旬の音楽というものがある。主に若い人が聴く。古い人は古い流行歌の方がいいと思う。たまに奇抜な感じの大人が若者に混じって新しい流行化を楽しむが、何となく見ていて痛々しい。
そう思うのは筆者がそういう奇抜な大人以上に古い人間であるからだろう。筆者がビートルズを聴き始め中1の頃は、大人でも若い部類に入る人はプレスリーに熱狂していた。あるいは自分が賢いことを自認していた大人はジャズを聴いていた。クラシックは学校で聴くか、家のラジオで鳴っていた。一方、歌謡曲は当然大人気で、ラジオやTVでは毎日のように鳴っていたから、ラジオでしか流れない洋楽が希少価値があるように思えた。いつの時代でも、いつでも手が届くものをあまりありがたがらない。洋楽に接する機会がラジオだけであったのは、その演奏者が外国にいて、まだ来日してTVに出演することが珍しかったからだ。それで日本の歌手が日本で洋楽を歌い、それも歌謡曲と同じほどヒットした。つまり流行歌になった。当時有名になった歌手は今でもたまにTVに出演する。洋楽のミュージシャンが来日しなくてもその演奏する姿が簡単に見られるようになったのは1980年代に入ってMTVが流行し始めた時で、海外で撮影された映像が輸入されて日本のTVで放送去れることが増えた。その流れがYOUTUBEにつながり、日本ではリアルタイムではTVなどで鑑賞出来なかったミュージシャンが演奏する映像が簡単かつ大量に見られるようになった。めでたしめでたしといったところで、先日投稿した『ザ・ビートルズ 1』のDVDは映像つきでビートルズの歴史を初期から末期までをコンパクトにまとめた。ビートルズは昔の洋楽の流行歌だが、日本で紹介された途端、毎日のようにラジオで放送されたので、家にラジオしかなかったわが家では、筆者がその音楽を知ることは能動的であったとは言えない。いや、聞き耳を立てたところは能動的だ。ラジオで毎日聴いても、関心がなければ耳を素通りする。これは音楽に限らない。それどころか、人間はほとんどのことを受け流して生きている。そうでなければ病気になる。関心を持ち、さらに積極的になる対象はごく一部で、それが生き甲斐になるのはさらにごく一部で、人間は年齢を重ねるにつれて関心を持つ対象を少なくして行く。そのため、目下流行している曲に関心がないのはごく当然で、またもともとあまり興味のない音楽以外のジャンルの芸術はさらにどうでもよくなる。一方、古くから関心があることの中でも最も関心のあることには、本質がさらに見えて来たと思うようになる。あるいはそう錯覚する。そして、その本質に照らして今の流行はやはりつまらないと思いもする。そのことを若者は新しいことに反応出来ない老人の悲しみと侮蔑の眼差しを向けるが、老人は若い奴に本質はわからないと内心同じように侮蔑する。
旬のものが何でもいいとは限らない。旬のものは実験で、すぐに廃れるものが多い。あれほど騒がれたのに、さっぱり耳にしなくなったというものは誰しもいくつか気づく。流行歌もそれを歌う歌手もそうだ。10年近く前、筆者はある音楽関係者にビートルズが今の若者に聴かれることを不思議だと言った。昔の流行歌であるからで、今の若者は今の流行歌を聴くのが本道と思ったからだ。その考えは今もあるが、TVを見ていると、筆者が全く知らない日本の若いミュージシャンが大勢いて、みんな昔のビートルズ並みかそれ以上の観客の前で歌っている。その様子を筆者は、「あの曲のどこがいいのかわからない」といつも家内に言うが、彼らの中にビートルズも同じように聴く者がどれほどいるのかとも思う。そして、またビートルズを熱心に聴く今の若者のことを不思議に思う。通過として聴くのであれば理解は出来るが、古い流行歌に心酔し、ほかの音楽を聴かないのは、ビートルズを聴いて来た筆者には理解出来ず、そしてそういう若者はビートルズが日本に紹介された時は聞き耳を立てないどころか、けなした連中に思える。ザッパはラジオから流れる音楽を重視しなかったが、50年代のアメリカでラジオから流れる音楽からどのような影響を受けたかは、R&B以外にはほとんど語られない。おそらく日本のラジオと同じで、流行歌が大多数を占めていたのだろう。それでレコード店で聴いたヴァレーズが新鮮に思えた。今はネットがあるので、その気さえあればあらゆる音楽に触れることが出来ると言ってよいが、前述のようによほど耳を澄まして心を鋭敏にしなければ、ただ聞こえているだけで聴くことはない。つまり、今も昔も何ら変わりがなく、必要とする人だけが必要とするものを手に入れる。これはいつか人間が滅びる寸前でも同じで、心の目や耳を存分に開かない限り、感動は得られない。前置きは以上で、ここから本題。今年最後の投稿を1か月ほど前から今日取り上げるアルバム『BACK TUVA FUTURE』と決めていた。大相撲のニュースでかまびすしいからだ。それに今夜は朝青龍が一般人と相撲を取るとかで、それにかこつけることも出来ると思った。ザッパの最後のアルバムとしてよい2015年に発売された『ダンス・ミー・ジス』は、シンクラヴィアというコンピュータ鍵盤楽器とホーメイの歌声のフュージョンで、サイボーグのための音楽に聞こえるが、同じ年にヤマハから出版されたザッパの全ディスク・ガイド本で筆者は同アルバムについてかなり詳しく書いた。同アルバムの日本盤が発売されなかったためでもある。また、同アルバムに限らず、ザッパ没後の新しいアルバムについては多くの文字を費やしたが、それは筆者なりの新しいものを歓迎するミーハー的な性質による。ザッパの音楽はビートルズと同じほどに古いが、一方で今なお未発表音源が発売され続けているので、最新の流行歌の側面もある。その点はビートルズとは違う。
『ダンス・ミー・ジス』の評価はあまり高くないようだが、それは機械のイメージが生身の人間よりも勝っているからだろう。他のアルバムに比べて人間味に乏しいという印象は確かにあるが、曲を作ったのは生身の人間だ。それはともかく、同アルバムの最大の聴き物はやはり生身の声で、ザッパはホーメイの歌声で自分のスタジオで録音出来たことによって、同アルバムを一段どころか、数段味わい深いものにすることが出来た。ザッパにとって最後の僥倖がホーメイであった。その歌手は3人で、そのうちのコンガー-オル・オンダーがリーダーで、62年生まれで2013年に死んだ。オンダーがザッパのスタジオで歌う様子はBBCが作ったドキュメンタリー作品に含まれるが、その映像の商品化が今後あるのかないのかわからない。YOUTUBEで見られるので、そのままでは商品化しても売れないだろう。オンダーの歌声を収めたCDは確かリチャード・ファインマンのサイトで購入出来るはずだが、ここ2年はそれを確認していない。ファインマンに関しては前述の本に書いたのでここでは繰り返さないが、オンダーの生まれ故郷が発行していた形の変わった切手への強い関心がやがてオンダーをザッパに引き合わせることにつながった。オンダーの故郷はモンゴルの北に接する小さなトゥヴァとい国で、ここはモンゴルやソ連、中国に囲まれて、文化が混じり合って来た。シルクロードに関心のある人は、キジルという古い町の名前を知っているはずだが、そのキジルがトゥヴァの首都になっている。筆者はキジルと聞くと、MIHO MUSEUMで常設展示されているラスター彩の陶器皿の絵つけを思い出す。そこには特徴のある丸顔の人物が何人も描かれているが、筆者はその表情が大好きだ。そして、その顔からいつも村上華岳の名作「裸婦図」や数多く描いた仏画の顔を連想する。キジルの人物図の面相がシルクロードの東の端である日本に伝わったとしても何の不思議もない。オンダーはキジル西方150キロほどの、同じエニセイ川付近の村チャダンで生まれたが、キジルとは違ってそこは今でも大昔とほとんど変わらないだろう。ついでに書いておくと、シルクロードで有名なクチャはキジル南西1000キロほどにあって、こっちは中国領だ。キジルへ旅行するのはよほどのシルクロード好きと思うが、ファインマンはそこを訪れた。今ではグーグルのストリート・ヴューで道路沿いからの眺めはよくわかる。誰もが予想するとおりの平原の地で、モンゴルに抱くイメージと変わらない。モンゴルの一部であったこともあるはずで、それはオンダーの正装からもわかる。オンダーは歌手として国民的英雄のようで、菱型の切手の図案に姿が採用され、その切手が『バック・トゥヴァ・フューチャー』のジャケットになっている。今日の4枚の風景写真はグーグルのストリート・ヴューから適当に取ったが、3枚目はキジル市内のスヴェト=トロイツキー・プレヴォスラヴニ・フラムという教会で、これはロシア正教のもので、再建されたのだろう。4枚目もキジルで、左にエニセイ川が見える。ジーンズを履いた女性は先の陶器の絵つけのように顔が丸い。また横の大きな看板に写る男性は、オンダーの正装と同じ格好をしている。5枚目はオンダーが生まれた村で、中央の細い電信柱から電気が通じていることがわかる。
このアルバムは映画の題名をもじったことからわかるように、いかにもアメリカのコマーシャリズムの産物と言ってよい。だが、なかなか心地よく、一度聴くと病みつきになる。2枚目の画像に赤線で記した箇所は、オンダーがザッパと録音したことに言及している。アメリカではそれが初めてのことだ。本作は1999年、大手のワーナーからの発売で、当時かなり売れた。それはゲスト・ミュージシャンにウィリー・ネルソンを迎えたこともあるだろう。だが彼は1曲のみの登場で、オンダーの語りを英訳して少し遅れて言葉を重ねる。ネルソンの声は独特で一度聴けばすぐに覚えるが、オンダーよりも彼の声を目当てに本作を買ったカントリー・ミュージックのファンが多かったのではないか。プロデュースはデイヴィッド・ホフナーという音楽家で、多くのミュージシャと仕事をして来たが、初期はアメリカのカントリー・ミュージックの畑で活躍した。それで本作にネルソンを登場させることを思いついたのだろう。一方、トゥヴァの平原はアメリカのそれにだぶり、オンダーのホーメイをアメリカ人は歓迎すると考えたに違いない。もっとも、ザッパがオンダーを使って7年前に録音していたし、ファインマンの尽力によってオンダーの存在はアメリカでは一部にしろ、知られていた。そのためホフナーが目をつけたのは遅過ぎると言ってよく、オンダーは本作の4年後に世を去る。本作の録音方法についてはリーフレットに記されていないようだが、おそらくオンダーらの演奏を先に録音し、その後にホフナーがエレクトリックの楽器によって音を重ねた。つまり、トゥヴァの民族音楽にアメリカの最新の流行歌風の味つけがなされている。今日の題名は10曲目から引用するが、その最後に小さな文字で「このアルバムでファインマンとナッシュヴィルの作曲家デイヴィッド・ホフナーがアメリカの音楽を進展させるために古代の歌唱の伝承をHARNESSする」とある。HARNESSは馬具の意味で、本作はアメリカ音楽で、ホーメイは馬具飾りという扱いだ。曲名に合わせた表現で、またザッパの『ダンス・ミー・ジス』のいわばカントリー音楽版という捉え方だ。そのことが純粋な伝統を汚す行為と感じる人もあると思うが、アメリカで人気を得るにはアメリカ人に受け入れられやすい音作りが必要だ。本作はその考えによってプロデュースされている。ザッパはアメリカのカントリー・ミュージックを嫌ったので、本作を聴いて「何を今さら」、あるいは「考えが安易で古い」と言ったと思うが、『ダンス・ミー・ジス』よりもアコースティックの度合いは高く、聴いていて疲れない。そしてザッパの同アルバムと比べることで、アメリカの20世紀終わりの音楽の幅の広さがわかる。ザッパは同じオンダーのホーメイを使いながら、100年先を見越したような凝った造形をものにし、本作はトゥヴァが少しずつアメリカナイズされていることを匂わせる。それを汚染と呼ぶか、文明開化と歓迎するかは、トゥヴァの人たちが考えることだが、古くから文化が混じり合って来たこの地域を思うと、本作がアメリカではなくトゥヴァが製作してもよかった。またそれほどにオンダーの歌や演奏は強烈で、ホフナーの伴奏の味つけはほとんど気にならない。ザッパのアルバムでもオンダーのホーメイは圧巻だが、本作ではどの曲においても人間技とは思えない声を発し続ける。それが長い歴史を持ったものであることをザッパはよく知っていた。モンゴルにもホーメイがあるはずだが、より僻地のトゥヴァに素朴なものが伝わっているのかもしれない。あるいはオンダーがアメリカで有名になったのは、トゥヴァですらもはやホーメイの名手は珍しいか。形を変えずに伝統を続けることが可能なのかどうか。伝統は時代に合わせて変化させて行くものという考えは京都でも強い。伝統も旬のものだ。