文章をどうひねり出そうかというほどに写真の枚数があるが、思いつくまま書いていると、いつもどおりにそれなりの字数になる。今年からか、1段落をだいたい1100字から1200字程度に収まるようにしている。DVD『シチリアのザッパ、82年夏』の解説でそうしたことの影響だ。

それはさておいて、カード式になっている阪急阪神1日乗り放題チケットはいつでも駅で買えるが、家内が年末に買った特別製は普段より200円安い1000円であるにもかかわらず、神社で授与される初詣祈念品引換券が別にもらえる。神戸三社まいりとして生田、湊川、長田の3か所の神社、三福まいりとして門戸厄神、清荒神、中山観音、京都三社まいりとして、八坂、平安、北野天満宮が対象になっている。以上は1月1日から7日までだが、特別に11日までOKなのが西宮神社で、筆者らが出かけた11日は祈念品を得るにはもう西宮神社に行くしかなかった。おそらく西宮神社は夜遅くまで開いているはずで、そこには最後に訪れることにした。また、筆者は門戸厄神には行ったことがないので、11日は出かける前にそこに行くつもりもあったが、長田神社を訪れた時にはもう諦めていた。さて、昨日の写真を説明しよう。最初の写真の右端に鳥居の朱色で縁取った大きな立方体の構造物がある。これは地下鉄の出入り口だろう。その際に神社の参道が始まることを示す「官幣中社 長田神社」の石柱がある。ネットのWIKIPEDIAで調べると2001年に鎮座1800年を祝ったとあって、とても歴史が古い。また大正時代の絵はがきの写真が載っていて、本殿の両脇や背後に樹木が多く、石畳の参道にはたくさんの鶏がいる。数百の鶏を飼っていたというが、伊勢神宮と関係があるのかもしれない。数百では糞の始末が大変だと思うが、今は鶏はおらず、鳩がいる。餌を与えて飼っているのかどうか知らないが、鳩も糞をするから、どうせなら鶏の方が珍しくていい。昔は街中で鶏を飼う業者がいたが、今ではまずいない。思い出したのでついでに書いておくと、筆者が2週間に一度は自転車で走る向日市のJR踏み切りの近くに鶏を飼う業者がある。最短距離だと思ってそのすぐそばの道を半年ほど前から利用するようになったが、鶏の鳴き声がよく聞こえるのはまだしも、糞の臭いが100メートルほど離れても漂っている。その鶏業者の建物の後から付近の住宅が出来たはずだが、風の向きで糞の臭いが窓から入って来るのは確実で、よく引っ越さないものだと思う。その臭いを承知で家を購入したのであるから文句は言えないが、住民は不満だろう。その鶏舎のわずかな隙間から100羽以上の雀が一斉に侵入している様子を見かけたこともある。餌の盗み放題で、なかなか面白い眺めであった。それはともかく、鶏を奉納し、絵馬も鶏、おまけに氏子は鶏やその卵を食べなかったというから、鶏にとっては天国のような長田神社であった。鶏肉も卵も駄目となると今では氏子はいなくなるから、鳩に代わったのは時代の流れでもある。昨日の最初の写真に戻ると、商店街が始まる位置に鳥居が見える。これはその下の車道幅に合わせる必要上、あまりバランスはよくない。もう少し本格的なものがいいが、氏子の負担が大変だ。そこで思うのは阪神大震災の時の被害だ。

WIKIPEDIAによれば本殿は倒れなかったが、被害が大きかったらしい。今日の2枚目は拝殿で、その奥に本殿があるのだろう。大正時代の絵はがきと比べると、この拝殿が本殿のような気もするが、拝殿は新しく鉄筋コンクリートで建てたものではないか。また大正時代の絵はがきでは本殿両脇に玉垣が見える。今はそれはなく、時代とともに神社も様子が変わることがわかる。ましてや大地震があればなおさらだが、昨日の4枚目の写真の大きな楠は数百年の樹齢があるはずで、それらの神木が残っただけでも氏子たちは勇気づけられたのではないか。写真からは大きさが伝わりにくいが、これほどの大きな楠はめったにない。話は前後ないし転々とするが、商店街は500メートルほどで、その途中でとても深い川をわたった。水はとても少なかったが、道路から川底まで20メートルはあるだろう。川幅はさほどでもないので震災以降に深く掘り下げたような気もする。この川の名前を知るためにネットの地図を見ると、その表示がない。ネットで地図をよく調べるが、河川の名前の表示がほとんどないことが不満だ。充分それを記すスペースはあるのに、なぜ記入しないのだろう。それであちこち調べて、新湊川であることがわかった。新がつくのは湊川があるからか、あるいは改修したからか。地図を見るとこの川は西から流れて来て商店街を超えた直後に南に直角に折れて海に向かっている。またその流れに呼応するように、高速神戸駅を降りて北へ向かって歩く時に右手に見える大きな道路が、昨日の最初の写真の商店街の始まりの地点で東に折れている。つまり、新湊川と大きな道路が相似形になっている。その道路が参道の手前で直角に折れている眺めはかなり奇異であった。では車は参道沿いに北進していないかと言えばそうではない。昨日書いたように、車が頻繁に走る道路の両側に商店街がある。では、昨日の最初の写真の赤い鳥居の下を北進する車道はどこへつながっているのかを調べると、長田神社の東側を超えて山へと進み、途中でほとんど途切れている。大正時代はおそらくそのような車道はなかったか、あっても歩道並みに細かったであろう。神社の奥に新しい街や大学が出来たので、どうしても車を走らせる必要があった。それで神社の境内を削らずに、それぎりぎりに車道として拡幅したのだろう。また、参道に向かって南から走り、参道の手前直前で東へと折れている大きな道路がどこへ続くのかと調べると、三宮では有名な加納町交差点につながっている。それをさらに東へと進むと王子公園辺りでは阪急のすぐ北側の道に続く。また、参道手前を南下したその大通りは50メートルほど南でまた西に向かって伸び、西代や板宿へと続いている。こうして書いていて筆者は何を思っているかと言えば、阪神岩屋駅から兵庫県立美術館に至るまでの間、阪神高速の高架下でお菓子の出店をしていたOさんだ。Oさんはそこでの商売を警察に何度も注意され、ついに撤退したが、住まいは板宿にあり、毎日王子公園近くの阪急沿いの菓子を保管販売している倉庫に通っている。つまり、Oさんが毎日長田神社参道前を通っていることがわかった。Oさんが倉庫で出店をするのは週に2回ほどで、また午前中のわずかな時間だけであるので、今は電話して会いに行くしかない。足を悪くしたので、高架下での営業をやめてよかったかもしれない。

昨日の2枚目の写真は車道沿いの商店街が途切れ、昔どおりの参道が始まる三叉路にあった。フクロウのゆるキャラをかたどった木彫りの福の神だ。これは震災後に氏子たちが活性化のためにアイデアを出して作ったものだろう。この祠の右が商店街としての歩道の延長と車道、祠の左が車が頻繁には走らない参道で、それを50メートルほど歩いた先で昨日の3枚目を撮った。その50メートルほどの道沿いにお好み焼き屋や酒を飲ませる店があって、下町風情が漂う。道路の向こうに朱塗りの鳥居、それをくぐるとすぐ右手に大きな楠がある。それは正確に言えば境内の南東角辺りで、今日の最初の写真は境内の真南に位置する鳥居だ。筆者の撮影位置からほんのわずか南に橋の欄干があった。境内の西に沿って北から川が流れている。それは刈藻川で、前述した新湊川が商店街を西に超えてすぐに直角に南下する箇所で合流している。震災でその辺りがどのような被害を受けたのか知らないが、商店街で見かけた貼紙かチラシによると、韓国に何度も訪れて有名な美人女優の黒田福美が震災後にこの商店街のためにいろいろと尽力したらしい。いつかどこかで縁があったのだろう。有名人がそうした活気の戻りに尽力するのはいいことだ。筆者は彼女の顔は大いに好むだが、実際に会えば相手にされないタイプだと自覚するので、TVの画面で眺めるだけでよい。昨日書いたように、この商店街は昭和の雰囲気がありながら、疲弊ではなく、人に優しそうな雰囲気が漂う。長田の南部はもっと被害が大きく、それで道幅の広い大きな商店街に生まれ変わったが、元の店主が戻ったのは半分ほどではないか。そして客も遠のいた。それに比べるとこの商店街はキモノ姿の老婦人が普通に歩いていたり、また間口の広い毛糸屋があったり、古き日本らしさがよく残っている。さて今日の最初の写真の奥に見えるのは屋根のある門だ。それを越えると真正面に2枚目の拝殿がある。3枚目は拝殿の左手にある社で、戎大黒の石造が中央にあるので、戎と大黒天をそれぞれ祀るのだろうか。おそらく「七福神めぐり」と染めた幟が見えるが、他の神は別の神社や寺で祀られるのだろう。4枚目は拝殿脇か裏手か忘れたが、絵馬に「七五三まいり」と印刷される。キャラクターは前述したフクロウだろうか。子どもが喜びそうな現代風のデザインであるのがよい。神社も時代とともにだ。家内が賽銭を投げて拝んでいる間、筆者は時計周りに拝殿の奥をぐるりと回った。その時に撮った写真と話の続きは明日書く。「神社の造形」という題名にほとんど関係のないことを書いているが、近くの商店街の様子を書くことも神社とは関係がないとは言えない。人の生活があって神社も成り立つ。これは明日に書くべきかもしれないが、神社を後にする時、振り返ると玉垣の朱色がかなり色褪せていて、また授与品を売る巫女たちがとても寒そうに見えた。大きな寄付があればもっと鮮やかな朱色に塗り替え、巫女たちの表情も明るくなるだろうに、みんな自分の生活で精一杯だ。去年の年末は東京の有名な神社で弟が刃物で姉を殺す事件があった。彼らの生活は派手であったというが、長田神社は実に素朴で慎ましい。それが清らかさの源とは断言しないが、お金以上の価値の存在を万人が認める世の中でなければ、国はやがて滅びるのではないか。