●「武田理沙~フランク・ザッパ・メドレー関西初演」 武田さんと筆者が10月26日、大阪の神山町のALWAYSにて対談します。
●1億年の伝統
げつない表現に出会うとひるむのは普通だが、えげつないことの定義は明確ではない。時代や国によって差がある。



白鵬は今ではその相撲の取り方が、勝つことをえげつなく求めているので美しくないと評され、「黒鵬」だとヴァッシングされるありさまだ。だが、反則技ではないので、美しくないと言われても白鵬はピンと来ないだろう。つまり、大相撲には美しくない、言い換えればえげつない技も含まれている。同じことをやっていても短期において評価が著しく変わるのであれば、えげつなくないとほとんどの人が思っていることは、もっと短期に正反対の見方がされることであり、伝統が一夜にして禁じられることもあるだろう。実際そういうことは人間の歴史の中で数多くあったに違いない。では何を信じて生きて行けばいいかだが、時代とは言わず、瞬時瞬間の空気を読んで素早く身を変えることだ。その最もよい例がTVのワイド・ショーのゲスト・コメンテイターだ。彼らは実に見事に風向きを瞬間ごとに読んでいる。確固たる思想など不要だ。あるとすればいかに人気を、つまり仕事を失わずに収入を確保し続けるかだ。そのためには二枚舌と呼ばれようが意に介さない。舌は10枚ほど持つべきで、どうせTVの前に座っている視聴者は認知症同然で、1か月経たずに何でも忘れる。変わりの早い、軽い軽い人物こそが現在日本の優秀人種で、そういう伝統がここ数十年のうちに日本に根を張った。だが、刻々と世の中の風向きは変わっている。いずれまた別のえげつない人種が時代を跋扈する。そうなったところで、同じ人間であるという哲学めいた意見を吐く、知識人気取りの金亡者が寵児になる。人間とはそのように本来グロテスクなものだ。年々筆者はそう思うようになっている。それは自分が老化へと向かっているからなおさらかもしれない。風風の湯に行くと、若者は尻がプリプリしているが、老人は尻の筋肉が落ちて、後ろ姿が無残だ。そのことを母の弟が去年の親類の集まりで言った。その叔父は今80代半ばで、筆者はその裸の後ろ姿を見たことがないが、叔父はスーパー銭湯で尻の肉が落ちた老人を見て、「ああはなりたくない。見ていてゾッとする」と語ったので、まだそれほど衰えてはいないのだろう。趣味で畑仕事をし、身体を動かすことを厭わないので、服を着ていても筋肉質であることがわかる。家内によれば、女性も同じで、まだ50代とおぼしき女性でも尻の筋肉がほとんどなく、股に大きな隙間がある場合をよく見かけるそうだ。本人は後ろ姿を鏡でしげしげと見ることはまずないので、老醜の度合いはわからない。老人の後ろ姿以外にもグロテスクなものは多いが、グロテスクは嫌悪すべきものかと言えばそうとは限らない。雲古のえげつない臭さも、何かを足すことで魅惑的な香りに変化するという。昔見た中国映画『紅いコーリャン』では、コーリャン酒の樽の中に小便する場面があった。その結果、酒は以前にも増して味わい深くなったという落ちであった。
d0053294_03371812.jpg 人間に限らず、動物には雲古を放出する肛門がある。雲古は「ばばっちい」と子どもは表現するが、大人のごく一部の変態は若い女の雲古を食べたがる。普通の人にはばばっちいものが、そういう人にはめったに食べられないご馳走だ。変態の常識外れの行為だが、美女でも肛門から雲古をひねり出すし、また臭い屁もするから、完全に美しいと人間などあり得ない。トイレから出て来た美女は何事もなかったかのように済ましているが、トイレで雲古をし、ひょっとすれば紙で肛門を拭く時に指に雲古が付着することもたまにはあるだろう。意識の中でその失敗を嫌悪し、次の瞬間には自分の美しい顔にふさわしい表情を取り戻すが、同じ人間でもそのように瞬時に醜から美へと変身する。これは、もともとグロテスクさを内蔵していて、それを理性で隠しているだけとも言える。グロテスクとは洞穴が語源だが、女は洞穴とたとえることは肉体的特長からも正しい。つまり、美女もグロテスクだ。筆者は最近よくそう思うが、一部の男性はごく若い時にそれを悟り、女に関心を失って男を求める。とはいえ、男同士でも挿入の穴は必要で、グロテスクさは持っている。正月早々えげつない話になっているが、グロテスクだなと思うことでもそれを美と捉える本能が人間には備わっていることを言いたかった。グロテスクな部分も含めて受け入れると言えばいいか、完全なる美には必ずグロテスクさがあると言ってもよい。グロテスクさのない美はなく、グロテスクを否定する人は美の本質を知らない。これは、老醜を受け入れるべきという意見にもつながる。では若い人には醜さはないのかと言えば、自制の利かない暴飲暴食で異様に太っていたり、また無自覚に生きて犯罪に次々と手を染めたりする者があって、老人のみが醜いとは言えない。年齢は関係ない。さて、数年前に亡くなった染色の大久保直丸先生は、「きたない表現は自分は嫌いだ」と美学を語り、その言葉どおりに作品はどれも美しい色合いであった。先生のその「きたない表現」とは具体的にどういうものを指すかは質問しなかったが、誰でもだいたいわかるだろう。えげつない印象を与える作品のことだ。日本画ではそういう表現は少ないが、たとえば甲斐庄楠音が描くグロテスクな花魁を思えばよい。その鉄漿が覗く笑顔は、本当の花魁の美醜を描き切っているが、大久保先生は醜はよけいで美だけ描けばいいではないかと思ったであろう。実際女性の美のみをひたすら誇張して描いた日本画家の方が圧倒的に人気がある。だが、甲斐庄から見ればそれらは絵空事で、真実味に欠ける理想に映ったであろう。これは絵画とは何かという画家それぞれの考えの差で、画家は自分の信じるところにしたがって描けばよい。筆者はロヴィス・コリントの「赤いキリスト」というほとんど屠殺場の情景に見えるえげつない絵に感動する方で、えげつない表現に迫力と真実味を見るが、えげつなさを顧みない美オンリー主義はどこか胡散臭いと思っているからだろう。
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 以上は前置き。今日の題名をどうしようかと迷った以上に、今日は何をどう書けばいいのか今もわからない。とにかく思いつくまま書いている。今朝はほとんど正午近くまで眠っていた。1階に下りてパソコンを開くと、先日投稿した大平さんから長文のメールが届いていた。その内容に驚き、どう返事をしていいのかわからないでいる。それで、この投稿をその代わりにしようかと不遜なことを思い始め、こうして書いている。2年前の秋、筆者は家内と東京に出かけて上野の美術館で若冲展を見た。その後、夕暮れに大平さんと新宿の高島屋の喫茶店で待ち合わせをした。筆者らが着くと、すでに大平さんと兄のKさんが座っていた。Kさんとは初対面だ。癌であるとは聞いていたが、そのようには見えなかった。だが、そういうものであることを筆者は死っていた。10数年前、長年キモノの仕立てをしてもらっていた日本画家のある女性が癌になった。もう手遅れという状態である日わが家にやって来て、3階で談笑した。彼女は自分が癌であるとは思えないほど元気であると言い、不思議なことだと笑っていた。そのとおりで、以前よりも元気に見えたほどだ。だが、彼女はそれから半年ほど後に亡くなった。話を戻すと、先月のいつか忘れたが、筆者は何気なくKさんのことを思い出した。ほとんど一瞬で、思い出したことが意外であったが、大平さんにKさんの体調はその後どうなっているかまでは訊かなかった。それが今朝のメールに、Kさんは先月21日に病院で亡くなったことが書かれていた。闘病は3年7か月に及んだとのことだ。癌とわかった時、Kさんはしばらくかなり落ち込んだそうだ。あたりまえのことで、誰でもそうだ。だが、Kさんは自分の本職のカメラマンとしての仕事とは違うことに打ち込み始めた。円谷プロダクションが作った怪獣が好きなKさんは、自分ならこう作りたい、またこう動きたいというこだわりが子どもの頃からあったらしい。筆者は『ウルトラマン』の世代ではなく、また『ゴジラ』にほとんど関心もないので、Kさんの興味とそれによる実際の製作についても興味がそそられることはなかった。そして、残りの人生が少ない中、自分の手で怪獣を作り、それを着用して東京のどこかの公園に出現し、その様子を撮影したいという考えは、突拍子もないことに思えた。そして、自分がKさんの立場にあれば、どう行動するかという問題を突きつけた。誰しも元気を自覚している身では、末期癌はどこか異次元のことで、じっくり考えられない気がしている。つまり、自分の死が刻々と迫っているという実感を得て初めて考えられることで、ほとんど人はそのように死を先送りし、自分とは関係がないと思っている。そのため、今改めてKさんの怪獣作りを思うと、それは残された日々の中でこれだけはやっておきたいという覚悟を決めたことであって、結果がどのようなものであれ、崇高さが付与されることは明白だ。「どのようなものでも」というのは、「グロテスクであろうとなかろうと」という意味でもある。
 Kさんはカメラマンであるので、作品は写真であろう。それを筆者は見ていないが、今日の3枚は今朝大平さんのメールに添付されていたもので、3枚目以外は以前に筆者は見ていた。これらの写真はKさんの撮影で、自分で作った怪獣を自分で撮影したので、最期の作品としてよい。筆者は写真も怪獣製作もその技術的なことは無知同然で、Kさんが自分の納得の行くように怪獣を作る過程で苦労したこと、腐心したことなどはわからない。去年の初夏頃か、TVでKさんの怪獣のように、人間が着る精巧なものでしかもかなりリアルに口や目、首や手足、尻尾が動く怪獣あるいは恐竜を、東京のどこかの小さな会社が製作し、それを売り出そうとしていることをTVのニュースで見た。Kさんがその存在を知ったかどうかはわからないが、リアルな姿でリアルな動きをする怪獣ないし恐竜が、日本ではいわば最先端の流行になっていることを知った。つまり、求められているのだ。『ゴジラ』は何度もリメイクされているし、福井の恐竜博物館の人気もあって、怪獣、恐竜はひとつの伝統文化として日本に根付いている。日本だけではなく、アメリカでもそうだろう。Kさんはそういう動きに敏感でありつつ、また子どもの頃からの夢を今こそと思って、自分が中に入れる怪獣をいくつか作る決心をした。完成したのが何体あるのか知らないが、病院での展示を大平さんは進めていたらしい。それがかなう直前にKさんは世を去ったが、場所を改めてどこかで展示するとメールにあった。前述した企業が作った恐竜は、ゴジラの伝統上にコンピュータ技術の導入でもっと精巧なものを目指したものだが、Kさんのものは個人の趣味による作品で、費用のかけ方も違うので、比較するとおそらくKさんの作品は細かい動きの点では劣るだろう。だが、癌の恐怖が迫る中で製作という絶対条件によるアウラが付与されているはずだ。筆者は実物を見ていないが、写真からはヒリヒリするリアルさが伝わる。それにしても、人生の最期に自分が着る怪獣を作る人はこれまでいなかったはずで、筆者にはKさんの心の中を推し量ることが出来ない。ただし、日本が『ゴジラ』以降、怪獣がひとつのお家芸的な伝統となり、それが引き継がれて今後も衰えることがない様子であることはわかる。また、ゴジラは原爆による突然変異として出現した文明批判のシンボルで、そのゴジラの伝統が日本で継がれる限りは、日本は世界に向かって核廃絶を唱え続けなければ理屈に合わないが、残念なことに日本はグロテスクさを大いに抱え、原発の大事故に見舞われてもさらに原発を稼動させようとしている。Kさんがそういう現実を見て気ぐるみとしてのリアルな怪獣を作りたかったのかと言えば、子どもの頃からのただの夢の延長だと言うかもしれない。
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 だが、ゴジラが核によって滅びかねない日本の現状を、日本の国土を破壊して回ることで知らせようとした存在と捉えるのであれば、Kさんは自分の肉体が滅ぶことと引き換えに怪獣を作り上げ、その怪獣に自分の魂を宿そうとし、そしてゴジラに託された思いを共有したいと考えていたと想像することは出来る。そのことは大平さんとKさんがどのように話し合っていたかを訊かねばわからないが、大平さんはKさんの怪獣を大震災の被害のあった東北で展示するようで、そのことで見事にゴジラの思想を受け継ぐことになる。ゴジラは恐竜があっての発想だが、1億年前の恐竜は骨を残して現代に蘇った。そして恐竜は人間の伝統文化となったから、Kさんの怪獣作りは現在の日本の最先端の流行でありつつ、1億年前の伝統に連なっている。Kさんの遺骨はKさんの作った怪獣で、どこから見てもグロテスクなものだが、それは恐竜がそうであったということになる。だが、当然恐竜は恐竜なりに美しかったはずで、人間の思う美にもグロテスクさは必然的に入り込む。グロテスクだらけに見えてそこに真実の美が宿りもし、皮相的な美しさだけにこだわることこそ、グロテスクだという逆転もあることを知るべきだ。Kさんとはそのような芸術論にはならなかったが、なったとしてもたぶん以上に書いたようなことで意見が一致しただろう。今日の3枚の写真は大平さんには無断で載せるが、余談を書いておくと、2枚の拡張子がJPEGになっていて、筆者の画像加工ソフトでは開くことが出来なかった。拡張子をJPGにすればいいだけのことだが、画像ファイルの拡張子を表示させることから始め、JPGにようやく直した後、画像加工ソフトに取り込むと、どういうわけか認識しない。それどころか、画像加工ソフトが壊れたようで、にっちもさっちも行かなくなった。パソコンの電源を一旦落とし、再起動し、それからさらに何度も試した後、別の画像加工ソフトで取り込んで処理をようやく済ました。そのように、載せるのにかなり手こずった画像だが、Kさんが試行錯誤して製作することはもっと大変であった。そうして作った怪獣の写真であるだけに、筆者が簡単にこのブログに載せるために寸法などを加工することを拒否したに違いない。余談ついで書くと、2年前にKさんとの会話の中に、拡張子に関することがあった。筆者はTIF画像にするのは難儀と話すと、Kさんはファイルが大きい場合は拡張子をJPGに変えても印刷には問題ないと教えてくれた。それで東京から戻った筆者はTIFとして画像をすべてJPGに直したが、Kさんの言葉どおりに問題は生じなかった。そのことを思い出しながら、先ほどようやく加工を済ませた。3枚目に写るKさんの笑顔は筆者が会った時と同じだ。それが筆者の記憶にある一期一会のKさんだ。
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by uuuzen | 2018-01-03 23:59 | ●新・嵐山だより


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