水の神は弥都波能売命(みずはめのみこと)で、不動明王でもあることを新熊野神社のホームページで知った。大阪の法善寺横町に全身が苔で覆われた水かけ浮動が祀られている。

それに何度か水をかけたことがあるが、滝の近くに祀られるのは水の神であるからには納得出来る。だが、背後の真っ赤な炎は水で消えてしまうのではないかと、いささか不謹慎なことを考える。新熊野神社の下之社には、水の神のほかに穀物と養蚕の神「稚産霊命(わくむすびのみこと)」、火の神「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」、土の神「埴山姫命(はにやまひめのみこと)」が祀られ、どれも自然の恵みを象徴するとされる。今日の最初の写真は同神社のホームページに写真は載っていないが、両脇が文殊と普賢菩薩で、中央は毘沙門天であることはわかる。文殊普賢は火の神、毘沙門天は土の神だ。
「その4」に載せた不動明王が収められるケースも下之社の近くにあったかどうか記憶が定かでないが、
「その2」の最初に掲げた写真の左側が今日の最初の写真、右側が2番目の写真と同じで、その左右のケースの間に見える数段の階段の奥から筆者はこちら側に降りて来た。つまり、「その4」の不動明王はその階段の上がった北側にあるはずだ。今日の2枚目の写真は「花の窟(はなのいわと)」と題される。3枚目の写真の傍らの立て看板によれば、この神社の主祭神のイザナミノミコトの神格を記すためにイザナギ・イザナミの国造りの神話を描く。写真からそのイザナギ・イザナミの姿ははっきりとわからないが、イザナミは堂本印象が描くコノハナザクヤヒメを思わせ、色気が漂う。筆者は「京の熊野古道」の巡り方を間違ったのか、このブログでの写真の投稿順は神社のホームページの説明順にはなっていないが、知っていながら最後に撮らなかった石碑がある。それは帰り際に見かけた鳥居のそばの能面を鮮やかな色で描いた楕円形の石碑だ。長年の雨でその絵は剥げるはずで、そうなっていないところ、新しいものだろう。それはこの神社が能楽発祥の地で、足利義満が観阿弥と世阿弥の猿楽を鑑賞したことを伝えるためのもので、能の関係者にとっては聖地と言ってよいが、筆者が知ったのは最近のことだ。ところで、筆者が京都に出て友禅師に就いて友禅染を学び始めた時、師は能の謡曲を趣味としていて、謡曲は友禅師にとっては学ぶべきものという意見であった。筆者はこれまで何度か能を舞台で見たことがある。それにもかかわらず、今なおほとんど関心がない。能に関する本は多少持っているが、まともに読んだことがない。そのため、観阿弥、世阿弥と聞いてもピンと来ないが、友禅染とは無関係ではない能装束の色合いやその文様についてはこれまで展覧会を何度も見て、それなりに愛着がある。能をあまり好まないのは、何を語っているのかわからない、英語よりも難しい言葉による謡曲であるからで、そのおおよそのないようはともかく、記憶する気は全くない。また、今の若い友禅師が謡曲を学んでいるかとなれば、友禅染にとってそれがどのように意味があるかを理解させる必要があるだろう。古典の大切さは当然でも、古典は膨大に存在する。そのどれもが日本文化につながっているからには、謡曲を歌えても、それのみが友禅染を理解する最適なものとは限らないのではないか。

今月9日にMIHO MUSEUMで展覧会『猿楽と面』を見て来たので、能についての話題はちょうどいいが、同展の感想をまだ書いておらず、また何をどう書くかも考えていないので、今日は話が広がらない。新熊野神社のホームページによれば、観世父子が猿楽を演じた「今熊野」が新熊野神社であることがわかったのは30年前のことらしい。いろいろ考え合わせた結果、それが一番もっともらしいとの判断だろう。演目が何であったかは、現在伝わる能の演目数が30分の1の200ほどで、その中の観阿弥作とされるものから考えて「白髭」とされている。この神社のホームページでその下りを読むと、滋賀の高島にある白髭神社に行くこと、能の「白髭」の内容を知ること、そして猿楽から能となって行く過程など、あまりに多くの事柄を知る必要を思って、筆者はほとんど呆然とする。そういう時に30数年前に友禅師から謡を学んでいれば少しは尻込みすることはなかったかと言えば、それはわからない。古い文化に触れる道筋は無数にある。どこかの細い道から入って、やがて大きな道に至るものだ。今の筆者は細い道ばかりを方向感覚なしにぐるぐると回っているも同然だが、それでも道に踏み込まないよりはましだろう。その道のひとつは「京の熊野古道」であり、またこの神社のホームページをかいつまんで読むことでもある。きっかけはいつでもどこでもあるもので、要は知ろうとする気持ちだ。それは、ある未知の道に踏み込み、もう少し先に行くという思いの連続で、本物の熊野古道はそういう思いにさせるのだろう。後白河上皇は今様を知るためにありとあらゆる人を呼び寄せて学んだとされる。貴族の優雅な趣味と言ってしまえばそれまでで、現代の人は平安時代の貴族以上に自由な時間を所有しているのでないか。さて、同神社のホームページで知ったが、神社の西側は後白河上皇の時代は大きな池であった。筆者はその町内を歩いたことがないので土地の雰囲気を知らないが、現在の地図を見ると「今熊野池田町」となっていて、町名に池の名残がある。西に鴨川があり、また京都盆地の南方であるからには、大きな池があっても不思議ではない。もっと南方にあった巨大な小椋池も今ではすっかり埋め立てられて高速道路が縦横に走る。その変化を考えれば、街中の今熊野から池が消えるのは無理もない。池田町は大部分が学校の敷地になっているが、湿地を埋め立てて学校にすることは、去年から大きな問題になっている豊中の瑞穂のなんとかという小学校と同じで、珍しいことではない。応仁の乱で荒廃したこの神社は、当初はもっと大きな境内で、本殿や上中下の社の位置も違ったようだ。そして、観世父子が演じた場所は現在の境内の中ではなく、もっと南方であったようだ。だが、上皇が植えた大樟は同じ位置にある。後白河上皇の名前は永遠に残っても、その大樟の命には限りがある。枯れた後、「大樟跡地」と記した石碑を建てて更地にするのか、あるいは熊野から新たな苗木を持って来て植えるのか。後者であれば天皇に依頼することになるか。