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●『オランダ絵画の黄金時代 アムステルダム国立美術館展』
1月8日に兵庫県立美術館で見た。今頃になって感想を書くのは、記憶もうすれていてまずいが、逆に言えば鮮明に残っていることだけ書けばいいので、かえってよいかもしれない。この展覧会はアムステルダム国立美術館展の大規模な改装工事に合わせて世界を巡回中で、日本ではこの美術館だけの開催だ。



●『オランダ絵画の黄金時代 アムステルダム国立美術館展』_d0053294_15483560.jpgチラシには当初1月4日は休館と印刷されたが、客の入りがよくなかったのか、特別に開館が決まり、しかも先着500名だったか、記念品がもらえたようだ。訪れたのが日曜日であったせいか、かなり混雑していた。チラシにはフェルメールの「恋文」が大きく印刷され、これを目玉として客集めを図ったようだが、ほかにも見応えある作品は多く、期待を裏切らなかった。世界に30数点しか存在しないフェルメールの油彩画もこの30年で日本には半分以上がやって来たのではないだろうか。今まで買った図録を確認すれば、どのくらいやって来たかがわかる。だが、今回は買わなかった。展覧会図録は年々分厚く豪華になり、収納に困るようになって来ているのは考えもので、もう少し同じ内容にしつつ、コンパクトな体裁にならないかと思う。10代半ば、つまりもう40年前から展覧会図録を買って来ている者からすれば、図録の豪華さと日本の金持ちぶりが完全に比例して進行して来たのがよく実感出来るが、もしこの図録がまた薄手のものになって行くと、それは日本の経済的没落を示していることになるはずで、そんな時が今後やって来るのかどうか注視したい。歴史には波があるし、今の日本の繁栄も200年や300年経つとがらりと変化しているであろう。そんな時代になって現在の展覧会図録を見ると、時代性が濃厚に刻印されていることに人々は気づくだろう。そして、分厚くて豪華な図録が骨董品的扱いを受けて人々の収集の対象になっていないとも限らない。こんなことを思うのは、この展覧会のチラシの裏面に「…オランダ黄金時代の精華を一堂に」と書かれていて、オランダの黄金時代はすでに遠い過去のものであるとする、定まった認識を見るからだ。栄光は過去のもので、それを示す名画を今こうして世界に巡回して見せるというのは、何だかちょっと哀れなところもある。
 だが、これも逆に考えれば、黄金時代にこうした名画がたくさんオランダ国内で生まれただけでもたいしたものだ。今の日本の世界における経済的突出ぶりはすなわち日本の黄金時代と思ってよいはずだが、さて、2、300年後にこれに似た展覧会を開催して、世界に対して立派な芸術と認めてもらえるようなものを生み出しているのかどうかはなはだ疑問だ。むしろ世界中からの物笑いの種になっていないとも限らない。つまり、「日本は金儲けはうまかったが、それを芸術に還元することはなかった」という見方だ。いや、実際に今のままではそう思われるしかない。オランダがとても商売上手で、17から19世紀までの200年間、東インド会社は世界最大の貿易企業であったことは、上田秋成もよく知っていた。しかもそのことを欲が深いといった表現で書いているが、資源のない小さな面積の国であるから、海外に積極的に出て商売をするしかなかったと見ることも出来る。その点は日本もほとんど同じだ。それで半島や大陸に侵略して行ったと言えるが、かつてよく言われた「エコノミック・アニマル」という日本に対する侮蔑語は、上田秋成がオランダを罵ったことと共通して、とかく金儲けがうまい国は周りから反感を買う。だが、金持ち国が永遠に続くことは絶対にあり得ず、数百年間しか黄金時代は続かない。その時代の間に何をするかがその後の低成長時代の国の命運を分けるが、世界から最も尊敬されるのは、結局のところ芸術遺産が多いということではないだろうか。だが、残念なことに、これはどこの国でも共通することかどうか知らないが、金儲けしか興味のない連中は大抵は芸術に関心がない。しかし、芸術遺産があればその後1000年や2000年はそれで国が尊敬されながらも食って行けるということをもっと知るべきだろう。会場に入ってすぐ、40代とおぼしき夫婦がアムステルダム国立美術館のパネル写真の前で語っていた。「わー、同じよねー、わたしたちが行った時もこんなだった」。このように、芸術遺産目的に外国を訪れる人は少なくない。そして、世界に誇る芸術作品は、ある程度国が世界に対して情報を発信して売り込みを図る必要がある。日本ではこうした外国の展覧会は頻繁に開かれるが、その逆に日本の芸術がどれほど海外で開催されているか、何ともこころもとない話だ。
 展示は8つに分けられていた。1「画家とその世界」、2「画家とその世界:静物画と工芸」、3「都市」、4「風景:旅する芸術家」、5「レンブラントとハルス」、6「共和国の門閥市民と貴族」、7「共和国とオランダ領東インド」、8「風俗画」で、全部で作品は93点だった。以下順に見て行く。まずセクション1。17世紀のオランダでは多くの画家が特定のジャンルに専念し、同業組合を組織していた。芸術家、職人、家屋塗装職人などはみな同じ組合に属し、不景気の時に保証が受けられるようにした。そして、フランス・ハルスやレンブラントといった有名画家は例外として、都市外から注文を受けることは許されなかった。「保険」というものは船乗りたちの間から生み出されたものだが、何らかの危険を見越して毎月組合員がお金を積立てるという考えは、17世紀のオランダできわめて強かったのであろう。元気で仕事出来ている時や注文がある時はいいが、そうでなくなった場合たちまち食うに困るというのでは安心して仕事が出来ない。そのためギルドを設けて仲間組織の力に頼るという発想はどこの国にもある。だが、レンブラントの晩年は浪費の問題もあるにしても、経済的には悲惨なもので、有名画家であっても最期はどんな貧困の中で死ぬかもわからない。そこに芸術家としての典型的な、そして期待され得る悲劇の姿があるが、このことを実際によく考えれば、子どもを間違っても芸術家なんかに育ててはならないはずだが、それでも若い母親は子どもを稽古事に熱心に通わせたりする。芸術行為の本当の凄味を何ら理解していない無邪気な姿と言えばそれまでだが、概して超有名な芸術家は悲劇的な晩年を迎えるもので、それをよく知っておいた方がよい。そして、組合に頼るという生き方は大芸術家とは相反するもので、保証など何もなく、一歩間違えば餓死という危機状態に身を置くことも厭わない無茶な勇気がなくては、真の名作など生まれ得ない。セクション1でまず印象に残ったのは、ワレラント・ファイラント(1623-77)が描く「花の画家、マリア・フォン・オーステルウェイクの肖像」(1671)だ。肖像画家のファイラントが、花の画家オーステルウェイク(1630-93)を描いているのだが、当時は写真がなかったから、肖像画家にはこうした注文がたくさんあった。オーステルウェイクは女性で、ハプスブルク家皇家やフランス国王ルイ14世、総督ウィレム3世など各国にパトロンがあった。これは彼女にそれなりの美貌があり、また社交性や商才を持ち合わせていたためであろう。現在でも同じだが、画家としての技術よりかは、どれだけ人脈を作れるかが有名になる秘訣だ。有名芸大卒業といった誰しも信用する経歴や、どこそこの教授といった肩書がなければ、人々はまずその人の作品を評価はせず、天才的技術を仮に持っていても、そうとは絶対に見られないものなのだ。次にアドリアーン・ファン・オスターデ(1610-85)の「画家のアトリエ」(1670-75)は、ふたりの弟子が絵具を調整しているところも描かれていて、徒弟制度の様子がよくわかって興味深い。チューブ入り絵具がまだ売られていない時代のことであるから、画家は絵具作りからしなければならなかった。だが、それがかえって独自の色合いを生んだとも言える。ヤーコプ・バッケル(1608-51)の「アムステルダムの銀細工師、ヨハネス・トルマの肖像」(1660-72)もトルマから描いてほしいと依頼を受けたのであろう。トルマ(1584/5-1669)は当時アルステルダム一番の才能で、絵に描かれている銀製の塩入れは彼の最高傑作とされ、今回はその実物も展示された。
 セクション2は、ヴァニタス(虚栄)と言う寓意的な静物画を紹介していた。花や果物、銀器やグラス、織物などが質感豊かに描かれる。今なら写真ですぐに同じようなものが出来そうな気もするが、油絵ではいくつかの時間の同居が可能であるので、写真のような一瞬のはかなさとは違う、もっと重厚かつ永遠の時間の凍結と言ってよい印象をかもす。人生のはかなさを表現するには、本当は写真の方が得意かもしれないが、絵画であれば、巧みに選んだ画材を非現実的な配置で描くことが可能であるし、より幻想性を持たせることが出来る。ピーテル・クラースゾーン(1597/8-1660)の「「とげを抜く少年」のあるヴァニタス」(「人生のはかなさ」の寓意)(1628)は、ドクロや骨、パレット、鎧、スケッチ帖、ヴァイオリン、リュート、笛、椅子などが、ヴァチカン・コレクションの石膏模型である「とげを抜く少年」と一緒に描かれている。これら描かれるモノには寓意が込められているので、それを共通してわかっていた時代はいいが、その意味を理解しにくくなっている現在では、解説を読まなければ絵の深い意味はわからない。アルベルト・ヤンスゾーン・ファン・デル・スホール(1603-72)の「ヴァニタス(テーブルの上の頭蓋骨)」(1660)は、6つの頭蓋骨を異なる角度で描いているだけで、まだヴァニタスの意味はストレートにわかる。ラヘル・ライス(1664-1750)の「大理石の卓上の花のある静物」(1716)もなかなかの技量を示していた。ラヘルも女性で、少なくとも11名の同時代の詩人が彼女に詩を捧げているというから、よほどの才女であった。国際的な顧客があって、一時デュッセルドルフで宮廷画家も勤めている。アブラハム・ミニョン(1660-79)は、『冬のソナタ』の主人公と同じ名前で印象的だったが、「傾いた花束」(1660-79)は、変な顔をした猫が花を活けた大きな花瓶を倒しつつあって、花瓶からは水がこぼれている。猫の反対側の隅にはネズミ捕り器もあって、どんな寓意か知らないが、シュルレアリスティックな絵できわめて現代的な感じがした。
 セクション3「都市」。ほとんど田園地帯であったヨーロッパにおいてオランダ共和国、特にホラント州は都市化の水準で際立っていた。プロテスタントの商人の多くは虚栄を張ることはなかったが、次第に外観重視に至る。これは経済状態が極端によくなれば当然の成り行きだろう。ヤン・ファン・デル・ヘイデン(1637-1712)の「跳ね橋」(1660-72)は、想像上の新しい都市景観を描いている。ヘイデンは1667年に新種の街路照明を考案し、このことでアルステルダムは世界で一番鮮やかに照らし出される都市になった。彼は数年後にホース式の消防車の特許も得ている。ハブリエル・メツー(1629-67)の「鰊を売る女」(1661-62)は、風俗画としてもとても面白く、19世紀のフランス絵画を先取りした趣がある。アルステルダムの貴族の多くはニシンの貿易で富を得ていた。オランダ経済は漁業に依存する割合が高かったのだ。セクション4「風景-旅する芸術家」はイタリアとの関係に焦点が当てられた。17世紀以前のフランドル絵画に見られるように、風景は主に想像上の背景を描く着想源として考えられていたが、ハールレムの画家たちは自分たちの周囲に風景を発見し、景色がますます具体的、写実的に描かれ、水と空が大きな場所を占めるようになった。また、カトリック信者を多く抱えるユトレヒトからは、イタリアの理想化された風景を描く親イタリア派が出た。一方、1605から1620年までに多くの画家がカラヴァッジオの魅力の虜になって、ユトレヒト・カラヴァッジオ派を形成した。これらのユトレヒトの画家たちは、イタリアを訪れたことのないハルスやレンブラントにも影響を与えた。ヤン・ポト(1615-52)の「ポンテ・ルカノのあるイタリア風景」(1640-52)はローマ近郊のティボリでスケッチした建物が描かれ、反対に親イタリアの第2世代を代表するルコラーヌ・ベルヘム(1620-83)の「浅瀬をわたる牛の群れ」(1656)はイタリアでは見られない北方的要素の針葉樹が描かれて面白い。バウルヌ・モレールス(1571-1638)の「鏡の前む娘」(1632)は、カラヴァッジオ風の人物を描いていた。
 かなり書いているので先を急ぐ。セクション5「レンブラントとハルス」。先の文章からもわかるように、オランダは宗教的に寛容であった。公的文書ではカルヴァン派が唯一正当なキリスト教となっていたが、1672年の時点で、人口の3分の1がカトリック、3分の1がカルヴァン派、残りはユダヤ教か主義の異なるプロテスタントであった。レンブラントとハルスの作品に関してはここでは述べないでおく。レンブラント様式を生涯にわたって忠実に守ったアールト・デ・ヘルデル(1645-1727)の「ダビデ王」(1680)は、レンブラントほどの重みは感じられない代わりに、新しい時代をどことなく伝えていた。1650年代以降、レンブラント様式は時代遅れになっていたが、ヘルデルはそれに頓着しなかった。エマニュエル・デ・ウィッテ(1616/18-1692)の「アルステルダムにあるポルトガルのユダヤ教会の内部」(1680)は、ユダヤ教会奉献の5年後に描かれたもので、この教会は当時世界一の規模を誇った。アムステルダムは17世紀末には1万人近いユダヤ人が住み、西ヨーロッパ最大のユダヤ人社会となっていた。セクション6「共和国の門閥市民と貴族」。ここでもハルスの作品は2点展示されたが、他には印象に残る作品はなかった。1689年にイングランドの王と女王になるオランダの総督ウィレム(ウィリアム)3世とメアリー・スチュアートは熱心な芸術愛好家で、イギリスとオランダにいくつもの宮殿を建て、装飾を施した。ウィレムは狩猟絵画に熱を上げ、メアリーは当時未曾有の活況を呈していたデルフト陶器を収集した。そんな事情をよく説明する絵画が来ていた。セクション7「共和国とオランダ領東インド」は、1602年に設立されたオランダ東インド会社に焦点を当てていた。アムステルダムの倉庫には紅海から日本までと取り引きした品物が溢れ返っていたが、そんな背景があったからこそ、セクション2のヴァニタスの絵画もよく理解出来る。1640年代、中国における政情不安によって極東からヨーロッパへの磁器の供給が激減したが、デルフト陶器は中国風のファイアンス焼きの生産に集中し、漢字もどきの装飾をした異国風デザインが多く生まれた。今回はファイアンス焼きの燭台や鬘立てが来ていた。このセクションで最も印象に強かったのは、ヤーコプ・ヤンスゾーン・クーマン(1676没)の「ピーテル・クルノー一家の肖像」(1665)だ。ピーテルは東インド諸島の首都バタヴィアにおける上流階級の一員で、出世してアジアの会計全体を管理する責務を負う上級商務員になった。妻は東インド会社商務員と日本人現地妻との間に日本で生まれ、この絵でははっきりそれがわかるような顔に描かれていた。貿易であらゆる品物が海をわたったが、血もまた混ざったわけだ。セクション8「風俗画」にはレンブラントを初め、有名なヤン・ステーン、ピーテル・デ・ホーホ、そして最後の最後にフェルメールの「恋文」があった。やはり実物は印刷では再現しようのない微妙な色合いが豊かで、それをしっかり記憶して外に出た。
by uuuzen | 2006-02-03 15:49 | ●展覧会SOON評SO ON
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