盗まれることはまずないと思うが、関係者を装って夜間にどこかへ運ばれてしまわないかと思わせる工事現場の重機だ。現在渡月橋付近で行なわれている工事の重機は、午後5時には右岸の嵐山公園の端っこに停め置かれる。
ユンボ2台とキャタピラーの大型トラックで、重機を動かすのはわずか3名だ。交代要員が必要だが、それでもごくわずかな作業員で済む。江戸時代なら10倍の人を使って10倍の工期となったであろう。AIによってあまった労働力は、農作業や土木工事に回せばいいようなものだが、しんどいことはみな嫌がる。人間にはその本能があるので、AI化の世の中へとまっしぐらに突き進んで来ている。だが、そのしんどいことが何かとなれば、人によってさまざまで、ある人にとってしんどいことが他の人にはそうでない場合が多々ある。そのことは風風の湯の常連を見てもわかる。Yさんは週に2,3回は愛宕山に登るが、お金をもらっても絶対に登りたくない人もいる。Yさんにしても山登りはしんどいことに違いないが、それを上回る達成感がこたえられない。しんどいことを言えば、まず生きることがそうで、10代が自殺するのはそれが理由だ。生きていることにしんどさと快楽のどちらが大きいかと言えば、たいての人は苦労ばかり多いと思うだろうが、その苦労も長年経って思い返せば案外そうではなく、そこに幸福があったことに気づく。つまり、しんどいことがあって楽しさも深まる。しんどさが皆無であれば、楽しみもさほどではないだろう。筆者はと言えば、このブログを書くという自らに課した義務は、しんどくはないと言えば嘘になる。投稿し終えた後はほっとするが、また次の日の投稿があるから、しんどさと達成感が毎日交互に忙しく訪れる。ほとんどの人は、しんどさの代表的なものとして仕事を抱えている。それはある意味ではとても幸福なことだ。高額の宝くじが当たれば勤めをやめて気楽に暮らしたいと思う人が多いが、別のしんどさが湧くに決まっている。毎日さしてすることがない人生はしんどく、しんどさが大きいほどにそれが一段落した時の喜びが大きい。しんどさを抱えていることを悲観しないことだ。そういうことを学校や家庭でどのように教えているのだろう。教えられなくても、親が働いている姿を見れば理解出来るはずだが、親が労働をただただしんどいことばかりで喜びをそこに見出さないであれば、子どもはしんどさを回避し、深い喜びを感じない大人になるのではないか。だが、他人がどのようにしんどさや喜びを感じるかは他人にはわかりようがない。Yさんのように山登りに精を出す人もあれば、酒が大好きで、毎日おいしく飲めればいいと思う人もある。しんどさをそうとは思わず、またしんどさ自慢をするのでもなく、そのしんどさの果てに得られる喜びで普段顔をほころばせていることが理想だろう。
今日は先月24日に撮影した写真を載せる。重機を操って土砂をしかるべき場所に移動する作業は、人力で運ぶことのしんどさに比べると気楽なものだろうが、所定の作業を決められた工期の間に終えるには、無駄な動きは少なくすべきで、熟練の技術が必要だ。その職人的作業は手工芸作品を作るのとは違ってもっと大規模な自然の改造で、自然を素材にした彫刻と言える。そして傍観者はその作業を垣間見て、短時間で土砂が運ばれ、ある位置に据えられることを一種のゲームの進行のようだと思う。そのゲームの結末は工事設計者の頭にあって、作業員はそれを具現化するが、設計図どおりにことが運ぶのは土木工事では当然とはいえ、設計もひとつの創作であって、正しいとか間違いという観点で捉え切られるものではない。自然相手の設計は常にそういうものだ。ある箇所を変えれば別の箇所に変化が生じる。そのことが地球的規模、宇宙的規模で常に生じていて、ある部分だけの問題に留まらない場合がある。筆者はよくそのことを思う。家内の妹は医者が好きで、病院で何種類もの薬をもらって来るが、筆者は栄養剤も好まない。身体のある部分に効果のある薬と聞いても、それを服用することで他の部分に何か変化があると思っているからだ。この副作用が土木工事でどれだけ意識されているか。6号堰を除去したことで渡月橋下は1・5メートルの水深の低下が予想された。それは遠目にはたいした深さではない。人間の背丈分が下がっても渡月橋を含む景観にあまり変化はなさそうだ。だが、間近で見ると橋脚の基礎を囲っていた大きな砕石やそれを囲む丸太が丸見えとなってすこぶる具合が悪い。そこで今日の3枚目の写真のように、丸太を取り除いて金網上に大きな砕石をびっしりと並べる工事となった。これは竹で編んだ昔の蛇籠と同じで、水流を和らげることが目的だ。つまり河床が洪水の際に削られにくくするためだが、水量が少ない時の見栄えのよさを配慮してのことだろう。写真の右には昔に据えられた正方形の大きな石が並んでいる。これは1,2枚目の写真からわかるように、一部は剥がされて撤去された。全部は剥がさないと思うが、この石と金網上の砕石とでどういう効果の差があるのかわからない。また左岸寄りにもっぱら川の水が流れているが、工事が終われば川幅全体に浅く流れるかどうかだ。浅く流れるのであれば、歩いてわたることが出来そうだ。30年ほど前、水が少ない時期に6号堰を歩いてわたったことがあるが、それが今度は渡月橋の真下で可能となった時、そのことが黙認されるかどうかと言えば、外国人観光客で溢れ返るのでは無理だろう。だが、真夏の炎天下、桂川で水遊びをし、左岸と右岸を歩いて往復することはとても楽しい。鴨川でそれが出来て渡月橋付近で許されないとは誰も納得しないのではないか。