洒落た題名にするには、参道入口際の石碑に刻まれている名称の方が、神社のある地名「久世」を加えるよりいいだろう。だが、厳島神社は日本に五百ほどあるとされ、今日の題名は最も有名な広島のそれを連想させかねない。

筆者が安芸宮島の厳島神社に行ったのは、ブログを始める前だったと思う。写真を撮り、写生も少ししたが、次に広島に行くことがあれば呉に足を延ばしたい。そう言えばつい先日、TVで呉の街を紹介していた。海に面するので魚がおいしいそうだ。家内は舞鶴に似た街で、それなら行かなくもいいと言った。筆者が呉に行ってみたいのは、戦艦大和関連だが、戦艦に大いに興味があるのではない。舞鶴に行ったからには同じ軍港として呉もと思うだけのことで、呉についてはほとんど知らない。瀬戸内海沿いの街を順に大阪から遠方へと行ってみたいのだ。それで広島の次は呉かと思っている。今なら呉の有名な神社も見たいが、呉は京都からは中途半端に遠い距離で、1泊して他にどこへ行くかが問題だ。それはさておき、今日と明日は先月13日、右京税務署に申告に行った後に訪れた久世の厳島神社について書く。その日まで全く存在を知らず、偶然見つけた。ブログのネタが出来て、バスの1日乗車券を有効に使えた気分だ。また、カメラを持っていたので、出かけ直さずに済んだが、この神社は筆者がよく通っている向日市のとある場所から歩いて10分もかからないところにあり、その気になればいつでも行ける。
「西国街道、その3」の最後の地図では、右下の久世中学校の北、郵便局の記号のすぐ左の直立した赤線が境内で、珍しい地道の参道が200メートルほど続く。今日の最初の写真は西国街道沿いの郵便局の西隣りに立って北を向いて撮った。写真からはわかりにくいが、石柱の文字には、「島」の上に「山」があってこれは「嶋」だが、全体で「村社 厳嶋神社」とある。「村社」というのがなかなかよい。久世は工場地帯が広がるが、それがない頃は人の往来の多い西国街道が通る村であった。そのイメージがこの神社からよく伝わる。だが、今では参道に踏み込むと、左側に工場の塀がずっと続き、操業の音も聞こえて来る。右側は住宅で、そこは静かだ。境内の幅は参道の3、4倍ほどの狭さだが、突き当たりに行くと突如空間が広がり、その中央に風格のある社がある。今日の2枚目の写真の鳥居をくぐって北に歩み始めた時、頭によぎったのは変な連中がたむろしているかもしれないという不安であった。何しろ本殿が見えないままにひたすら参道が続く。このような神社がバスやダンプ・カーが走る大通りのすぐ裏手にあるとはとても想像出来ない。それは日本ないし京都の面白さと言えるかもしれない。想像を絶するような人がすぐ隣りに住んでいるようなもので、あまり表向きの大まかな様子だけで全体を判断してはいけない。工場を作るのに広い面積が必要で、金のことだけを考えればこういう神社は無駄な存在だ。

それどころか、誰が世話をするのかという問題がある。地元の自治会の人たちが熱心とは限らない。その傾向は年々増し、今では自治会に入る人は確実にどこでも減少している。「村社」となれば、今は「村」ではなく「区」や「町」になっているが、ともかく地元のものであろう。村の鎮守の森というのは日本全国どこでもあったが、この神社はそういうものであろう。筆者が心配したようには境内に人はおらず、また社務所もなかったが、拝殿や末社には防火用の赤いポリバケツがたくさん置かれていて、放火を懸念している。そのバケツは京都市では自治会で用意するものだ。そのことからもこの神社が地元の住民の世話になっていることが想像されるが、そういう一種の共有財産としての神社があるのかどうか筆者にはわからない。先ほどネットで知ったが、この神社からそう遠くないところに大きな神社があって、筆者はそこに2年前に訪れて写真を撮ったが、その神社がこの厳島神社の管理をしているようだ。その神社とどういう関係があるのかまだ調べていないが、筆者がブログによく書く同じ地元の五社神社も誰も住んでいないので、管理は地元の人たちが中心にしているのではないか。今日の最初の写真からわかるように、参道入口の石碑や石燈籠はまだ新しいようで、それらを整える資金がどこから出るのかと言えば、やはり地元の有志が率先するだろう。神社につきもののお祭りがあるのかどうかだが、この神社の雰囲気からしてそれはなさそうだ。それゆえに森のたたずまいで存在していることが大いに不思議で、無用のようでありながら、久世の歴史の古さを誇っている。では、なぜ「厳島神社」なのか。同じ名前の神社は御所の中にもあって、確か3年前の秋に行って写真を撮った。それは池の畔にあり、社は島状の土地に建っていなかったと思うが、その雰囲気はあった。宮島の厳島神社を勧請したのであれば、同じように海ないし水に関係した地域であったのだろう。この神社の500メートル東に桂川が流れている。その流域は時代によって多少変化して来た。おそらくこの神社が出来た頃、神社のすぐ際に桂川が流れていたか、あるいは先日の
「新熊野神社、その6」に書いたように、池があったのだろう。また、ほとんど島状の土地に建っていたかもしれない。それを確認するには古地図を見ればいいが、「村社」であれば有名な神社の多い京都ではほとんど無視されて、記されていない可能性がある。それはともかく、工場や民家が建ち並ぶ以前は境内の東西はもっと広く、それがリンゴの芯の部分だけが残った形になったように想像する。どの神社も似た経緯をたどり、今の日本では神社は肩身が狭く、民家がわが者顔をしている。だが、神社はほとんどそのまま保存されるのに対し、民家は数十年で建て直される。

3枚目の写真は参道突き当たりの拝殿でその奥に玉垣で囲われた本殿がある。さほど大きくないが、境内の規模にしては立派なもので、参道を不安気に歩いて拝殿前に来ると安堵する。本殿裏に少し空き地があり、参道を戻らずとも北側にも出入口があると思ったが、それは正解であった。しかも筆者がその北側の鳥居から出ようとした時、若い女性が自転車に乗ってやって来た。彼女は筆者がたどった参道を逆走するしかなく、少しでも近道を選んでいるのか、あるいはお参りするためにやって来たのだろう。境内で人を見たのか彼女のみで、変な輩でなくてほっとした。彼女は反対に怪しいおっさんが出て来たと思ったであろう。3枚目の写真の右側に立て看板があり、祭神などが記されていた。これについては明日書く。4枚目の写真は柵で囲われた祠で右側に名札があって、「年當講社」と墨書される。背後の様子からして境内西端の工場に背を向けている。講社は多くの人から寄付を募り、何かの運営をする団体のことだが、「年当」の意味はわからない。厳島神社の祭神に関係した特別の年度の行事のために講社が作られていて、その礼拝用の祠なのかどうかだが、鍵つきの柵で頑丈に保護されていて、特別に重要なものに見える。また講社があることは、この神社を熱心に支える人が多いのだろう。今日の写真から伝わると思うが、木漏れ日が多く、境内には樹木が目立ち、それは西側のバス通りから見れば他の建物より高く聳えている。筆者がこの神社の存在に気づいたのも鬱蒼とした木々を見たからで、参道に踏み込むと背後の大きなビルも目に入らない。地元の人がどれほど愛着を持っているのか知らないが、先日家内はぽつりと言った。家内と筆者が最初に暮らした場所が梅津の梅宮大社のすぐそばで、家内は神社の近くというのが静かで環境がよいと思っている。わが家から最も近い神社は松尾大社ではないが、その氏子の地域に住んでいる。そして家内は、松尾大社は大きい割りに近くに店がきわめて少なく、その理由は何かと不思議がり、きわめて庶民的な雰囲気の梅宮大社の方に愛着があるようだ。息子の初参りをそこでしたのでなおさらだ。また今ではムーギョに買い物に行く途中でその参道前を必ず通る。その梅宮大社の近くにも大工場が広がるが、厳島神社の方が小さくてとてもさびしい。だが、樹木は多く、参道を含めて昔のたたずまいはよりよく残っているだろう。古くて静かな雰囲気がいいと思うのは、古い人間になって来たからだ。ただそれだけのことで、神社の由緒などに関心が深まることはない。自分の人生は短いが神社が今後も長く残ると思うと、安心感が芽生える。