ソフトかハードかと言えば、後者に当たる向日神社だが、ちょっとした岡を上り下りしなければならないのは運動不足の人にはよい。また、わざわざ200メートルもある参道の坂道を上る必要があるならば、変な輩はお参りしないだろう。
筆者が訪れた時、今日の最初の写真からわかるように、本堂の前にふたりの若者がいた。ひとりはリュックサックを背負っているので、地元の人ではないだろう。神社に関心を持つ若者は珍しくないはずで、東向日駅近くの激辛商店街を訪れたついでに足を延ばしたのかもしれない。向日市の見所のひとつにこの神社が含まれていて、観光パンフレットでは必ず紹介されている。筆者は向日市が近いこともあって、観光したい気持ちはこれまで全くなかった。30年ほど前に牡丹を写生するために何度か乙訓寺を訪れたことがあるが、南接する長岡京市の方に縁があった。それもここ20年ほどは全く足を向けなくなったが、そう言えば長岡天満宮は昔に家内と一度訪れただけで、またじっくり散策したい。向日市の範囲や他の市との位置関係がまだよく把握出来ていないが、向日神社を訪れたことで大きな核を押さえた気持ちになっている。向日市は競輪場が有名で、その場所はだいたい知っていたが、向日山のすぐ北側にある。向日山より競輪場が有名であるのは向日市としては不名誉だろう。向日神社のホームページによれば、向日山は弥生時代から乙訓の象徴で、京都盆地では最初の古墳である元稲荷古墳が造られたとある。また、向日神社の創建はその古墳と何らかの関係があるようだともあるが、これは当然だろう。昨日は元稲荷社について少し触れたが、元稲荷は稲荷の元であるから、東山にある伏見稲荷大社の元祖かと思う。伏見稲荷大社は向神社から真東よりやや北東気味に8キロの距離で、天気がよければ向日山からよく見える。東の伏見稲荷大社と西の松尾大社は元をたどれば渡来人の創建で、弥生時代に遡る古墳に隣接する向日神社もそう考えてよい。向日神社の氏子の範囲は長岡京市や京都市西京区の一部を含むというが、それも当然で、西山では松尾大社に継ぐ規模であろう。双方の歴史を比べると興味深いと思うが、古墳時代のことはわからないことが多く、どう関係するのか実際のところは誰にもわからないだろう。ただ、元稲荷社が向日神社に祀られていることは、神社の起源を公文書に頼らずに形あるものとして細々とながらも伝えて行く思いの表われで、たとえば社が何らかの理由で破壊されても、その存在を記憶する人がひとりでもいる限り、復元は容易で、そのようにして長年伝わって来ている。それはあたりまえのようでありながら、神社を大切に思う地元の人がいつの時代もいるからこそで、その永遠に続くかのような歴史のある1日、わずかな時間であってもひとりで訪れて何かを感じることは永遠に属することのように思う。
それには大勢の人がいない方がいいが、それはそれでまた楽しい。筆者が向日神社を訪れた時は最初の写真の若者ふたりの姿を見た以外、誰とも会わなかった。変な輩がいると困るという一種の恐怖心が湧くほどの静けさで、おおげさに言えば古墳時代の悠久を感じた。平地にある松尾大社のような神社では、ほとんどそのような気分にはなれないが、参道以外は境内が岡の上にある向日神社は、背後に千本鳥居のある山を控える伏見稲荷大社ともかなり雰囲気が違う。ここ数年で外国人観光客に絶大な人気を誇るようになった伏見稲荷大社だが、向日神社は俗気が皆無で、別の意味でのパワー・スポットという雰囲気が強く、今後人気が高まるのではないか。だが、騒々しくなるより、広々とした境内に自分ひとりという贅沢さが味わえる方がよい。参道の坂道が終わると正面に舞楽殿、そのすぐ奥に本殿があることを昨日書いたが、本殿前は岡の上でもあって、あまり広々とはしていない。むしろ舞楽殿は坂道を上り切った後、すぐ眼前にあって圧迫感を湛えている。岡の上であれば平らな土地が限られるので仕方がないかと思い至るのだが、本殿の右手に本殿の裏手に通じる道があることに気づく。今日の2枚目は本殿左のその道を少し入って本殿側を向いて撮った。写真の右が本殿で、渡り廊下によって別棟につながっている。この別棟が何であるかは境内案内図からはわからない。別棟のすぐ南に五社神社がある。北東3キロほどにも五社神社があって、その境内の脇を筆者は10日か2週間に一度自転車で走ることはブログに何度も書いているが、それの末社だろう。五社というからには五つの神をまとめて祀るが、どの五社神社も同じ神を祀るかと言えば、たぶんそうではない気がする。向日神社の五社神社は大己貴神、武雷神、別雷神、磐裂神、事代主神を祀るが、日本では神の数はやたら多く、これらがどういう由緒があるのか筆者にはわからない。それはともかく、この五社神社に気づかず、写真を撮らなかった。気づかなかったのは、本殿の奥へ急ぎたかったためと、鳥居がないためだ。神社の目印は鳥居で、ある神社を訪れるとそれを全部撮るようにしているが、末社や摂社ではそれがない場合がよくある。3枚目の写真は渡り廊下を越えてすぐ右手すなわち北側で撮った。半分消えかけている立て看板だが、「春日社」の文字が見える。境内案内図によれば渡り廊下の下辺りに祖霊神社があるが、グーグルのストリート・ヴューを見てもそれに該当するものがない。昨日知ったが、ストリート・ヴューでは向日神社の境内が、散策するような気分で隈なく紹介されている。これは例外的なことと思うが、それほどに魅力のある神社ということか。4枚目の写真はもう少し歩を進めて本殿を振り返って撮った。樹齢数百年と思しき大木があり、また平らな土地が広がる。この本殿の背後はグーグル・マップでは勝山公園と表示され、緑色に塗られているが、本殿とは区切られておらず、向日神社の境内だ。
この平らな土地は近くならば毎日散歩したい。似た雰囲気は東京の根津神社でも味わったが、平地にある同神社とは違って、岡の上にあるこの神社はより静謐感が強く、森や林の雰囲気がもっと濃厚だ。広さは地図で比較すると競輪場よりも大きい。この広々とした土地が岡の上にあることが不思議で、ひょっとすれば神社を建てる時に削って平らにしたのかもしれない。そうだとすれば何のためかという疑問が湧く。本殿前が狭いのに、背後が何倍も広いのはどういう理由からか。松尾大社では本殿の裏手はすぐに松尾山が迫っている。本殿の裏手をぐるりと一周出来る神社も多いが、筆者は本殿の裏は無闇には歩いてはならないという思いを抱いている。その考えからすれば、向日神社のこの広い土地は公園とは名づけられてはいるが、4枚目の写真のように本殿が大きく聳えていて、現代的な意味での公園という言葉はふさわしくない。また木造であるので、外国人観光客が増加すると消防の観点からも危険度が増すから、渡り廊下より奥つまり西側は柵を設けて出入りを制限した方がいいような気がする。だが、誰でも自由に出入り出来るところが鷹揚で、こんなに素晴らしい場所はめったにないと感心することしきりであった。今急に思い出した。筆者が中学3年の時、遠足で京都の西山に行った。担任が社会の先生で、また京都がかなりお気に入りで、その遠足のために西山の寺社仏閣を含めたガリ版刷りの説明つきの地図を配ってくれた。それを筆者はその遠足でその担任が撮影した数枚の写真とともにアルバムに収めている。10年に一度くらいはそれを見るが、見るたびにその遠足で訪れた場所を再訪したいと思いながら、実行していない。遠足では西山の光明寺を中心にほかにどこを回ったのだろう。今日の4枚目の写真を見ながら、何となく向日神社も訪れたのではないかという気がしているが、そのような懐かしさ、デジャヴ感がこの本殿の裏手にはある。グーグルのマップによれば本殿の少し手前、五社神社の際を右手すなわち北へと入ると、元稲荷古墳やその手前の広場となっている勝山公園の別区画に通じる。そこに足を踏み入れなかったのが残念だが、それはいつか家内と再訪することの理由になる。とはいえ、家内は神社巡りを退屈だと思っている。どの神社も似た雰囲気であるからで、筆者があちこちの神社に行くことを不思議がる。神社が似た雰囲気であるのはあたりまえだが、そのあたりまえがなぜそうなのかを考えると、日本全国に同じ考えが広がっていたからで、またその理由はそれが国というものが確立されたからだ。そして、その国の成り立ち、神社を壊さないという考えがあたりまえに成り立ったことが不思議な気がする。元稲荷古墳のすぐ西には団地が建ち並び、古墳時代とは著しく変化したが、虫食い状態になりながらも向日山は古墳時代の面影を残す。