●「武田理沙~フランク・ザッパ・メドレー関西初演」 武田さんと筆者が10月26日、大阪の神山町のALWAYSにて対談します。
●『DWEEZIL ZAPPA & THE OTHERS OF INVENTION―LIVE IN THE MOMENT Ⅱ』その3
ート(NOTE)に「音符」という意味があるのは面白い。その音の波形が立体的で彫刻のように感じられることは、頭では理解出来る。



ザッパは自分のギター・ソロを空気の彫刻と呼んだが、どのような大きさの会場で観客がどれほど入っているからなど、演奏した時の空間が録音に記録されるからだ。それを本物の演奏が眼前にあるように感じるためには、しかるべきステレオ装置で聴く必要はある。筆者はパソコンで音楽を聴くことがもっぱらになっていて、いちおうは外づけのスピーカーを画面の左右に並べているが、大きなスピーカーで聴くのとは迫力が天地ほどに違う。パソコンの画像で言えば、いつも聴いている小さなスピーカーからの音はサムネイルのようなもので、大きなスピーカーで聴くことは画像を大判のポスターになぞらえ得る。サムネイル級の音であれば、空気の彫刻を感じるほどではないが、録音された音がそれぞれ縮小されて全部聞こえるので、3次元性がないことはない。そのことを前提として、昨日書いた10分に及ぶ新曲「ダイナソー」をまた聴くと、やはりドゥイージルが腐心したはずの立体性が今ひとつピンと来ない。ドゥイージルはこの曲の説明をYOUTUBEで5回、計20分ほどで紹介している。その画面に映るドゥイージルの家の音楽編集機器を見ると、音楽製造者がせっかく細部に凝ったというのに、聴き手の筆者がしょぼいスピーカーで聴いて曲の真価を把握出来ないであろうことを思う。だが、真価は凝った細部の編集だけではなく、曲全体の構成から伝わる何かでもある。昨日書いたことにつけ加えると、本曲は最初に聴いて個性がばらばらなように感じた。ザッパの10分のギター・ソロとは明らかに違う。それはザッパの1977年のソロを一部に使っているからだが、YOUTUBEのドゥイージルの言葉によれば、自分も含めて9人のソロを使ったという。なるほど、それで個性がばらばら、言い換えれば多様性が過ぎてまとまりがない。ドゥイージルは各ソロに感じるところがあって、キーを揃えてピッチや音色を変化させたが、キーが同じである続けることは、10分が20分にもなり得る。それでは退屈なので10分にまとめたのだろう。10分で9人のソロが含まれるなら、聴いていて退屈にならないようだが、設定したキーや主題が筆者には退屈だ。だが、それはいかにも若い世代のドゥイージルで、今の若者は父親の長大なギター・ソロの方が同じ調子で長々と続いて退屈と思うかもしれない。いろんな人物のソロを引用しつつ加工し、またつなぎ合わせたり、他のソロと同時に鳴らせたりすることは、ドゥイージルの頭の中ではそれぞれの演奏者への思い出もあって楽しいことに違いないが、聴き手は9人のソロが含まれるとは思わないし、また知ってもなるほどと思いつつ、9人の演奏がみな一緒に聴こえる。つまり、そこがドゥイージルの思惑だろう。全く別の場所、別の文脈で演奏されたソロが、自分の考えによって新たな空気の彫刻として出現する。とはいえ、それがどの聴き手にとっても楽しいかどうかだ。
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 複数のイメージを引用加工してひとつの画面として見せる絵画がある。写真でもある。その考えは20世紀に始まったものではなく、人間がイメージを意識した時からあった。そしてそういうイメージの結合をシュルレアリストはよく行なったが、イメージの衝突によってそれまでにはなかった衝撃的なイメージが生まれるかと言えば、そうとは限らない。言葉本来の意味を用いずに適当に選んだ複数の言葉を同居させる詩にしてもそうで、そういう超現実主義の文学をロジェ・カイヨワは『バベル 文学の思い上がり』で批判した。複数のイメージの合体で突拍子もない芸術が生まれたとして、それに価値を認める人とそうでない人があるから、カイヨワの意見は全く正しいとは言えず、イメージを混ぜ合わせることに作家の必然性が感じられればよいとすべきだろう。ザッパがクセノクロニィの技術を用いて、ある曲に別のギター・ソロを合成させたのは、そのことでサイボーグのような未来性や違和感、夢のような奇妙な味わいを求めたからで、またそれはアルバム『ジョーのガレージ』の物語によく似合っていた。つまり、物語の内容にふさわしい手法であった。一方、ドゥイージルの「ダイナソー」は、さまざまな音色のギター・ソロが多少の伴奏のみの部分を間に挟んでつながっていて、倍の長さにしても全体の雰囲気は変わらない。これは父親のソロが起承転結をいちおう念頭に置いて演奏されたものであったことは大きく異なる。もちろんザッパは起承転結の起の部分をカットしてクセノクロニィの技術で他の曲に組み込んだことはあったし、ギター・ソロ曲として発表する時でもよくそうしたが、ザッパのソロは、ある箇所を聴くと、それが全体のだいたいどの辺りであるかがわかる。「ダイナソー」にはそういう全体における唯一の瞬間性はなく、曲全体としての起点と終点は考えられてはいるが、起承転結における起と結ではない。10分が来るのでもう終わろうという、収録時間をにらんでの編集だ。また、「ダイナソー」はドゥイージルが父のステージで一緒にギターを演奏したことを意識した作で、ドゥイージルが他のギタリストとの共演が好きであることがよくわかる。多くの好きなギタリストの特徴を学び、どういう演奏が新しく、また格好いいかを模索していることも伝わるが、「ダイナソー」がドゥイージルらしい特徴に満ちるかどうかは、筆者にはわからない。ジョー・サトリアーニやスティーヴ・ヴァイの曲はごくわずかな部分を聴いても特徴がはっきりとわかるが、その意味において「ダイナソー」は超絶技巧が含まれはしても、際立つ個性は感じられない。たくさんのギター・ソロの録音があるので、それらから選んで1曲にまとめようとした実験意欲は理解出来るし、部分的にはっとさせられる箇所もありはするが、クセノクロニィの技術を今は誰でも安易に使えることを示すだけに終わっている気がする。「ダイナソー」の彫刻性は、凸凹に乏しいのっぺりとした風船の怪獣を連想する。それが新しいと言えば言える。
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by uuuzen | 2018-01-22 23:59 | ●新・嵐山だより(特別編)


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