Luxuryな海外旅行というイメージが今は格安航空券のお蔭で少なくなって来ているが、それでもパンと飲み物をコンビニで買って食事を済ます若い旅行者は少なくないだろう。阪急嵐山駅のすぐ前にコンビニがあり、そこはいつも満員で、パンやサンドウィッチの包み紙がよく地面に落ちている。
それを掃除するのはコンビニの店員であってしかるべきだが、実際はどうなっているのだろう。今日は「着物レンタル」の立て看板を抱えて駅前のどこかに据えに行く若い女性を見かけた。風風の湯の近くの道路際にはそこから50メートルほど離れたカフェの看板が毎日立てかけられているので、それに倣っての無断設置だろう。儲かると見ればちょっとした隙を狙ってそういうことをする。いつまで外国人観光客が嵐山にたくさんやって来るかわからず、燃えている今のうちに稼ごうという考えだが、聞くところによると、地元の人では東京の業者、あるいは中国人が権利を持っている場合があるという。儲からなくなればさっさと撤退で、そうなれば元の静けさが戻るかと言えば、そうとは限らない。それはともかく、嵐山では民泊が増えている。そこに泊まる旅行者は食事に困り、1軒だけある中華料理店か、1軒だけある喫茶店、1軒だけある飲み屋、あるいはこれも1軒だけのコンビニに行く。中華料理店は高齢者が経営していて、量の割りに価格は高く、神戸の中国人が経営する店のほとんど倍の価格と言ってよい。他に店がないのでは仕方がない。それでコンビニでパンなどを買ってさびしい食事で済ます人が多いだろう。昨夜は坂本龍一が人生の最期は京都に住みたいという記事を読んだが、京都もさまざまで、どこに住むかで雰囲気は大きく違う。正月の3日は義兄らと食事会をし、その時に家内の姪の主人である医者が筆者の目の前に座ったので話をし続けた。彼は近江八幡に家を建てたが、なぜ勤務する病院のある京都ではないのかと訊くと、同僚はたいてい京都に住むが、住宅のあまりの高い価格に手が出ないと言った。1軒家で庭つきとなると、それはそうだ。筆者のよく知る染色家のK先生は松ヶ崎に住むので、そのことを言うと、それは理想だが、京都でも最も地価の高いその地域に住むことはとても無理とのことだ。医者や弁護士、大学の教授と言えば松ヶ崎に住むのが常識で、姪の主人もいつかそこに家をかまえると思うが、そのように京都では収入と肩書きによって住む地域が違う。坂本龍一は以前にデイヴィッド・ボウイが家を買っていた九条山に土地を持っていたそうだが、また九条山に土地を買うのだろうか。そこには日仏会館の別荘としての施設があり、筆者は何度か行ったことがある。あまりにさびしい場所で文化人が住むのにふさわしいとはあまり思わないが、残り少ない余生を過ごすのはいいかもしれない。松ヶ崎は坂本には似合わないだろう。筆者は四条大宮のごちゃごちゃしたところに本当は家を買いたかったが、それほどの金がなかった。
フランクフルトにファスビンダーはどれほど住んだのだろう。また気に入ったのだろうか。撮影に忙しく、街の雰囲気を楽しむことはなかったのではないか。どこに居をかまえたのか、それがわかればグーグルのストリート・ヴューで調べるのだが、ファスビンダーの本に住所が書いてあるかもしれない。1992年9月下旬に筆者が訪れた時、同行したサイモンさんになるべく安いホテルをと頼み、見つけてもらっておいた。それは飛行場から電車で終着駅のハウプトバーンフホフに出て、そのすぐ北側のマインツァーラント・シュトラッセという大通りを線路に沿って10分ほど歩いて北をほんの少し入ったところにあった。グーテンベルク通りかシュバイヤラー通りのどちからで、たぶん後者だが、大通りから2、30メートルで、2階だ。名称や住所を記した紙を保存しているが、面倒なので調べない。3日ともそこに滞在し、あちこち出かけたので、大通りやホテルはよく覚えている。だが、ストリート・ヴューで探すと、どうも建て変わったようだ。それに泊まったホテルは今で言う民泊のようなものだ。朝はパンが好きなだけ食べられ、飲み物やヨーグルトもあって、また部屋はとても広かったが、カーテンはなかった。そのため、東の向かい側にいくつか見えたビルのたくさんの窓から覗かれっ放しの状態だったが、シャワーを浴びて服を着るまでの間、それらの灯りの点いた窓に人影が見えたことはなかった。フロントには長髪で眼鏡をかけた30歳くらいの男性がひとりいて、他の宿泊者とは全く会わなかった。朝をたっぷり食べたのであまりお腹は空かなかったが、昼食抜きというわけには行かない。だが何を食べたのかほとんど記憶にない。ホテルを出て大通りの向こうに古めかしい石造りの建物があり、その1階の1室が奥が深いコンビニで、そこでジュースなどを買った。今日の最初の写真は奥が西で、右がホテル、左がコンビニ、そして中央に路面電車の線路が見える。市中に出る時に必ずこの2両編成のトラムに乗った。筆者ひとりなら歩いてもよかったが、小さな息子が疲れる。2枚目の写真はそのコンビニのあった建物で、左端の扉が少し開いている。ストリート・ヴューによると、この建物の西側、2枚目の写真では、手前の大きな車で奥が見えないが、右手が空き地になっている。グーグル・マップではそこがスーパーマーケットと記されるので、2008年夏以降に出来たことがわかる。空き地になる以前は何があったのか知らないが、筆者が買い物をしたコンビニが入った古い建物があったかもしれない。25年経てば、いかに石造建築物の文化とはいえ、店は変わり、建物も新しくなるだろう。なお、2枚目の写真の右手の新しい建物はコンピュータ・センターで、92年にはなかった。3枚目もストリート・ヴューから取ったが、トラムに乗ってマインツァーラント大通りを西進し、右すなわち南にあるハウプトバーンホフへと曲がる直前の眺めだ。車内放送はテープに録音した女性の声で、毎回同じそれを聞いて駅前で下りた。トラムを待っている間に歩けそうだが、トラムは本数が多く、またいつも座れた。『今日からでもこの土地で暮らせるな』と思ったほどに、筆者はすぐに馴染んだ。