ヘリウム・ガスを吸って奇妙な声を発すると似合いそうな橋月渡という「ゆるキャラ」を今年も天龍寺での節分祭で見かけた。
性別不明のそれが初めて法堂前の架設舞台に登場したのは3年前だ。

それ以降毎年見ているが、天龍寺の節分祭はとても楽しい。何がその最たる理由かと言えば、甘酒や日本酒の接待があることもだが、寒いだけはない春の兆しが空気に感じられるからだ。節分から2月下旬までは筆者の一番好きな季節だ。年齢を重ねるほどにそう思うようになっている。
天龍寺の節分祭に最初に訪れたのは、このブログによれば4年前だ。人の集まりは年々増えている気がするが、雰囲気は毎年同じだ。それで今日紹介する写真はデジャヴ感があるので、投稿しなくてもいいかと迷うが、せっかく出かけて撮ったので、使わないことにはもったいない。それに、何しろ最も好きな日でもある。今年も橋月渡を舞台上で見かけ、写真を撮ったはずなのに、ブログの投稿用に加工する段になってその写真がないことに気づいた。たまにそういうことがあるので困るが、失敗はすぐに忘れることにする。先月3日は午前中に松尾大社の節分祭にひとりで行ったことは先日3回に分けて投稿した。午後から豆まきがあるので居残ってもよかったが、天龍寺節分祭の最後の豆まきの回には間に合うと思い、急いで帰宅した。昼の食事を済まして家内と天龍寺へ出かけたが、去年と同じく、豆まきの後は東1キロほどにあるスーパーに行った。来年もそうするはずだが、行動が固定化すると、退屈である反面、それもよいと思う自分に気づく。どんな楽しいことでも最初は新鮮だが、二度目は感動がうすれる。そのことを去年のお盆に家内の兄妹らと出かけた箕面の温泉でも思った。一昨年はとても新鮮で、山から見下ろす大阪平野の夜景にみんな歓声を上げたが、去年は誰もそうしなかった。せっかく訪れたのに新鮮な気分、つまり楽しめないでは損だ。それで今年のお盆は能勢のホテルにしようかという話になっている。その方がいい。そう言えば筆者の親類は毎年春と秋に食事会を開くが、同じレストランやホテルでの食事となると、筆者は二度目は敬遠したくなる。同じ料金を支払うのであれば、家内と一緒に別のところで食べたい。冠婚葬祭の時しかなかなか会えない親類だが、わざわざ会って話すほどのことはなく、本当のところは筆者はもっと気の合う人とゆっくり話がしたい。親類であろうが他人であろうが、交際とは結局はそれであって、お互い尊敬し合えるか、気の合う間柄でなければ、2,3時間を一緒に過ごすことはしんどい。母の弟は80代半ばでもとても元気だが、その親類の会で家内に向かって筆者のどこがよくて一緒になったのかと真顔で訊いたという。家内が返事に困っていると、今度は「あそこがよいからか」と訊いたそうだが、家内がその春秋恒例の食事会に行くのを嫌がるのは無理もない。叔父にすれば本当に筆者のどこに男の魅力があるのかさっぱりわからないのだが、無学であれば教養に関心がなくて当然だ。人間は棲み分けている。完全に棲み分けて、全く出会わないのであればいいが、親類となればそうは行かない。それで筆者の苦悩が死ぬまで続く。

二度目の経験は新鮮さがないが、三度目、四度目となるとどうか。人生とはこんなものかという退屈を感じながらもサラリーマンは同じように朝起きて同じように出社し、同じような仕事をする。それがあまり気の進まないことであれば、また行かなくてはならないと強いられるのであれば、どうにかしてその立場から逃げたくなる。たいていの人はそれが出来ない境遇にあるとかもしれないが、どんなことをしても生きて行くことは出来る。嫌なことは極力避けるのがよい。嫌なら学校や会社を辞めてもよく、体を壊したり自殺したりするよりかははるかによい。経済的な心配があるのでそういう行動に踏み切れないという人があるが、生きることは何かを我慢することだ。最も嫌なことを避け得ると、次に嫌なことは我慢しなければならないだろう。それで家に長年引き籠もる人があるが、それが楽しければそれも仕方がない。だがたいていは楽しいのではなく、外が怖いからだ。恐怖は誰にでもあるが、一方で自信を持つことだ。それは育てられ方によるが、生まれ持った素質つまり遺伝的なものが大きいだろう。前述の叔父には筆者より10数歳下の息子がいた。その甥はとても大事に育てられた。「天才に違いない」とちやほやされたと言う方がよい。筆者が10代半ばから後半の頃、年に一度くらいは正月に京都で会ったが、彼は大人びていた。というより、年配の筆者を侮ったような態度であった。筆者にはどの程度の頭かわかったので、ほとんど相手にしなかったが、両親は大いに期待をかけ、とにかく褒めちぎって育てた。その甥が高校を出た後、どういう仕事をしてどこに住んでいるかを叔父から聞いたことがなかったが、母の姉の主人が亡くなった葬式にやって来て、受付係として筆者の横に座った。その時の彼は昔の面影はなく、どことなくおどおどとして、筆者にていねいな言葉を使った。酒の話になると、目の色が変わり、毎晩飲んでいるようであったが、独身で大阪に住んでいると言った。そしてとても印象的なことを小声で筆者に漏らした。それは、子どもの頃は両親から褒められたのはいいが、世間に出てみると自分が親から褒められるほどの何者でもないことがわかったということだ。つまり大人になって現実を知ったのだ。その甥はそれから2,3年後に死んだ。痩せ細って血を吐いて死んだ。酒の飲み過ぎだろう。体力の使う鉄筋工をしていた。両親がもっと親身になっていれば、京都でもっと楽な仕事もあったと思うが、親子で何かあったのかもしれない。子どもを褒めて育てるべきだという意見がある。だが、さして素質も才能もない者を褒め過ぎてしまうと、大人になって苦労する。子どもの頃に勘違いして世間を舐めてしまうからだ。筆者は学校の成績で母から褒められたことは一度もない。叔父とは違って、子どもの成績にはあまりに冷淡で、おそらく筆者がノーベル賞をもらっても素知らぬ顔だ。だが、母に感謝することがある。それは、金を稼ぐ人間になれと一度も言わなかったことだ。好きなように生きてよいとも言わなかったが、たぶんずっとそう思って来ただろう。

法堂の前で筆者は家内の斜め前にいたのに、豆まきが始まると家内は後方に退いた。というより、無理やり押し戻された。毎年多少は見かけるが、大きな紙袋を広げて頭上に掲げる人がある。その口で豆の入った5色の小さな袋を受け留めようというのだ。筆者も家内もそこまでの欲はない。豆まきが始まってすぐ、筆者は左手で豆の袋を二度キャッチした。筆者は球技が苦手で、放り投げられたボールを左手で受けることはまず出来ないが、豆がたまたま筆者の左手のある方向に投げられ、手に当たった途端筆者は指を曲げてつかまえた。それくらいの反射神経はまだある。だが、手に当たっても衝撃が強くて弾く場合もある。そうした豆の袋は地面に落ちる。それですぐにしゃがんでそれを拾うが、そうして確保したのは2,3袋で、ほかはみな小さな女の子が大人の股下をすいすいと潜り抜け、胸いっぱいの豆の袋を抱え込んでいた。豆まきが終わった後、彼女を見ると、誰よりも多くの袋を取ったようで、そばにいた母親が恵比寿顔になっていた。背が低い子どもの方が有利であることを知ったが、地面に落ちた袋を確保するのは大人もで、筆者の足元に落ちたものは筆者の近くにした年配の女性がどれも靴で踏みつけて確保した。さすが筆者はそれはする気になれなかった。福豆を靴で踏みつけてどうする。第一、圧力で豆は粉砕される。そこまでして豆がほしいか。そう考えると、節分祭の豆まきに興ずる客たちの姿はいかにもさもしい。紙袋の口を開けて待ちかまえる姿もそうだ。天龍寺の節分祭のいいところは、豆まきが終わった後、最後尾からまだ少し後方に、若い僧が米が30キロ入る紙袋いっぱいに豆袋を入れて、あまり取ることの出来なかった人に配っていることだ。大人の足元をはいずり回って誰よりもたくさん取った女の子はそこでももらっていた。遠慮がちな人にはひとつも当たらない。人生もそうだろう。欲が強い人は取り放題とばかりにがむしゃらになる。そう言いながら、筆者は甘酒と樽酒を2杯ずつもらった。その話を風風の湯で81歳のMさんに言うと、来年は行きたいと笑顔を作った。樽酒は小さな紙コップに半分ほどで、いい気分になるには10杯は飲まねばならないが、春がかすかに感じられる、人で賑わう空の下であれば、味はまた格別だ。この節分祭のもうひとつの楽しみは、地元の小学生による絵画と習字が貼り出されることだ。今年の習字は「無限の可能性」で、それが遠くに無限に続いているように展示された。なかなかいい言葉だが、これは4年前と同じで、おそらく同じ習字の教科書を使っているのだろう。初めての経験は新鮮だが、無限に続いても楽しいと思えるのが人生だ。とはいえ、筆者が天龍寺の節分祭を経験出来る回数は限られているし、こうして書くことはもっと少ない。そう思えば、毎年節分祭に訪れることは常に新鮮であると噛みしめるべきだ。節分祭の後、スーパーに行くと、豆まきの豆が透明な袋で売られていた。節分祭で撒かれる小さな豆袋の数十個分で200円ほどだ。必死になって取るほどのものではなく、スーパーで買えば嫌と言うほどの量がある。