福は内、鬼は外と節分の豆まきからもう5週間ほど過ぎ去った。7年前の今日はMIHO MUSEUMでの「蘆雪展」の内覧会へ鳥博士さんと行き、帰りがけに関東で大地震があったことを知った。
今日のTVでは来週は桜が開花する陽気が続くとのことだが、7年前の東北は雪が降っていた。もっとも、桜が咲いても雪が降ることがあって、3月は寒気と陽気が戦いを続け、いつも陽気が勝つが、今年は北朝鮮問題が大きく動き、また日本では森友問題も新たな段階を迎え、いかにも波乱の3月にふさわしい話題が目白押しだ。筆者はと言えば、今日は夕方に家内と梅津から嵯峨へとスーパーを5軒梯子したが、花粉のために両眼が猛烈に痒く、またくしゃみを連発して、ポケットの中と机の上は濡れたティッシュの山だ。毎年のことであり、花粉が飛散しなくなるまで我慢するしかない。せっかく寒さがましになって来たのに、花粉症で悩まされるのは、福もあれば禍もあるのが人生ということを再確認させてくれる。東北太平洋大地震についてのTVの特別番組は毎年あるが、今日はその大地震の記憶が風化しつつあると伝えていた。惨禍の痕跡を消して新しい建物を建てるからで、また嫌なことはなるべく早く忘れたいという意識があることにもよるだろう。まだ7年目というのにもう記憶が風化するとはあまりに何事も忘れやすい国民性と言ってよいが、一方で昨夜見たTVで、森にセシウムが蓄積され、スズメバチの巣や樹木の内部が高い汚染度を示していることを知った。人間は樹木のようにじっとしていないし、スズメバチのように行動範囲が狭くないが、自然がそのような状態であれば人間にも影響を及ぼしていることは確実だろう。セシウムでない何かだ。廃炉に早くて30年もかかり、また仮設住宅住まいが7万人もいるという現実を前にすれば、意識しなくても心に棘のようなものを抱えているだろう。ただし、そのことでどのように日々暮らすは千差万別だ。大震災という禍を福到来の契機としてがっぽりと儲けようとする業者や政治家があり、誰かが死ぬことで利を得るのが人間の本性でもある。南海トラフ大地震が起こると東北太平洋沖大地震の数倍の経済損失で100兆円を超える予測があると今夜のTVで言っていたが、ひとまずその大震災の影響が少ない地域の土建屋や政治家は、死ぬのは自分たち以外で、それほどの大地震があればどれほど自分たちは儲かるかと胸算用しているだろう。民主主義は絶えず注視していてもすぐに腐敗する。そして腐敗がひどくなっていても、大多数の人はそれを禍とは思わない。昨夜たまたまYOUTUBEをBGM代わりにしていると、レナード・コーエンのベスト・アルバムが自動的に流れ始めた。筆者は彼のアルバムの大半を持っているが、まだよく聴き込んでいない。ところが、ある曲が鳴り響いている間に耳をそば立てた。そんなことはめったにない。初めて聴く曲だ。題名を調べると「THE FUTURE」(未来)とある。今日はその歌詞を調べた。1992年の曲で、過激な歌詞が面白い。還暦近いおっさんが爆発している感じで、心うきうき、ゲラゲラ笑いたいほどだ。この1曲でコーエンの誰にも書けない詩の才能がわかる。最後では「ベルリンの壁を元どおりにしてくれ、スターリンや聖パウロ、キリスト、広島を与えてくれ、胎児をもうひとり殺せ、とにかくオレたちは子どもが嫌いだ、オレは未来を見て来た、それは殺人だ」と歌われる。コーエンは東北太平洋沖大地震があった直後、その歌詞の「広島」の次に「福島」を加えたかったかもしれない。それはともかく、冷戦が終わったのに、コーエンはそれを素直に喜べなかった。どうせ人間のやることはいつまでも変わらないと思っていた。そう言えば、森友問題で死者が出ても政治家やその関係者は何とも思っていない。それどころか禍過ぎて福が来ると喜んでいるだろう。そういう連中に政治を任せる者たちは、本当に子どものことなど思っておらず、むしろ大嫌いだ。そして、未来永劫に殺人こそが自分たちの福の源と思っている。筆者は震災から7年経っても思いが風化するどころか、逆に怒りが増している。