蔵出しするような思いでついにこの投稿のために昔のアルバムを引っ張り出した。そして反則というほどのことでもないが、一昨日の投稿の写真を間違った。
それで一昨日の3,4枚を、今日投稿しようと思っていた1,2枚目と、先ほど交換した。アルテ・オーパーに向かって歩きながら撮影した順に載せた方がいいと思い直したのだ。今日の1,2枚目はドイツ銀行で、一昨日の対写真と同じように1992年の筆者の撮影と2008年のグーグルのストリート・ヴューからダウンロードして加工した画像だ。最初の写真は2枚の左右がうまくつながらないが、だいたいそのような位置ということで2枚を選んだ。子どもは筆者の息子、ポーズを取っている長身の男性はサイモンさんだ。このガラス張りの建物は一昨日の3,4枚目から200メートルほどアルテ・オーパー側にあって、マインツァー・ラント通りが終わってそのままタウヌスアンラーゲという名前に変わる道路沿いにある。タウヌスアンラーゲはどういう意味なのか知らないが、最後に「シュトラッセ(通り)」がついていない。そして、この大きな通りの東一体は広い公園になっていて、その名前もタウヌスアンラーゲだが、この緑地帯はレーマー広場など、歴史的地区をぐるりと取り囲み、新しい都市と古いそれとを分けている。緑地帯の内部に高層ビルがないのかと言えば、そうではない。ただし、今後もレーマー広場やその近くのパウロ教会のすぐ近くには建てられないだろう。京都と同じで、厳しい建築基準を設けているはずだ。一昨日の3枚目の奥に見えるアルテ・オーパーのすぐ左に今日の3、4枚目のドイツ銀行が少し見えている。それが4枚目では緑に覆われて見えなくなっている。建設当時からそのような計画であったかもしれない。ガラス張りであれば、空が写って遠目には威圧感が減少されるが、近くから見れば光の反射で眩しいかもしれない。そういうことは設計段階で考えられているはずだが、建ってみないことにはわからないこともある。その反射を抑制するためには樹木がよい。また、ガラスと鉄という冷たさを緩和するには自然の緑は効果がある。石造りやコンクリート、それにガラスと鉄など、建築素材が変化して来て、今後どのような新たな建築材料が使われるようになるか。一昨日は書かなかったが、樹木の多い日本では木材を積極的に使う手もある。それはすでにいろいろと試みられているが、耐久性の面から敬遠されるのだろう。コンクリートでも塗装のやり直しを定期的にする必要があるので、外壁材として木材を使い、見栄えが悪くなれば交換すればいいような気がする。メンテナンスが多少高くついても、特徴のある美しい建物となれば、世界中から見学に訪れる人がある。この総ガラス張りの建物は東京にもあるかもしれないが、ドイツ銀行は一度見れば忘れられない異様な威容のデザインで、フランクフルトの意地を見せようとしたのではないだろうか。
市内にはコメルツバンクがいくつかあり、サイモンさんはそれに気づいてさすがフランクフルトというようなことを言ったが、92年はまだドイツではマルクが使われていて、青と黄色で構成される有名なユーロの記念碑はなかった。それは高層ビルのユーロタワーのすぐ近く、カイザー通りの東端に近い緑地帯の内側にある。公園のベンチでくつろぎながらその大きなユーロ・マークを眺めると、フランクフルトに来た思いを強くするだろう。さて、いよいよアルテ・オーパーだが、これは前述の旧市街を取り囲む緑地帯の中にある。あるいはその緑地帯を削る形で建っている。建物の正面に大きな噴水があり、『ザ・イエロー・シャーク』のコンサートのあった日は噴水の周りに大勢の人がいた。入場には早いが、心待ちしていたのだろう。サイモンさんも筆者もこの建物の写真を何枚か撮ったが、サイモンさんや息子が大きく写り込むのでストリート・ヴューで代用する。この3枚目は撮影が夏で、筆者が訪れた9月とは違って日差しが強い。それは筆者の記憶とは異なるが、そのことはほかの筆者の写真でも言える。フィルムとデジタル・カメラの差を越えて、9月中旬のフランクフルトは秋たけなわの、色で言えば茶色や黄金色のイメージがあった。滞在した3日間で感じた空気の匂いのようなものは、毎年秋になると筆者は思い出す。それは9月の中旬から10月上旬の、どこからともなく漂うかすかなキンモクセイの香りによって惹き起こされる。フランクフルトでその匂いを嗅いだかどうか記憶にないが、同じような秋の日が日本にもある。それはわずか1日か2日程度の短さで、それほどに秋は1日ずつ雰囲気が違い、また短い。フランクフルトに行った後、25回もその一瞬とも言える同じ雰囲気の空気感を日本で味わったが、その記憶で充分満足で、再訪してみたいとはあまり思わない。行くなら別のヨーロッパの街がいい。そして、日本にいても同じ空気感を嗅覚で感じられるのであれば、わざわざ遠いヨーロッパに行かなくても京都でいいとも思う。日本にいれば遠い国を夢見るが、そこへ行けば日本が懐かしくなるだろう。どこにいても同じで、ザッパもそう思っていたのではないだろうか。欧米のたくさんの都市でコンサートを開いたザッパだが、ほとんどホテルと演奏会場への往復で、街をぶらりと散策して季節の花の香りを記憶に留めたことは少なかったはずだ。それは何となくわかる。初めての街を散策し、それなりに思い出を作っても、それを反芻することはあまり生産的ではない。何度思い返してもそれはただそれだけのことだ。ならば思い出すのは一度でいいようなものであるし、また思い出すのに困るほど多くの街を見る必要もないことになる。また、ストリート・ヴューは見知らぬ街の様子を知るにはとても便利だが、筆者が毎年一瞬思い出すフランクフルトの香りのようなものは、実際に現地を歩かないことには得られない。そういう記憶こそが長年残る。そして、初めて訪れる街の情報を予め得ない方が新鮮でよい。
今日の4枚目は息子のアルバムに貼ってある『ザ・イエロー・シャーク』のチケットだ。筆者の分とともに3日分計6枚をザッパに便宜を図ってもらった。もちろんサイモンさんの分もだが、リハーサルも見ることが出来たのも特別待遇だ。その様子の写真もあるが、それは載せないでおく。公演は午後8時からだが、リハーサルを聴くためにたぶん6時頃に入ったと思う。舞台にアンサンブル・モデルンと指揮者、それに黒い上下のザッパもいて、ところどころで意見しながら同じ曲を何度も演奏していた。客席中央に音声をコントロールする装置があり、そのすぐ背後に座ってリハーサルを聴き、その間に筆者らに注意を払う人は誰もいなかった。会場内部に入れること自体、関係者であったからだ。そう言えば記者らの姿はなかった。リハーサルの間、筆者は小便をしたくなったので、息子を置いてひとりでトイレを探した。客席を出て、舞台に向かって左手の広い廊下を前に進みながら、扉を2,3枚開けた。廊下は豪華なホテルのそれのようで、眺めは明るい赤と金と白で構成されていた。また誰とも出会わず、トイレの中もひとりであったので、こうして書いていて夢を思い出している気分だ。リハーサルが終わると一旦外に出て、食事をしに出かけた。最終日の3日目だったと思うが、リハーサル後にアンサンブル・モデルンが舞台裏の大きな控え室で食事を始め、そこに筆者らが入り込んで睨まれながら右往左往した。彼らの食事にありつこうというつもりはなく、サイモンさんがザッパと会うための方法を探っていたのだ。その3日目か、サイモンさんはザッパの泊まるホテルの一室でついにザッパと話をした。その時、筆者は息子と一緒に市内見物をしていて、サイモンさんは連絡のしようがなかった。一緒に行動していれば筆者もザッパと少なくても1時間は一緒に過ごせたが、会えるかどうかわからないのに、サイモンにくっついて行動することは出来ない。またせっかくフランクフルトに来たのであるから、市内見物もしておきたかった。それでザッパには3日目の公演が終わった直後にアルテ・オーパー内の控え室で会えた。演奏会が終わり、客が引き上げて行った後、筆者らは舞台に上がり、その袖口から奥へと進んだ。幕の向こうの袖口には機器類が山積みとなっていたが、その時に見たもの、感じたことは筆者の記憶にしかない。すでに数人の関係者のみ残してアンサンブル・モデルンの全員も姿を消していた。ザッパとは別の、先に書いた大きな控え室に行ったに違いない。コンサートではドゥイージルなど、ザッパの家族が筆者ら3人のすぐ後ろで座ったり、前であったりしたが、ザッパの家族にとってフランクフルトは最後の家族旅行になった。ザッパは二度と海外には出なかったので、海外で会った最後のザッパ・ファンが筆者とサイモンさんであったことになる。コンサートは確か3か月後にウィーンで開かれ、サイモンさんはそれを見に訪れたが、期待されたザッパの姿はなかった。サイモンさんからウィーン公演も見ないかと誘われたが、その費用がなかった。