快速の市バスがある。先週火曜日に1日乗車券で出かけた時、銀閣寺前でそれに乗った。10分ほど待っている間に小学生高学年の団体を含めて30人近くが集まった。
やって来たバスに全部乗れるかと思っていると、すぐ後ろにほとんど空席のもう1台のバスが着き、3分の1ほどの人はそれに乗った。2台のバスは筆者が降りる河原町今出川まで同じルートを進む。立ってもいい筆者は先に来たバスに乗った。乗ってすぐに小学生を引率する先生は「快速やな」と他の先生と話し始めた。筆者はそれに気づかなかったが、なるほどいくつかのバス停を飛ばして走り続ける。小学生の団体は河原町今出川のひとつ手前のバス停で降りた。バスはとても空いたが、筆者が降りるのは次のバス停で、立ったままでいた。快速は確かに快く速い。少しは得した気分になった。その日は向日市にも行った。そこから銀閣寺までは南西から東北へ縦断で、一直線なら12キロほどだが、碁盤目状の街路をジグザグに進むので20キロはあるかもしれない。京都盆地の北西に住む筆者は、市内にバスを使って出かける時はたいていそれくらいの距離を乗る。そのため、昨日書いたように、1日乗車券が600円に値上げされても充分安い。ただ、バスは時間どおり来ないし、渋滞でいらいらさせられることも多い。風風の湯でよく会う81歳のMさんは、そのために高齢者用の年間定期券を買うつもりはないと言う。25日の天神さんの縁日へは嵐電、京都駅に出るのはJRを使い、バスに乗らない。時間と速さのバランスを考えると、またついでの用事を増やすのであれば、バスの1日乗車券が一番よい。それは2年前に京都バスにも使えるようになり、また松尾橋以西にも使えるように範囲が拡大されたからでもある。さて、京都盆地の北西から南東に行くにはどういうルートが一番いいかと言えば、以前は四条河原町へ出て、祇園を経て南下していた。これは混雑する四条通りを走るのでとても時間がかかる。そこで途中の四条大宮で下車し、そこから南方の東寺、東福寺を経て東大路通りを北上する路線を使うようにした。これがなかなか気に入っている。あまり乗り慣れないことと、とても早く感じるからだ。先月27日にその路線に乗ってキモノの仕立て屋に向かった。それのみの用事で、1日乗車券がもったいなかったので、最寄りの今熊野のバス停から東大路通りを北上して岡崎の府立図書館に行くことにした。全く寒くなく、また好天気だ。だが、図書館の前に着くと臨時休館の貼紙があった。無駄足だが、散歩と思えばよい。その日はキモノを受け取る前に計画していた別の用事を済ました。それは仕立て屋が現在の場所に転居した7年ほど前から、いつでも行けるかと思いながらそのままにしていた新熊野神社を訪れることだ。
バス停は「今熊野」というが、神社は「新熊野」と書いて同じ発音だ。同じ東大路通りの丸太町に熊野神社があるが、「新」がつくからにはそれより新しい。調べると350年の差がある。350年前に建った神社の向こうを張って新たに熊野神社を勧請すれば、「新」をつけるのは当然だ。その350年の差はいつまで経っても変わらず、かくて新熊野神社は永遠に新しいイメージがまとわりつく。それはともかく、京都にはそのような古い神社がたくさんあって、歴史好きはどこを歩いても気になるだろう。筆者は歴史好きではなく、京都について深く知りたいともあまり思わないが、それは京都の名所にはいつでもどこでもその日に行けると思っているからでもある。銀閣寺のすぐ近くに住む人が一度も銀閣寺を見たことがないという話を聞いたことがある。それと同じようなものだ。あまりに身近で意識しないのだ。新熊野神社にしても近くに用事がなく、仕立て屋がその近くに引っ越したので縁が出来ただけで、そうでなければ筆者は境内に踏み込まないままであったかもしれない。一方、四半世紀前から和歌山の熊野三山に訪れたいと思いながら、その団体バス・ツアーがなくなってしまい、車で行くしかないこともあって、もうほとんど諦めている。そう言えば3年前か、宇治に暮らす下の妹宅に行くと、玄関を入ってすぐに熊野三山で買って来た御守りがあった。訊くと、車でさっと行って来たとのことだ。自家用車を持つ者は筆者とは違ってそうとう行動がすぐで範囲が広い。その妹夫婦は旅行三昧の日々で、ラスヴェガスに何度も行くなど、世界中に行っている。それはうらやましくはないが、熊野三山に行って来たことを聞いて、筆者が25年も悩んでいることがあまりに物事を遅々として進めない優柔不断に思えた。ついでに思い出したが、2年前に那智勝浦に転居した近くに住んでいた独身女性は、引っ越す前に筆者に気安く、「おいしい魚を食べに来てください」と言ったが、筆者は和歌山市以外、和歌山県は有名な白浜にも訪れたことがない。熊野三山を訪れるついでに那智勝浦のホテルを利用する手もあるが、そこまで行くのに電車で1日がかりだろう。だが、そういう京都からの遠方であるのに、平安時代の貴族はよく訪れた。熊野三山に詣でるために往復1か月もかけて、また何十回もであったが、深い信仰心以外にたとえば温泉に浸かるなど、京都では得られない魅力があったのだろう。筆者は西国街道の微々たる区間でも歩いたとは言えないので、京都から徒歩で熊野三山となると、想像すら出来ない。だが、西国三十三か所や四国八十八か所巡りをするために今では世界中から訪れる。京都から熊野詣を企てる人は稀ではないかもしれない。ともかく、死ぬまでには詣でたいと思っているが、団体旅行がなくなるほどに人気がない場所ではないか。
新熊野神社は後白河天皇が勧請した。三十三間堂とセットになっている感があるが、これは神と仏が同一視されていたからだ。風風の湯でTさんは明治の神仏分離令について「よけいなことをした」と言ったが、鳥居のある寺が今でもたくさんある。それは政府の命令にすぐにしたがわなかったのだろう。明治天皇を神とみなし、神道、神社はいいが、仏教、寺は不要と考えた当時の役人たちは、神社を純粋な日本の象徴と思っていた。純粋な日本の定義は無理な話で、遺伝子的にも日本人はアジアの雑種であることがわかっている。南方の海から、また大陸から人々がやって来て混血を繰り返し、やがて国家が出来上がった。向日神社は元稲荷古墳のある向日山に建つが、その古墳と神社の関係は今ではわからないことの方が多い。にもかかわらず、誰でも関係があることを知っている。一方、古墳に葬られる人はすべてわかっておらず、それどころか宮内省は発掘を禁止しているが、神社は何度も建て替えられ、また御神体もただの岩に過ぎないなど、人間が技術を凝らして作ったものとは限らない場合の方が多い。そのため、「神社の造形」とは、西洋の建築や彫刻、絵画のような芸術と同じ地平では論じにくいが、その点を仏教が担った。つまり、「形」を重視する考えを日本は外からもらった。それは日本独自の芸術を生む契機になった、あるいは形の美を多彩化するきっかけを得たと言ってよいが、仏教しかない国とは違って、神と仏をどう矛盾なく関連させ、系統づけるかの考えによって複雑な装飾の芸術を生んだ。明治の神仏分離によって廃仏棄釈が起こり、多くの寺宝が破壊されたが、千年も続いた神仏習合を否定することは土台無理な話だ。だが、日本の極右は神道国教化への考えを完全には捨てていないだろう。彼らが圧倒的勢力になると神社をすべて国家の統制化に置き、一方で仏教や他の宗教を排斥するかもしれない。明治の廃仏棄釈と同じような狂気がふたたび起これば、それは歴史にあまりに無知で文化の価値を認めない野蛮の跋扈だが、それは純粋志向に宿りやすい。混血しながら現在の日本を形成して来たことを自覚すると、緩やかに外国人を受け入れる考えがまともであることがわかる。そこには軋轢は当然生じるが、それを超える利がある。さて、今日からしばらく先月27日に撮った新熊野神社の写真を使って書く。正直なところ、「神社の造形」のカテゴリーはあまり気が進まない。だが、そうであればなおさら書く意味があるかと思う。それなりに調べることもあるからで、そのことで多少は成長するだろう。関心のあまりないことでも調べるとそれなりに思うことがあるし、自分の歴史や文化に対する無知さ加減や知識の範囲を客観視することが出来る。今日の写真の説明は明日にする。