座ってネット・サーフィンで1日の大半を過ごし、ブログを書くのは深夜になってからだ。ほとんど終日座っているのであれば、たまにはブログの3日分を書くのもいいと思うが、そうならないのは1日の過ごし方がほとんど決まっているからだ。

ネット・サーフィンが無駄な時間かと言えば、そうではない。筆者は知らない重要な情報を得ることが多い。もっとも、その情報を糧に行動に移し、またそれなりに金も使う必要があるが、ネットの情報は正しいとは限らず、また痒いところに手が届くような内容ではない場合がほとんどだ。そのため、実際の物を目の当たりにすることを心がけている。その物は、時間と金を使えばすぐに手に入る場合ばかりとは限らず、長い時は10年ほども待つことがある。ネットによって便利になった最大のことは、探していた古本が世界中から買えるようになったことだが、地図が無料で見られることも喜ばしい。昔は大きな紙に印刷したものを本屋で買っていた。それはそれでいいところがあったが、無料には勝てない。またストリート・ヴューという便利なものも出来て、現地に行かずとも見て来たような気分が味わえる。それに、絶対的な信頼は出来ないが、あらゆることに関して誰かが書いていて、自分の考えと比較出来る。今日は向日神社の本殿西側の広場で撮った写真を3枚載せるが、
「その2」に書いたことを訂正する必要を先ほどネット・サーフィンをしていて気づいた。向日神社のホームページによれば、本殿西の広場は、グーグル・マップの「勝山公園」とは違って「鶏冠木の苑」と名づけられている。前者でも間違いではないのだろうが、「その2」に書いたように、この広場は公園の雰囲気とは少し違う。また、なぜ長い参道の坂道を上り切った目の前に舞楽殿、その奥に本殿があって、本殿の背後に広々とした「鶏冠木の苑」があるのかが不思議だと「その2」に書いたが、昔の本殿は「鶏冠木の苑」にあった。それが向日神社のホームページに記される「祖霊神社」(ホームページには「粗霊」とあるが、「祖霊」ではないか)のようだ。その神社は本殿と本殿北側の建物をつなぐ渡り廊下の真下辺りにあるはずと「その2」に書いたが、向日神社のホームページの境内図はそうとう概略化した図で、「祖霊神社」はもう少し西にある。今日の最初の写真がそれで、「その2」の載せた春日社より西にある。撮影しながら奇異に思ったのは、背後に祠がなく、洞窟のある岩山のようなものがあることだ。「その2」に書いたように、社の裏手に回ることは気が進まない。それでいつものように真正面からの写真だけ撮ったが、ネットにはこの祠の背後を撮った写真が出ている。この背後は元稲荷古墳により接近し、森の雰囲気が強いことが写真からもわかる。この祠は今日の2枚目の写真にある、新しい石板に刻まれる最初の二神を祀る。神変大菩薩と勝山身代不動明王だ。次の白雲龍王と白玉弁財天女は今日の3枚目の写真の祠に祀られ、これは2枚目の祠の西隣にある。これらふたつの祠が「祖霊神社」ではないか。向日神社の本殿はこれらの祠の位置にかつてあったようだ。それで現在の本殿の背後が、樹木が点在するだけの広い空き地になっていることに合点が行く。

最初の写真の岩山の洞窟内部には役行者の彫像が安置されているとのことだが、18世紀後半に物集女村で造られて同地にあったものが戦後間もなく現在の場所に移された。あまり歴史は古くないが、地元住民は朝廷から贈られたその石像に対する「神変大菩薩」という号をありがたく思って大切に祀ることにした。またこの洞穴のある岩山の背後に大きな木が2本あり、その前に不動明王の白っぽい石像が祀られている。これは今日の最初の写真を、少し角度を変えて撮影すれば祠の奥に見えたであろう。役行者は葛城や熊野の山岳信仰の祖となる人物だが、標高の低い向日山や近郊の山地でも修験道の修行が行なわれたのだろう。そして、向日山は現在よりももっと森の雰囲気が強かったはずだ。山に籠もって修行するというイメージは現在の「鶏冠木の苑」の様子からは想像しにくいが、それほどに開発が進み、その影響を向日神社も受けた。また、物集女村のどこに役行者の像が安置されていただが、これは向日市に問い合わせるとすぐにわかるだろう。おそらく戦後の物集女村の開発があまりにも激しく、かつてあった山の森林は道路や団地などになり、役行者の像を撤去しなければならなくなった。不動明王像は山伏が修行する滝の際などによく安置されていて、役行者とセットと思ってよい。山が多い日本独特の修験道は山岳信仰と仏教が習合したもので、平安時代の朝廷が頻繁に参詣した。その歴史があったので、物集女村にあった役行者像に「神変大菩薩」の名前を賜わったのだろうが、向日神社の元の本殿があった場所に役行者像と不動明王像が祀られることは、京都盆地を取り囲むなだらかな山を葛城や熊野の山地に見立てる考えがあったことを示す。去年の祇園祭りの、宵山であったか、「役行者山」のある通りを歩いた時、多くの山伏たちが集まって護摩木を焚いている最中であった。祇園祭りにその「山」が存続することは、物集女村に役行者像があったことはあまり珍しくはなかったのだろう。京都における役行者信仰を調べると面白いかもしれない。今日の2枚目の写真の石碑は昭和59年建立で、崇敬者一同からの申し出によって玉垣を新調したことを伝える。3枚目の祠を囲む玉垣は特に新しいことがわかるが、背後に黒く見えるものは玉串を置くための台であろうか。鳥居がないのでどのような神を祀るのかわかりにくいが、前述したように雲龍王と白玉弁財天女だ。玉垣と同時に鳥居も設置すればその額にでも神様の名前を記すことが出来たが、鳥居建立の費用までは集まらなかったか、あるいは鳥居のない方が素朴でいいと思われたか。このふたつの祠の前には四角く囲った方形の土地やまた同様の高さ10センチほどの石の壇がある。ある人のホームページによれば、後者は石舞台で、設置が13年前のことだが、それ以前は樹木がもっと鬱蒼としていたらしい。また石舞台では狂言が演じられたとあるが、現在行なわれていないのであれば舞台を作らずに樹木のままでよかったのではないか。