去年12月30日に祇園会館の2本立てで見た。この映画に合わせて去年の春、イ・ビョンホンが日本のTVの特集によく登場していた。

前にも同じ映画館でイ・ビョンホン主演の『誰にでも秘密がある』を見たが、感想をブログには書かなかった。映画に感心しなかったからではない。日本でも公開されたことのある『アダムにも秘密がある』のリメイク作品であることを知り、それならばそれを見てから感想を書いた方がいいと判断し、結局その機会がないままになっている。『…秘密がある』では、ビョンホンよりもチェ・ジウら姉妹たちの出番が多く、また印象も強かったが、今回は女性はほとんど登場せず、ビョンホン・ファンには待望の作品であったろう。去年4月23日に日韓同時に公開され、さきほど調べたところ、当時この映画を取り上げたどのブログもコメントが数十、トラッグバック数も2桁になっていて、大いに話題になったことがわかる。そんな賛否こもごもの意見を拾い読みしていると、ここで筆者がわざわざ書くことは何もない気がするが、以下思いつくままに書く。『…秘密がある』はヨーロッパ映画をよく研究している色彩やカメラワークなどが顕著で、その点は本作でも共通していた。先進国を見習ってその洗練された手法を模倣しつつ言いたいことを伝えるというのは、他の表現分野でも同じことで、そこに経済的に急成長した韓国の姿が見える。そうした模倣部分を取り除いた後に韓国独特の特筆すべき点が表わされているかが問題だが、本作はさておき、それは他の韓国映画では確かに存在する。ところで、本作は母と家内との3人で見に行った。年末にもかかわらず満員で、猟奇的なシーンの続出でも途中で席を立って帰る人は見かけなかった。中年以上がほとんどで、男の姿もかなり目につき、人生の甘いも辛いもよく噛みしめて来た人々は本作をどう思ったか少し気になった。母はビョンホンが傷を無数に負いながらもなかなか死なず、最後にようやく銃に撃たれて死ぬのを見て、「昔の東映のヤクザ映画みたいやな」と言った。確かに義理人情を描く日本のヤクザ映画をそれなりに参考もしているだろう。
映画館への到着が少し遅れて時計を見ると冒頭の5分は見損ねたようであった。見終わった後、この5分に何か重要な場面があったかもしれないと思い、妹からもらった招待券があったので、1月18日にもう一度見に行った。そして見落としたのは1分ほどであることがわかり、5分と経たない間に映画館を出た。冒頭シーンは、柳の木が風で揺れる中、ビョンホンが語り、師に質問する話だ。柳が揺れるのは風が動いているためかと訊ねると、お前の心が揺れているのだという返事で、『老子』に出て来るようなこの問答と呼応する語りが、映画の最後でまた登場し、それが映画の題名の意味を説明するものであった。ところで、文学では文体が大切で、その違いによって軽い小説になったり重厚な純文学になったりする。文体はひとつの作品の中で作者がどういう相手にどのように読んでほしいかを考えて選択するもので、全体にわたって統一が取れていなければならない。そうでなければよけいな見方をさせる余地が入り込み、映画の全体としての印象は散漫になって、作品の訴求力を減少させる。本作では最初と最後の言葉は作品を何か底の深いものに思わせる効果があったかもしれないが、ヴァイオレンスやアクションに見所のある描き方を思えば、あまり哲学めいたことを考えさせる映画では決してない。冒頭の隠喩的な言葉はわざとらしく、本編の文体と一致していないので、ない方がすっきりとした内容になった。ビョンホン演ずる若いヤクザが音楽を志す女学生に恋心を抱いたあげく、ボスからひどい仕打ちを受けて結局殺されてしまうという物語なのだが、女学生も純粋一途ではなく、ヤクザの親分の女として囲われながら、一方で若い男と遊ぶという生活を送っている。世間の表向きの常識からすれば、本作にはまともな人間は誰ひとり登場しない。であるので、ヤクザが殺し合いをしていくら死のうが、女学生がどうなろうが、映画を見ている者からすれば全面的な感情移入は出来ないままに終わる。本作をたとえば上下関係の厳しいサラリーマン社会になぞらえて見る意見があるが、それには全然賛成出来ない。あくまでも裏社会での話で、そうした社会に普段は何の関係もなく生活している者からすれば、本作において心動くのはたとえば単なる暴力シーンを見てストレスを発散出来るというレベルでしかない。
たとえばこんな場面をよく覚えている。ビョンホンが夜に車で走っていると不良青年たちが車で追って来て、タバコの火をビョンホンの車目がけて投げつける。実によく撮影された場面で、車の黒いボディにタバコの火が当たって砕け散る場面が線香花火のように一瞬はっきりと映った。何度撮り直したのだろうと思わせられたが、そうした劇画的なとも言ってよい細部の描写へのこだわりは本作ではたくさんあって、そこがTVドラマとは桁違いに資金を費やしていることがわかって、やはり映画は映画館で見るに限ることを痛感させたが、逆に言えばそうした細部を味わう楽しみに終始してそれ以上の大きな感動はない。ま、それはいいとして、タバコの火を投げつけた青年どもを追ったビョンホンは彼ら全員を袋叩きにしてしまう。こうした使い古された紋切り型の場面は、そうなるとわかっていながらも見ていてスカッとして楽しい。それは悪さをして平気な奴が現実にどこにでもいて、それを懲らしめてくれる主人公の行為を代償として感じるからだ。これは映画を見に来るほとんどの幸福で小心な人々へのサーヴィス的な場面と言ってよく、監督はそんな観衆の思いを見越したうえでどの場面も撮影している。また監督は観衆の中にはうるさい人もいるであろうことはよくわかっているから、それはたとえば冒頭と最後の思わせぶりな語りを置くことにもなるし、映画を2度、3度と繰り返して見ればなおよくわかるはずであるような小道具やセリフの巧みな配置といった形で表現されている。つまり、確実に多くの人に見てもらって成功させる必要があるのであらゆる点に力を入れているのはとてもよくわかるのだが、その狙いがどこか見え透いていてそこが面白くない。同じことは近年のハリウッド映画のすべてもそうだと言ってよく、細部まで計算し尽くすのはいいとして、その方法が陳腐なあまり、全体としては月並みな作品に終わる。映画の歴史を改革するほどの意欲はもちろん監督たちにはあるだろうが、それよりもむしろ大ヒット狙いをし、こうすれば必ず客に受けるといった型どおりの場面や筋書きばかりの連続となってしまう。ビョンホンを起用したことで日本でもそれなりにヒットしたが、もっと無名に近い俳優を起用していたならばどうであったかと思う。映画の最後でビョンホンを殺すために、ドラマ『火の鳥』に登場したエリックが出て来たが、ほんのちょい役で起用の意味がない。エリック・ファンが少なくないことを見越して少しでも話題を持たせようとの配慮だろうが、そうした見え透いた考えがかえって映画の格を落としている。
格が落ちようが、結局は当てなければならないという脅迫観念が監督たちにはあるのかもしれない。そうだとすれば韓国映画の今後はないだろう。欧米の映画のいい部分を模倣し、それなりに見応えのある作品を供出するようになっている韓国は確かに経済発展もして見事だが、それだけならばどんな後進国でもいずれやることで、韓国でなければ成し得ないようなものをもっと見せてくれなければすぐに新たな国に株を奪われるだろう。それで本作における韓国ならではの良質の部分を考えると、そのひとつは俳優たちの演技にある。土の中に埋められて泥だらけになって這い出て来たり、とにかく汚れ役に徹しているビョンホンは見事と言ってよい。しかしそれだけならばどんな俳優でもやるだろうから、その点でビョンホンの演技が際立ったようには見受けなかった。むしろ他のヤクザたちの存在感が圧倒的で、よくぞこれだけ人相のよくない連中を集めて来たなと思わせられた。その筆頭はビョンホンの親分のカン社長だ。どこかで見たことがあると思っていてついにわかった。『風の息子』でビョンホンの兄役を演じたキム・ヨンチョルだ。佐藤慶にどこか似た顔立ちで、顔のクローズアップ・シーンを多用し、どの表情も内面をよく表現して、ビョンホンが今のヨンチョルの年齢に達してもこれだけの演技は無理ではないかと思わせられた。映画の最後近くで、ビョンホンが銃を買うために会うそそっかしいチンピラがいる。それが全体におぞましいシーンが多い映画に多少の笑いを息抜き的に与えていた。これも観客へのサーヴィスと思ってのことに違いないとしても、陳腐な手法で辟易した。それもいいとして、サングラスをかけたモンゴル人のような顔をした武器商人の親分は異彩を放っていた。ビョンホン以外のほとんど無名に近いようなこうした脇役がみな貫祿充分で、そのお陰で本作の全体的雰囲気は保たれていたと言ってよい。監督は『反則王』を撮ったキム・ジウンで、演技のうまい俳優の起用、人間の上下関係のしがらみを大きなテーマとする点、エンタテインメント性重視といった点で本作と共通している。
女優の登場はシン・ミナひとりと言ってよく、濡れ場が全くないのは儒教社会の韓国独特の事情をよく伝える。シン・ミナがもっと別の美人女優であればどうかと考えてみたが、やはりシン・ミナでよかった。と言うのは、最初に書いたようにミナ演ずる音大生のヒスはいい暮らしをするために平気で体をおじさんに売っているドライな性格であるから、不良っぽいイメージが顔にある女優でなければならない。その点でシン・ミナは最適だ。ただ、そんなヒスになぜビョンホン演ずるソヌが振り回されて命を落とすことになったかは観客にもよくわからない。ソヌが女を知らなかったはずはなく、むしろ何人も知っていておかしくないはずであるから、親分の命令に背いてまでソヌの背信行為を伝えなかったという心の揺れが見えて来ず、それがあったとしても理解も出来ない。この心の揺れは、映画冒頭の柳の木の揺れに通じ、自分の心が揺れているとする師の言葉で説明されるだろうが、映画のキャッチ・コピーにあるような「純粋で究極的な愛」というほどの心の動揺は描かれておらず、またそれがあるとしても他の場面との連なりからしてそんな話を盛り込むことには無理がある。むしろ女への愛など最初から全然描かず、つまりシン・ミナを登場させず、親分の命令に背いたことだけで死んで行く物語にした方がわかりやすく、また緊張度も高まって、より完成した作品になったはずだ。しかし最初からイ・ビョンホンの魅力に大きく負うことを目的に作ったのであれば、最小限に女は描く必要はあると、これまた受け狙いを考えたのであろう。だが、何でも利用出来るものは利用するという態度によって、作られるものは焦点がぼけて、永遠の名作には成り得ない。この何でもかんでも取り入れてひとつの作品を作る方法は、他の韓国映画にもよく見られるが、現代の韓国の他のあらゆる分野にも見受けられるものかもしれない。それは実は韓国だけではなく、世界に共通したこととも言える気がする。そんな意味で考えを広げると、本作はとび切りの名作ではないが、それなりに韓国の現代事情を考えさせる作品と言えるだろう。ただし、監督は韓国のヤクザ事情を伝えたいために本作を作ってはおらず、単なるおとぎ話として見るべきだ。「ビョンホンのアクション格好いいわー」と言う娯楽的見方が最も正しい。ひとつ書き忘れていた。ソヌが働くホテルのラウンジの壁面は、特殊な形をした正方形の大きな嵌め込みガラスで埋められていた。このガラス製のタイルはフランスの建築家ジャン・ヌーベルがイスラム圏のどこかの国に設計した有名な建築物に使用されているものをよく模倣していた。この特徴あるガラス壁は映画の最後でヤクザ同士の戦いによって粉々に割れてしまい、そこに監督のフランス映画を模倣しながらも凌駕するとの意識があったと見るのは穿ち過ぎか。いや決してそうではないだろう。監督はよほどあらゆるものを研究している。