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●『13回の新月のある年に』
はヨーロッパでもいるのだろうか。日本でも蝉の鳴き声がうるさいと思う人が増えていると思うが、高層マンションが建つ駅の近くに住みたい人が多いようでは、蝉の泣き声を聞く機会は少ない。



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また生息出来る場所も減って来ているだろう。わが家では裏庭で毎年蝉が孵化し、クーラーをつけないこともあって、夏の間は蝉の鳴き声がBGMになる。また蝉が鳴かない季節は、自分の耳鳴りに気がつくことが多くなって来た。加齢による聴力の衰えだろう。視力が落ちたと実感すると同時に耳鳴りによく気づく。少しずつ不具合を抱えるようになって来て、長生きは予想以上に困難であることを想像する。今日は久しぶりにファスビンダーの映画を取り上げるが、彼は41歳で死んだ。60いくつかの映画を作り、燃え尽きたと言ってよい。多作であるのでどの映画も完成度という言葉を使うことはふさわしくないだろう。その時に思っていたことを、感覚で全部持ち込み、雑多なものばかりで構成されていると言ってよい。そしてその雑多な画面の連続と総合の中に、監督独自の個性が明確に宿っている。これはある場面が即席で撮影されたようでいて、勘にしたがってその時に出会ったベストなものを捉えていることであって、映画を通じてファスビンダーの個性に惚れ込むようになる。『13回の新月のある年に』という題名は映画の内容にほとんど関係がないが、そのように映画の本筋とはあまり、あるいはほとんど無関係な場面や台詞を多用しながら、映画全体としてはどれも欠かせない要素に思えて来る不思議さがある。本作はこれまで見たファスビンダーの作品では最も彼らしいが、昔見てファスビンダーに関心を持つことになった『ベルリン・アレクサンダー広場』と似た味わいを感じた。双方に出演している男優がいるからでもあるが、ファスビンダーンの作品に登場する俳優は男前や美女はほとんどいない。それよりも一度見れば忘れられない個性的な顔の役者を使っている。日本ではその点はどうだろう。美男美女を起用しない映画は考えられないのではないか。昔の日本映画は味のある脇役も多かった。筆者はほとんど見ないのでよく知らないが、今の日本映画は主役も脇役も役不足ではないか。TVに出る映画俳優の名前を家内に訊いても覚えられず、またそれほどに個性に乏しい気がする。となれば、監督もそうなのだろう。日本の映画はどこかで伝統が途切れたか、あるいはあまりに細くなったのだろう。巨匠と呼ばれる監督がいなくなった。ファスビンダーは現在のドイツでどのように評価されているのか知らないが、ニュー・ジャーマン・シネマの監督として他にヘルツォークやヴェンダースの作品を筆者はほとんど見て来た結果、ファスビンダーが最も過激で新しい地平を切り開いたように思う。そうだとすれば、その後を継ぐ若手を輩出しているはずだが、ファスビンダー級に有名な現在活躍中のドイツ人監督を知らない。
 それはさておき、ファスビンダーはアメリカで映画を撮ったドイツ人のダグラス・サークに影響を受けた作品を撮ったが、本作はメロドラマではない。筆者が感じたのは、正しいかどうかわからないが、1920年代のノイエ・ザッハリヒカイトの芸術運動だ。画家ではグロッスやディックスが該当するが、これは表現主義とは違って、即物に対象を描く態度だ。ある感情を移入してこのように見てほしいという態度をあまり示さない。では、精巧な写実かと言えば、そうではない。良識派が目を背けるようなことも含めてあるがままを描き、鑑賞者が何をどう感じるかについては気にしない。そういう自己表現もあって、その押し付けがましさのないところが潔いが、即物的に描写してもそれはそれで見る者に対する一方的な提示であるから、作者はどのように作っても作品となり得る。それを無責任な態度として嫌悪する自由はあるが、新即物主義の表現者が無責任であることはない。あるがままを表現して作品になるのであれば、そんなに簡単なことはないと言えそうだが、絵や映画ではそれなりの物理的な制限があるし、また映画では制作費を回収するという大前提があって、観客を動員する必要がある。また、あるがままというのは、よくもわるくも全体をそのとおりに提出することで、鑑賞者がそこに真実を感じて評価することもあろうし、その反対に作者のその態度や作品を嫌悪する人もある。グロッスやディックスの絵画はそのようなものだ。筆者は彼らの作品が大好きだが、それでファスビンダーの映画も気になり続けているのかと、本作を見てようやく納得出来た。つまり、ファスビンダーはドイツ芸術の伝統の上に立っている。日本の現在の映画監督が、戦前の日本映画に顕著な芸術的表現に習いつつ、それを現在の好みに合わせ、また時代錯誤ではないような主張を込めることが出来るのかどうかだが、それにはまず戦前の映画を当時の芸術運動の一端として評価が定まっている必要がある。そういうことを戦前から日本の映画評論家がやり続けて来ているのかどうか知らないが、新即物主義的映画は戦前の日本にあったとして、それはいわば借り物の思想であるから、模倣したところでドイツ映画に比肩出来るものはないだろう。では戦後の巨匠を伝統としてその上に新たな伝統を作るというほどの気概のある若手監督がいるかとなると、日本は映画の黄金時代を過ぎて、前述のように名俳優が枯渇しているのではないか。そのひとつの原因をTVの台頭とすることは可能だろう。それはドイツやアメリカでも同じかもしれない。『ベルリン・アレクサンダー広場』はTV用に撮影したもので、まだ70年代のドイツでは映画とTVはうまく住み分けていたのかもしれない。日本ではTVが映画を圧倒し、そしてTVもつまならい番組だらけになって来た。それはともかく、本作は頭の中で蝉が鳴き続けているか、耳鳴りが収まらないような気にさせるほどに強烈で、このような映画は珍しい。
 本作を見て思い出したのはザッパの「ボビー・ブラウン」という曲の歌詞だ。美男子を自認する若い男がウーマン・リブ運動をしている男らしい女に犯され、それからは自分が男か女かわからなくなるという内容で、録音は本作の撮影と同じ78年だ。だが、ザッパの同曲は笑いを誘うもので、ザッパは特殊なセックスの趣味を持つ人間を風刺している。本作は同じようにセックス倒錯者を主人公とはするが、笑いは皆無で、主人公の生涯を言葉と映像で淡々と描き切る。生まれも死も劇的ではあり得ず、誰もと同じように、ある事情のもとで生まれ、そしてセックスを経験し、愛に飢えて絶望し、簡単に死んでしまう。そういう人物を主人公としてどういう面白い映画が出来るのかと質問する人は本作を見ない方がよい。グロッスやディックスが描く人物は、みなどこにでもいるような名もない人だ。それでも迫真的で、永遠性が宿っている。それは善良も悪徳も含み、人間そのものを暴き出している。ファスビンダーの映画もそれと同じだ。さて本作の内容を簡単に書くと、主人公は性転換手術をしたエルヴィンで、女になってからはエルヴィラと名乗っている。その出自は映画の中ほどで彼を育てた尼僧によって語られる。一度見ただけなので間違っているかもしれないが、エルヴィンはヒトラーが讃えたアーリア人種だが、不倫によって生まれ、すぐに修道院で育てられることになった。尼僧たちはかわいがったが、エルヴィンはどうすればすべての尼僧から好かれるかを考えるようになり、やがて嘘をつくようになる。何ともやり切れない尼僧の独白だが、そういう出自であるエルヴィンがどういう大人になってどういう死に方をするかは、たいていの人は予想がつくし、またそのように偏見を抱いている。ファスビンダーはそこを狙ってもいるだろう。ザッパが言ったように、人間の最も醜い部分は肉体のどこでもなく、心なのだ。エルヴィンは精肉工場で働き始め、そこでアントン・ザイツに出会った。彼の姿は謎めいたままで、終わり近くまでわからない。また、エルヴィンは彼が大物になって自分のしたことに激怒し、仕打ちされるのではないかと恐れて彼に許しを乞うために会いに行く。アントンは戦争中のユダヤ人迫害からの生き残りで、戦後は精肉工場で働きながら、どうすれば金が得られるかをそこで会得し、今やフランクフルトで高層ビルを所有するほどの大金持ちになっている。そして女好きだが、エルヴィンは男が好きで、かつてはアントンに言い寄った。アントンは「お前が男なら…」と言うと、エルヴィンはモロッコに行って性転換手術を受けたが、アントンはエルヴィンを好きにはならなかった。その躓きの後、エルヴィンはエルヴィラと名乗って男と同棲するが、何度も男に逃げられる。友人は若い売春婦のみだが、彼女はアントンと出会うと、さっさと誘惑し、エルヴィンの部屋でベッド・インする。それを見たエルヴィンはその横で自殺する。
 なぜファスビンダー何も得られないままに孤独に死んだ男色家の物語を映画化したかについては、DVDに付属しているブックレットに書かれている。ファスビンダーはヨーコ・オノやジョン・レノンと同じく、男とも女ともセックスが出来た。そしてファスビンダーには、自作に登場させる男の恋人がいたが、彼は自殺する。それでファスビンダーは自分や彼の映画仲間がいるミュンヘンを後にし、フランクフルトで本作を撮る。ファスビンダーはその元恋人の男の死の発見から葬儀まで母親に任せたというが、無慈悲と言われても仕方がないが、その恋人の死によって本作が生まれた。そして、ファスビンダーらしく、男でも女でもないエルヴィンは一切美化されていない。完璧な映画を作ることが夢で、人生には不幸も幸福もないと思っていたのかもしれない。映画を作っている間だけが幸福であったのだろう。そうでなければ多作の説明がつきにくい。その点はザッパと共通している。ユダヤ人の生き残りが、かなり際どい悪徳を働きながら財を蓄え、フランフルトの市中を見下ろす高層ビルを手にするという点は、ほかのファスビンダーの作品と合わせて、ユダヤ人蔑視と当時非難されたらしいが、フランクフルトで大金持ちになったユダヤ人がいたのは事実だろう。フランクフルトは歴史的な古い街並みの外側に高層ビルが林立する大都会で、観光客が近寄ると危険な場所もある。それはともかく、戦前や戦時中の歴史を現在につなげて物語を作るところは、物事を忘れやすい日本からすれば多少違和感を覚えるが、それは日本がおかしいのであって、ファスビンダーは過去があって現在があり、現在を過去とつなげて映画を撮ることをあたりまえとした。あるいは現在顕著に見られる社会性をテーマにした。本作でいえばそれは性転換手術をした街娼エルヴィンだ。収容所で死ななかったアントンとアーリア人の孤独で誰からも愛されないエルヴィンという対比だけでも、ヒトラー時代への痛烈な風刺になっているが、ふたりの出会いを精肉工場と設定することで、本作はさらに「えげつない」「グロテスク」を圧倒的に増している。よくぞ撮影許可が出たと思うが、精肉工場の作業の様子がドキュメンタリーのように挿入されている。狭い通路に牛たちは粛々と縦一列に並び、一頭ずつ順に1本の足で天井から吊り下げられ、人間によって首が皮のごく一部を残した状態で切り離されて行く。作業員は淡々と包丁を首に刺し、流れ出る血が収まったところで、次の全体の皮剥ぎ作業や分解作業へと流れて行く。その様子はもちろん戦時中のユダヤ人虐殺を連想させる意図もあるだろうが、人間というものがそのように順に死んで行くことの暗喩になっている。エルヴィンが生きて死んだのはその牛と似ている。あるいは金持ちになったアントンもいずれ死ぬ。屠殺場の場面は10分はあったと思うが、その血生臭さに卒倒する人もあるかもしれない。筆者は牛がそのように食肉になる過程を初めて見た。鮮明なカラーであるから、なおさらえげつないが、ヨーロッパではレンブラントに同じように殺された牛の名画があるし、肉を食べる文化では日本ほど違和感がないのかもしれない。




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by uuuzen | 2018-01-05 23:59 | ●その他の映画など
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