ルーレットのような人生と言えばいいか、物事は計画したとおりに運ぶとは限らない。筆者はZAPPAは父と子で音楽であるので、やがてバッハに倣って父は「大ザッパ」と呼ばれるようになるのではないかと、82年にはもう思っていた。
だが、当時CBSソニーに送った原稿がザッパの新作アルバムに載らなければ、サイモンさんがわが家にやって来ることもなく、また筆者は現在のようにザッパの音楽を聴き続けていなかったかもしれない。ザッパが「大ザッパ」と呼ばれる時代が来るかどうかはわからないが、息子ドゥイージルは現在の音楽の受容に見合った活動を行なっていて、父とは違う個性を発揮している。昨日PLEDGEMUSICにドゥイージルのCDを注文したが、そのことについてはまた改めて書く。1か月ほど前、パソコンでその予約が完了したと思っていたが、何の音沙汰もなかった。どうやら注文を決定する最後のクリックはしていなかったようだ。また、「フランクフルトの思い出」については昨夜の投稿が最後と考えたが、昨日は3階の本を整理する必要に迫られ、部屋の半分を歩けるようにした。そしてザッパ関連の資料が入ったダンボール箱数個の半分ほどを隣家に移した際、懐かしい資料が出て来たので、今日は昨日のおまけのような形になるが、もう1回投稿する。今日の題名を『ザ・イエロー・シャーク』公演としてもいいが、より目を引くものとして、幻となったザッパのオペラ『アンクル・サム』とする。まず、『ザ・イエロー・シャーク』公演の際、サイモンさんはザッパが泊まったフランクフルトのホテル、シュタイゲンベルガー・フランクフルター・ホフの一室で、ザッパから『アンクル・サム』の話を聞いた。ザッパはウィーンとすでに仮契約のようなものを取り交わし、2、3年後にウィーンで初演するということであった。オペラ劇場での上演であるから、管弦楽団や歌手を起用するのは当然だが、ザッパは民族楽器も起用することを考えていた。その一端はシンクラヴィア曲にホーメイの歌手を起用した『ダンス・ミー・ジス』で実現したが、『アンクル・サム』ではもっと多方面の民族楽器を使う予定があった。そして歌舞伎や大相撲などの日本文化の要素を盛り込もうとした。この点に関しては、まず実情を知るための詳しい資料が必要で、それを得るための協力をしてもらえないかと筆者は訊ねられた。茫洋とした話であり、また英語で書かれたそうした日本文化の紹介本はたくさん存在するはずで、まずそれらをザッパは見るべきであったが、そうしたいわば入門編的なものについての情報を持っていなかったのだろう。それはともかく、『アンクル・サム』はアメリカを象徴する人物としての、またザッパが扮して写真を撮ったこともあるアンクル・サムを主人公とするもので、題名はまだ決めていなかったと思うが、『アンクル・サム』であれば世界中の人が即座にわかるので、ザッパの寿命が数年長く、ザッパが無事に作曲し終えていればその題名になった可能性が大きいと思う。またそのオペラではダンテの『神曲』の要素も使うとのことで、その意味に筆者はようやく先日思い当たった。アレックス・ウィンターが出演した
『ビルとテッドの地獄旅行』だ。これは1991年の映画だが、ザッパはそれを見たか、あるいは批評を読んだのではないか。『新曲』から引用することは珍しくはないが、アメリカの有名な娯楽作品でしかも92年に最も近いとなれば、その映画しかない。
その映画の原題は、画面を見れば「BOGUS」という言葉が大きく入っている。それはザッパの70年代半ばの管弦楽曲の題名に使われたので、『ビルとテッドの地獄旅行』の監督はザッパに近い感性を持っていたと言える。つまり、ザッパがその映画にヒントを得て『アンクル・サム』に『神曲』の要素を持ち込もうとしたのではなく、このイタリア文学の大古典をそもそもザッパは昔から大いに気に入っていたと考える方がいい。『ビルとテッドの地獄旅行』には死神が登場し、天国へ入る場面ではエプロン姿の女装になる。それは『神曲』でダンテを天国に導くベアトリーチェのパロディであろう。一方、『ザ・イエロー・シャーク』公演では「ビート・ザ・リーパー」という長大なシンクラヴィア曲が初演されたが、その題名のザ・リーパーすなわち死神は『ビルとテッドの地獄旅行』と符合し、ザッパとその映画は多少の縁があると言える。アレックスが、ザッパの『アンクル・サム』が『神曲』から引用する予定であったことを知っているのか知らないのかはわからないが、ゲイルの許可を得てザッパが残した膨大な録音や映像をデジタル化する作業に着手したことも、やはり縁だ。では、『アンクル・サム』が『ビルとテッドの地獄旅行』のはちゃめちゃな物語に似たものとなったかと言えば、それは言い切れない。アンクル・サムはアメリカを離れて地獄や天国を巡り、その間に日本を初めいろんな国でアメリカにはないものを見聞し、アメリカが世界一の国ではないことを実感するといった内容で、またザッパの過去の作品の一部を民族楽器に演奏させて挿入し、シンクラヴィアで作曲した曲を管弦楽団用にアレンジするなど、改変と引用の目立つものとなったと想像する。作品としての全体的な色合いが、シンクラヴィア曲で構成された『文明、第3期』と比べてどうであったかだ、体力の衰えからすれば、暗さと静けさが支配的になった可能性は大きい。だが新作オペラの依頼という、願ってもない大きな仕事であるから、快活さも同じほどみなぎったものになったであろう。ともかく、『ビルとテッドの地獄旅行』の青少年向きな内容とは違って、ヨーロッパの芸術好きを大いに喜ばせる、サーヴィス精神旺盛な作品になったと思う。そして、『アンクル・サム』と『ザ・イエロー・シャーク』を比べると、後者は前者の手始めにしか相当せず、ザッパの真の晩期は前者から始まったと後世に位置づけられたと想像する。結局晩期作は『文明、第3期』と『ダンス・ミー・ジス』が代表しているが、これらの評価があまり大きくないことは、その後に続く作品がないという理由が大きい。つまり、同2作は新芽のままで大木に育たなかった。そして、それはシンクラヴィア・アルバムであるからで、人間が演奏していればまた事情が違った。
『アンクル・サム』はアメリカの一種の没落のようなものを主題にした内容であったと思う。そういう物語は文化的優位を誇るヨーロッパでは歓迎される。ウィーンから依頼があってもアメリカからは絶対にないはずで、ザッパはそういうアメリカに幻滅していた。『ザ・イエロー・シャーク』もそうで、ドイツの若手の演奏家たちがザッパに曲の提供と初演を依頼したのであるから、ザッパが長生きしていれば、拠点をヨーロッパに移した可能性は大きい。ヨーロッパで評価されてアメリカの楽団もザッパ作品を演奏するようになったから、やはり管弦楽曲やオペラに関してはまずはヨーロッパで注目される必要がある。そしてザッパは初期からヨーロッパで演奏し、ファンを多く得たことが『アンクル・サム』の依嘱につながったが、そのことでザッパは自分がイタリア系であることを意識もしたであろう。ともかく、日本の音楽の旋律を駆使するプッチーニの『蝶々夫人』に対し、歌舞伎や相撲の要素を取り入れ、民族楽器も駆使する『アンクル・サム』が『蝶々夫人』の趣向をおよそ100年後に大きく進めたと評価されるはずであったと想像することで、ザッパの早い死を思い起こすしかない。今日の4枚の写真を説明しておく。最初は京都のドイツ文化センターで確か92年の春に見た雑誌のコピーだ。そこには『ザ・イエロー・シャーク』は9月22、23日と記される。これを見て筆者は心づもりをした。フランクフルトでの公演は9月17,18,19日で、ウィーン公演は、昨日書いたことは間違いで、9月26、27、28日であった。ベルリンは22,23日だ。筆者はロンドンに23日までいたと思うが、もう3日滞在すればウィーンに見に行けた。だが、もうその費用を持ち合わせていなかった。それにザッパがウィーンにやって来ないことはほとんど明らかであった。2枚目の写真はフランクフルトの街中のあちこちにあったコンサートのポスターを貼る広告塔で、そこにザッパの病弱な顔を見た時には驚いた。3枚目の写真は右がアルテ・オーパーで買ったプログラムで、左がライヴハウスのジンカステンで出会ったドイツ人が後日送ってくれた『ザ・イエロー・シャーク』の新聞や雑誌記事を複写して発売順にまとめた本だ。200ページほどあり、最後の方に筆者が書いた文章も載っている。もちろん私家版で、何部刷ったのか知らないが、現地の新聞記事を海外で探すのは大変で、長年経てば貴重な資料集になるだろう。フランクフルトやベルリン、ウィーンがほとんどだが、ほかの都市の記事もある。4枚目はその本の中の1ページで、ウィーン公演のプログラムの1ページだ。サイモンさんはウィーンが初めてであったようだが、3年前か、サイモンさんからメールが来た。ドイツで毎年開催されるザッパナーレがとても面白く、現地で知り合ったファンもいるようであった。そのメールは筆者もザッパナーレに来ないかとの誘いの意味もあってのものだと思うが、ロンドンからドイツに行くことに比べると、日本からはあまりに遠い。それはともかく、サイモンさんも相変わらずザッパの音楽に関心を持っている。死後の世界は地獄か天国か知らないが、ずっと聴き続けるつもりだろう。筆者もそうだが。