桜の花はさすがに植えられていだろうが、すし屋がユーロ・タワーの通りを挟んですぐ東にある。新鮮な魚がどれほど調達出来るのだろう。
小さな回転すし屋で、ドイツ人好みのネタや味にしてあるのだろう。そのスシ・バーのすぐ近くにアジア系無国籍料理、トルコ料理、ヴェジタリアン料理、それに「いろは」という日本料理店もある。少し離れると中華料理やインド料理、ドイツ料理の店もある。当然と言えばそうだが、日本では中華料理やインド料理の店ほどにはドイツ料理の看板を掲げる店がない。イギリスはなおさらで、今でもイギリスは料理の評判は芳しくない。筆者が訪れた1992年は日本食ブームが起きるずっと前だ。時代が変わるものであることを思う。それでもグーグルのストリート・ヴューで見るフランクフルトの街はほとんど変化がない。フィレンツェは数百年後に訪れてもほとんど現在と変わらないだろうと言われている。街を大きく変える必要がないのであればその方がいいのに決まっている。筆者が住む嵐山では外国人観光客目当ての民泊が急増中で、古いアパートや一軒家を改装している。それなら建物の数は増減がないのでまだいいと思うが、一方で田畑を耕す人が高齢になり、その田畑にアパートが建つ場合も目立つ。戦前は99パーセントが田畑であった嵐山はその割合が逆転して、今では土地の1パーセントほどもない。人口が激減中であるから、2,30年先には不要になった建物がみんな民泊になっているかと言えば、これはどうなるかわからない。観光客が来なくなる可能性はあるし、現状より多少多くなっても、空き家すべてを民泊にする必要性がない。そのため、古くなった家は壊して空き地にするしかなくなるが、それでは固定資産税を支払うのが大変で、駐車場にするか、何か収入を得るための施設にしなければならない。アパートは儲からない、駐車場はもうあり過ぎる。では元の田畑にするかと言えば、誰も農業をやりたがらない。荒地のままとなり、やがて雑木林というように、江戸時代よりももっと始末の悪い状態になりかねない。だが、不要な建物が消えて、広々とした空き地が増えることは、筆者は賛成だ。もともと嵐山はそんな場所であった。桂川右岸の梅津にしても、段町からは6,7キロ先の京都駅が見えたというから、梅津一帯もほとんど家がなかった。それが昭和30年代前半のことだ。そう思えば田中角栄の『日本列島改造論』は、日本をむちゃくちゃに改造してしまったと言ってもよい。風風の湯で会う81歳のMさんは、大阪の横堀川を埋め立てて、その真上に高速道路を造ったことに憤っている。全く同感で、死の川と呼ぶべき惨澹たるたたずまいになっている。筆者の知る限り、フランクフルトにはそういう場所はない。日本は改造と破壊の区別がつかず、大阪だけを見ても恥ずかしい破壊場所は少なくない。そしてそういう場所は外国人観光客は訪れないし、偶然通りがかっても見なかったことにする。
今日はフランクフルトの思い出の最終回とするが、最初の写真は何度もくぐり抜けたアーチ型の門で、曲がりくねっているベートマン通りの東端にある。ちょうど市役所の北側で、この門の北側にパウロ教会があり、フランクフルトではレーマー広場とともに最も中世色を残す場所だ。また、写真からわかるように路面電車が走るが、本数が少ないのか、筆者はこの辺りでそれが走っているのを見かけなかった。教会で思い出したので書いておくと、教会は日本の寺社仏閣であるから、古い街に多いのは当然だ。また、たぶんフランクフルトにあると思うが、ファスビンダーの映画『13回の新月のある年に』では尼僧の教会が登場する。レンガ造りの建物で、内側の地面が芝生であることが印象的だ。その教会がどこにあるのかがわからない。映画をじっくり見ると、ヒントになる何かが見つかるかもしれない。レーマー広場のすぐ東に聳える大聖堂付近は、サイモンさんとともに、あるいは筆者と息子のみで散策し、大聖堂の内部にも入ったが、それ以外の教会は見ていない。ストリート・ヴューで調べた限り、内部の地面が緑である教会はなく、ファスビンダーは郊外の教会をロケに使ったかもしれない。大聖堂の真裏、つまり東は建物に囲まれた小さな広場で、その一画の画廊か本屋のような店先に古本が売られていた。サイモンさんはある写真集に写る陽気そうな中年女性の裸体を見ながら、なかなか気に入ったと感想を筆者に漏らしながら、結局その本を買わなかった。ヌード写真集ではなく、家族を撮影した1枚にたまたまその女性は裸で立っていて、エロっぽさは皆無だ。時間があれば本をじっくりとあさって気に入ったものが見つけられたかもしれないが、アルテ・オーパーに向かう途中であり、先を急ぐ必要があった。また思い出したので書いておくと、アルテ・オーパーは「ALTE OPER」と綴り、「旧オペラ劇場」と呼ぶべきだが、そのまま読むと本当はどう書くべきだろう。筆者は昔は「アルテ・オーパ」と書いたが、これでは最後の「R」を発音しないことになる。それに日本では商業施設の「OPA」があって、それと紛らわしい。それでこのブログでは先日「オーパー」としたが、実際は「オーペル」がいいかもしれない。「ル」は「ー」と延ばして発音する場合もあるから、「オーペー」でもいいように思うが、ドイツ語の発音を日本語に置き換えることは正しい方法がないと言ってよい。「HOF」を「ホフ」か「ホーフ」のどちらにすべきかと悩むことも同じで、どちらも使われている。ザッパの父の生まれたシチリア島の街も、グーグル・マップでは「パルティニーコ」となっているが、筆者は「ー」を省いて書いた。イタリアでの発音は「ー」が入っているように聞こえるが、アクセントにこだわって日本語表記の際の法則を作ることは一筋縄では行かない。「THIS」を「ディス」と書く人があるが、それでは「DIS」を思い浮かべるし、「ジス」では「JIS」となって、結局「TH」を日本語表記することは不可能だ。そこで慣例にしたがうのがいいということになる。
今日の2枚目の写真の中央の古ぼけた建物は、サイモンさんに誘われて訪れたライヴハウスのジンカステンだ。確かコンサート2日目が終わった後に地図を片手に歩いた。ストリート・ヴューでは昔のままの状態で写っているが、何年か前に閉鎖になった。現代美術館の真北200メートルほどにあり、アルテ・オーパーからは東へ700メートルほどだ。ザッパ・ファンが数人受付にいて、筆者はそのうちのひとりと親しくなった。住所を交わし、数年文通し、いろいろとザッパの資料を送ってもらった。彼は失恋がきっかけでザッパの音楽を聴くことに耐えられなくなり、収集したレコードや資料を全部処分した。遅いか早いかの違いはあっても、誰でもいつかは集めたものと離れなくてはならない。ネット・オークションにザッパ・コレクションを放出している人もあるが、いつか筆者もそうするかもしれないし、死んだ後では価値もわからずに処分される。真に価値のあるものは誰かが目に留めて後世に伝えるから、レコードやCD、本といった複数生産品は大切に収集するものではない。ジンカステン内部では2階に上がって座った。息子にはジュースを飲ませ、筆者らはビールを頼んだ。ザッパの曲が流れ、筆者も含めて客同士で肩を組んで合唱するなど、ファンならではの交流があった。切りがないので午後11時頃に外に出たと思うが、真っ暗でほとんど人気のない道を歩き、ロゴ文字が青く光る現代美術館の北側を通って、今日の最初の写真の門をくぐり、カイザー通りに入って中央駅前から路面電車に乗ってホテルへと戻った。今日の3枚目はザッパの家族が『ザ・イエロー・シャーク』のコンサートの間宿泊したホテルだ。中央駅の真正面の大きな通りを東に進んだ突き当りにあるシュタイゲンベルガー・フランクフルター・ホフで、写真はその正面だが、この前を3日間とも通りがかった。3日目だったか、サイモンさんがザッパあるいはゲイルに電話するために中のロビーに入り、筆者と息子もそれに同行した。その時の写真もあるが、人物が写るので載せないでおく。また、その誰も人を見かけなかったロビーに入るのに、どの出入り口を使ったのかは記憶にない。最初の写真の南面する玄関からか、あるいは北面中央にある車が出入り出来る玄関か、たぶん後者のように思う。3日目のコンサートが終わった後、アルテ・オーパーの控え室でザッパをしばし会ったことは昨日書いた。その後、筆者らはこのホテルまで歩いた。そして4枚目の写真の中央に見える玄関でザッパを待った。黒のベンツだろうか、すぐにザッパは車で送られて来た。その後、ザッパの家族全員も別の車で到着した。玄関の内側に入って彼らを見送ったが、ゲイルやムーンは息子を見て「オーッ」と声を上げ、笑顔を見せた。サイモンさんから事情を聞いていたのだろう。アーメットが近寄って来て、息子と筆者にガムを1枚ずつ差し出した。ザッパの後ろ姿はかなり疲れているように見えた。それはオーラの消えた姿と呼ぶにふさわしく、サイモンさんはそっとそのことを口にした。だが、誰でも癌で短い余命を知るとそのようになる。それで、死の間際で華々しかった頃を思い浮かべて、人生が光に満ちて楽しかったと微笑むことが出来れば、人生の勝者と言える。