって異なる。以前に書いたが、久しぶりにまた書いておくと、「神社の造形」の投稿を始めたひとつのきっかけは、郷土玩具の年配の会員から、「御所の神社」に架けられていた女の生首を描く絵馬にまつわる話を聞いたことだ。その後、ある本を入手し、その女の生首の絵馬を神社から持ち去った人の名前と顔を知った。とっくに亡くなったが、生前は京都の郷土玩具界ではそれなりによく知られていたようだ。その「御所の神社」の具体的な名前を聞き損ねたが、とにかく御所の中かその付近の神社で、訪れればわかると思って2年前の秋にいちおうすべてを巡り、写真を撮った。絵馬架けのある神社はもちろんあるが、おそらく昭和30年代前半と今は大違いで、今では自分で表側に絵を描いた絵馬を見かけない。女の生首を描いた絵馬を持参して願かけする人は女のはずで、よほどある女が憎かったのだろうが、そういう珍しいまた不気味な絵馬をいくら熱心な収集家であっても、黙って持ち去る思いが筆者にはわからない。とはいえ、コレクターとは盗んででも珍品をほしがるもので、それくらの熱意がないことには当代一の名を得られない。また、神社に断って持ち帰ることも出来ない。奉納された絵馬はたくさんたまれば燃やすだけで、値段札をつけて神社が売るものではない。そのため、ほしいと思えばこっそりと持ち帰るしかないし、神社も気づかないだろう。以前に書いたので詳しくは書かないが、その収集家はその絵馬を持ち帰った後、いろいろと災難に見舞われ、またその人の収集品を後に一括で購入した人も同じようなことが起こった。現在その女の生首を描いた絵馬がどこにあるのかわからないが、まとまったコレクションであったので、どこかの絵馬の研究家が持っているのではないか。
絵馬が郷土玩具の中に含まれるのかどうか、異論はあろうし、筆者は玩具とは思わないが、人形も所有者が思いを寄せるものであるから、絵馬も郷土玩具に含めてもおかしくはない。収集家は絵馬のさまざまな絵を愛玩するし、それは郷土玩具の色や形を愛玩することと同じだ。ただし、絵馬は基本は神社に付随するもので、願いや祈りを託すものだ。いやいや、郷土玩具の中にもそういう役割を持つものがいくらでもある。つまり、郷土玩具は神社と縁が深い。寺とはどうかと言えば、寺が授与する土鈴などがあるから、郷土玩具は社寺とつながっている。ところで、社務所で御守りや絵馬、そして特性の授与の品物が売られているが、筆者はほとんどそれらに関心がない。その理由はその神社の氏子たちが作ったものではなく、どこかの専門の工場に作らせているからだ。それに関連した話を少しする。筆者が16、7歳の頃、近所のお土産調達工場とでも言うべき会社で2週間ほどアルバイトをした。大きな倉庫に多くのダンボール箱に入った郷土玩具が各地から毎日運ばれて来る。それらは半完成品で、工場の年配の女性は会社の営業マンが日本各地の温泉地の旅館から取って来た注文の種類と数に応じて、その旅館の名前を樹脂胡粉を入れた注射器で郷土玩具のどこかに書き入れる。つまり、全く同じ商品が北海道と九州で売られていたが、それらの玩具を作っているのは大半は大阪の下町の家内工場だったはずだ。昭和30年代以降のモダンな造形で、いわゆる郷土玩具愛好家が収集するものでは全くなく、郷土玩具関係の本には絶対に載らないものばかりだ。日本の旅行ブームのためにそういうちゃちな贋物の郷土玩具が当時は大量に売れ、どの家にも10や20個は箪笥のガラス扉の向こうに並んでいた。それらは本物の郷土玩具とは違って、誰にも顧みられず、99パーセントはゴミとなった。残り1パーセントは個人的な思い出から大事に所有されているか、あるいはそれなりに見所があって、侮れない作品になっている場合だ。問題はそれで、ある地方の特徴を表わすものではなく、また大量生産品であっても、それなりに面白い個性を持っているものがある。当然だ。人間が作るものであるから、昭和レトロそのものと言ってよい時代の反映があるし、安価であるからには、柳宗悦が言うように健康的な美も宿り得る。だが、戦前からの郷土玩具研究家はそういうものは目もくれず、評価もしない。そうそう、そのアルバイト先で筆者は気に入ったものを1個だけ買った。大事にするつもりもないままに、今も目につくところに置いている。いつかそれを紹介するが、確かにユニークさはあって、普通の子ども用の玩具店では扱わず、また大人の文具店にもない。
話を戻すと、神社の御守りは織物の袋状に仕立てているが、ほとんどは京都の西陣の安物を扱う工場で織っているのではないか。あるいはもっと品質の悪い外国の下町の工場で作り、前述のように北海道から九州までの神社が注文するだろう。そういうものを筆者はほしいとは思わない。その地方独特の鄙びた感じがほしいからだ。とはいえ、神社ごとに御守りを異なる織物工場で織らせることは不可能で、ある工場が100や200の神社から受注することは仕方がない。日本中どこでも同じような形や織物をやめればいいと言うのは簡単だが、やめたとしてそれに代わる何かを案出する人がおらず、作り手もいないのが現状で、どの神社の社務所もほとんど代わり映えしないものを売る。郷土玩具ですら、もう若い人が注目することはほとんどなく、新しい時代の優品を生まなくなっている。それで郷土玩具に関心を持っても、骨董品を集めるしかない。絵馬や御守りなど、神社の授与品に目を向けると、画一化の味気なさを実感するだけで、その神社を思い出す縁とはなりにくい。それにどの神社にも社務所があって特性の授与品を常に売っているとは限らない。それで筆者の神社への関心は、その造形にあるとは言え、ほとんど境内を歩いてその土地の雰囲気をいかに代表しているかを実感する程度だ。社や祠の構造などに目をつけ、似てはいるが神社ごとに細部が違う妙を楽しむ方法もあるだろう。それは鳥居についても言えるはずで、本当は神社の建造物についての知識を深め、それに着目すれば意外なことに気づくはずだが、ただ写真を撮っておしまいで、その現状を打破する契機をつかみかねている。それには神社建築の本をひもとく必要があるだろうし、またそうしても神社の建築物はいくつかの根本的な共通事項を持っていて、北海道から九州までコンビニのようにどこでもあまり大差ないことを知るように思う。となると、神社で売られる御守りがどこもほとんど同じであることは正しく、また今は知らないが、京都の西陣で織られるのは理にもかなっていることに気づく。そう思う一方で、どの神社もその土地に根ざした趣つまり個性があって、「神社の造形」とは、共通性の中のわずかな差のことだ。またそれは郷土玩具のたとえば伏見人形でも言えることで、さらには前述した昭和30年代から40年代までのごくわずかな期間に大流行した工場製品としてのモダンな土産品の人形などでも言える。個性的な形があり、形には個性がある。あたりまえのことだが、人さまざまで、その個性すべてが楽しいとは言えない。それで筆者は自分が楽しいと思うことに着目する。
今日は写真を5枚載せるので、以上は半ば無理やり書いたが、微妙なところに触れられたと思う。昨日の写真は通りの奥にある石の鳥居をくぐり、階段を上ってその最上段に着いたところまでを紹介した。この神社の大きな特徴は、鳥居に至るまでに石の橋があることだ。これは地名の北白川つまり北方の白川に架かっている。社務所は鳥居をくぐって右手にあったが、御守りなどを売っている気配はなかった。社務所のすぐ近くに明治天皇が詠んだ歌の石碑、また階段の途中の右手にも赤っぽい球体の石を据えた記念碑のようなものがあった。石が目立つのは北白川が石の産地であるかららしい。北白川で石材を産出することは昔からよく知られ、たまにTVでも紹介される。明治天皇の和歌は、その石工の作業の音が春雨が降る中に聞こえるというもので、今は良質の石を取り尽くしたのか、往時の賑わいはない。白川をわたって境内があることは、白川と石の橋がこの神社の顔ということだ。また明治天皇の碑や橋の石材は現地のものだろう。白川は蛇行しながら南に流れ、南禅寺で疏水につながり、岡崎から知恩院辺りを経て鴨川に流入している。筆者は岡崎から鴨川に至る川べりはよく歩くが、天王町から北はほとんど土地勘がない。白川に平行して「哲学の道」があることは知っているが、それは白川疏水沿いの小径で、白川の東200メートルほどが白川疏水だ。白川疏水沿いにも神社があって、そのひとつを去年家内と訪れた。それはともかく、天神宮神社は北白川にあるので、「北白川天神宮」と呼ばれることが多いようだが、昨日の2枚目の写真からわかるように、石標には「天神宮神社」とあって「神」が繰り返される。これはどうかと思うが、「宮」で終わるのは特別な神社で、普通は「社」であるから、「天神宮神社」が正しいだろう。また、「天神」となると、北野天満宮とどういう関係があるのかと思うが、祀ってある神が違う。菅原道真ではなく、もっと歴史が古い。少彦名命(すくなひこなのみこと)で、記紀万葉に出て来るが、大国主神に協力して国作りをしたとされる。この地域の氏神で、松尾の松尾大社のようなものだ。だが、本殿は階段を130段ほど上ったところにあり、またその場所はあまり広くない。今日の最初の写真は、階段を上り切った目の前に広がる眺めで、2枚の写真を横につないだ。中央は舞殿、右手が拝殿で、本殿はその奥にあって見えない。方角がわかりにくいが、地図を見ると、拝殿は真西を向いている。写真左奥の大きな建物は何かわからない。2枚目の写真は舞殿の奥に拝殿を覗いているが、左手に石の鳥居が見える。それが3枚目の写真で、額には「日吉大神」「春日大神」「八幡大神」の三神が記される。4、5枚目は次回に説明するが、4枚目は「加茂社」だ。5枚目は「天照社」でとても小さい。その分、この神社が日中でも薄暗いことに符合している気がする。