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●『東大寺公慶上人』
副題は「江戸時代の大仏復興と奈良」。最終日の1月15日に奈良国立博物館で見た。『金沢文庫の名宝』との併催だが、これはふたつの出品でちょうど会場が埋まるという理由が大きいだろうが、そんな物理的事情だけでもない。



●『東大寺公慶上人』_d0053294_1558450.jpg『金沢文庫の名宝』の続けてこの展示があったことには多少の歴史的な連なりの意味も含まれている。違う会期で別々に開催されてもよかったようなものでも、ふたつ同時に見ると、それなりに天平時代から江戸に至る奈良の大仏の命運がよくわかるからだ。東大寺の大仏は8世紀に鋳造されたが、鎌倉時代の1180年に平氏が民家に火を放ったことが原因で類焼し、その23年後に再建された。にもかかわらず、また室町時代の1567年に兵火で消失し、現在見られるような姿に復興されたのは120年経った江戸時代の元禄元年の1688年のことだ。これは完全に融けてしまった大仏を一から再建したのではなく、部分的に残っているものを利用して修復したのだ。現在、天平時代の部分は台座や大仏の胸から下の半分程度に、鎌倉時代の部分は大仏の背面最下部にわずかに残るにとどまり、顔も含めた上半身は全部元禄時代のものだ。当然大仏殿も元禄時代のものであるので、奈良の象徴である大仏の実際の歴史はまだ300年少々ということになる。東大寺の隣りの興福寺も東大寺と同じように消失しているから、東大寺付近が天平時代の空気をそのまま伝えているとするのはちょっと早合点な気もするが、同じ場所に同じように再建すれば、それは以前のたたずまいをかなり伝えていることになり、天平時代の雰囲気も随所に残されているのは確かだ。だが、何でも再建する際は種々の理由から過去のものと全く同じものが出来ることはない。大抵は規模が縮小されたり、また造作が雑であったりもする。奈良の大仏の場合、天平時代の設計図が残っていないこともあって、想像でイメージを補って再建することも迫られた。したがって、正倉院宝物のようにそっくりそのまま天平時代のものであるのとは違い、大仏にはあたかも地層のように、天平から江戸に至る重層化した事情が見られることになる。
 『金沢文庫の名宝』では鎌倉武士の力を認識させてくれたが、それをよく伝えてくれるのが鎌倉時代の大仏再建だ。手元の『週刊朝日百科「日本の歴史」』にはこんな下りがある。「興福寺が藤原氏によって再建されたのに対し、東大寺は国家的事業として再建されることになった。再建に当たっては、費用を広く一般信者から集める勧進の方法がとられ、事業を統轄する勧進職には民間僧重源が起用された。また大仏が鋳造され、平家が滅んで五か月後の文治元年(1185)8月には、後白河法皇を迎えて大仏開眼供養が行われた。諸国から参集した群衆は、「幾万億を知らず」といわれるほどであった。次に大仏殿の建立である…」。また別の箇所には、「…歌人として名高い西行が東国に赴いたのも、東大寺再建の勧進のためであったと言われている。まだ政治的に安定を得ていない頼朝でさえ、文治元年、平氏追悼の範頼軍が西国で飢餓に苦しみ、鎌倉に救援を訴えるというような時期に、東大寺再建のために1万石の米、砂金千両、上絹千疋を奉納した。着工以来早くも5年目の1185年、まだ塗金を終わっていない大仏の開眼供養が、後白河法皇によって行われた。その後、1190年に大仏殿の上棟式が行われ、5年後にその落慶法要が取り行われたが、この時には、将軍源頼朝が数万の軍兵を従えて西上し、威容をととのえて法要に参列した…」とある。天平時代の大仏の鋳造に関する当時の記述は何も伝わっていないが、用いられた物資の途方もない多さからしても、莫大な資金と技術の粋を結集して造られたものであった。これは支配階級が動かなければどうにもならないもので、鎌倉時代の再建も武士の力が大きい時代であったからこそだ。この時代に再建された東大寺で現在に残るのは南大門や金剛力像などがあるが、今回の展覧会では江戸時代の再々建になった大仏と大仏殿に焦点を当てていた。その様子は勧進や工程など、前述した鎌倉時代の再建時の様子とほぼ同じで、重源が公慶に変わっただけと考えてよい。重源は民間僧ということだが、復興事業が完全に終わった3年後に東大寺で86歳で亡くなり、木像が東大寺に安置されている。
 次にこの展覧会のチラシ裏面から引用する。「…大仏頭部も溶けてしまいました。そののち両手や肩などは修復されますが、木製銅板貼りの仮の頭部を付けた大仏は、大仏殿がない状態で百年以上を歳月を過ごしました。…公慶上人はは勧進帳を作って諸国を歩き、大仏復興を成し遂げます。続いて大仏殿の再建に着手しますが、その完成を見ることなく、宝永2年(1705)に58歳で亡くなりました。…公慶上人の名はほとんど知られていません。…」。なぜ公慶の名があまり知られていないのかわからないが、これはうがった見方をすれば、現在の大仏や大仏殿が天平時代のままではなく、300年前のものであることをあまり大きく言いたくないからかもしれない。しかし、公慶がいなければ奈良に大仏がなく、現在のように観光客も訪れることはなかったはずで、奈良や東大寺はもっと公慶を讃えるべきだろう。そのためもあってこの没後300年展の開催だ。展示は、1「大仏殿炎上」、2「公慶上人」、3「江戸時代の奈良」の3部構成で、2はさらに「学僧公慶」、「大仏修復勧進」、「大仏殿再建勧進」の3つに分かれていた。まず「大仏殿炎上」だが、1576年10月10日に松永久秀が大仏殿に布陣していた三好勢に夜討ちをかけたことで炎上し、大仏の頭が焼け落ちた。その後織田信長らの有力武将が積極的に復興協力し、一方で山辺郡山田城主の山田道安は大仏の頭を銅板で作って仮堂を設けた。この仮堂は大風で倒壊してしまい、その後100年以上も雨晒しのままになった。だが、この道安が作った頭部の表情はそのまま元禄時代の復興時に模倣された。これはそれ以前ノ顔がどのようなものであったかが誰にもわからず、取りあえず目前にある道安作のものがよいとするしかなかったからかもしれないが、今回出品されていた道安筆の水墨掛軸「白鷺図」を見ると、武人画家道安の技量の一端がわかり、この人物の手になるならば問題はないと思えるものであった。また、鎌倉時代の再建では当然宋の影響を強く受けた面相として仕上がったであろうし、誰にも天平時代の大仏の顔が再現出来ないとなれば、道安のものを用いるしか方法もなかったと言える。「東大寺記録写」は、大仏殿炎上やその後の東大寺の衆徒や群議など、炎上前後の記録を写したものだが、原本を書いた浄実は公慶上人以前の東大寺復興の中心人物で、公慶もこうした先人の行動があった中で出現した来たことがわかる。東大寺文書の「信長朱印状」は、信長が1572年6月に山城阿弥陀寺の清玉上人に出したもので、大仏殿再建費用を調達するため、信長の分国中すべての人々から毎月1文ずつ勧進することを命じている。武士の鶴の一声でお金が集まる様子がうかがえる文書だが、それほどに大仏が当時の人々に広く知れわたった存在で、早い再建が望まれたことがわかる。
 第2部「公慶上人」の1「学僧公慶」の展示で面白かったのは、「二月堂牛玉誓詞」だ。これは二月堂の牛玉を貼った料紙に牛玉の製作枚数を制限することを誓う文言を記した巻物で、二月堂修二会の練行衆になった僧が署名する。何とこの制作年代は、1472年から2005年までと表記されていた。つまり530年もずっと書き続けられて来ている。19歳の時の公慶の名前がよく見えるようにその部分を中心に広げられていたが、「公」の字に癖があり、「ハ」の間に「ム」の頂部がかなり食い込んだ書体が印象的であった。次の2「大仏修復勧進」で目を引いたのは「京大絵図」だ。これは木版画を何枚も上下に継いで1枚の地図にしたもので、畳2枚分ほどの大きさがあったと思うが、現在の京都市内の中京区を中心にその道筋を克明に描いてあった。現在の市内周辺、たとえば岩倉や嵐山、桂といった地域は、デフォルメされてわずかな面積のみ割り当てられてほとんど略画と言ってよい。この地図上に公慶が托鉢して歩いた道が赤く塗られていて、それは地図上の京都中心部全域に及んでいる。京都の市中は狭いとはいえ、これだけを隈なく托鉢して歩くとなれば早くて10日は要するだろう。この地図をそのまま原寸大で復刻して販売すればきっとかなり売れると思うが、それほどに見れば見るほど興味深いものだ。京都市内をよく知る人は、17世紀半ばの京都がどのような町筋でどのような建物が建っていたかがわかって楽しめる。公慶はまた江戸には18回も勧進で訪れていて、きっと「京大絵図」と同じような歩いた道を記した江戸の地図もあったことであろう。「大仏殿釿始千僧供養私記」は1688年4月2日から8日までの大仏殿の釿始を記した文書で、各地から3500人の大工と1000人の僧、参詣人は6万、奉加銭1000両が集まったことが見える。「東大寺大仏開眼供養記」は1692年3月8日から4月8日までの開眼供養の様子を記すが、ここに山田道安が作った銅板の仮の頭部の面容を模したことが出ている。
●『東大寺公慶上人』_d0053294_0234024.gif 第2部の3「大仏殿再建勧進」も興味深かった。説明パネルにはこんなことが書いてあった。『将軍綱吉と生母の桂昌院の支援を受け、幕府の公共事業となってからも資金の調達に苦しみ、大仏殿の規模は最終的に縮小された。また、大仏殿の屋根を支える巨大な虹梁の用木を苦心の末に九州から運び、ようやく最後の山を越えたところで公慶は亡くなり、4年後の1709年に大仏殿は落慶した』。このコーナーで最も印象に残ったのは、チケットにも印刷されている墨絵巻物「大仏殿虹梁木曳図」だ。これは古かん(石へんに間)明誉(1653-1717)の作で、長さが10メートルほどはあったろうか、多数の人物を実に表情軽やかにうまく捉えて描き切っており、当時の公慶の人気、そして大仏殿が完成するまでに人々がどれほどの期待を持っていたかもよくわかる。古かんは浄土宗の僧侶で、その作品は去年の春、滋賀県立美術館で開催された『高田敬輔と小泉斐』で初めて10数点見たが、蕪村そっくりの俳画の趣のある絵に特徴があり、もっと発掘して紹介してほしい絵師だ。奈良に作品が比較的多く残っているとあったが、これは大和郡山に一時住んでいたことによる。前述の滋賀での展覧会でも奈良県立美術館の所蔵品が半分近く占めていた。もし企画展を開催するならば奈良であろう。大仏殿の規模の縮小に関しては、宮大工の堀内家伝来の「東大寺大仏殿指図」という文書の出品があった。これは大仏殿の部材中最大の長さが25メートルの大虹梁を2本九州から運んで木津で水揚げした際の指図で、その用木は日向国で元禄16(1703)年に伐採され、水陸を使用して1年がかりで運んだとある。また、大仏殿は当初桁行11間、梁行7間で再建予定されていたが、結果的に現在のように桁行7間、梁行7間になった。この諸費用の計算書も残っていて、総額99856両1歩と銀10匁2分6厘とあった。これは、当時1両は1石で、大体現在の10万円に相当するようであるから、ざっと1000億円程度に換算されるが、桁行11間ならばさらに増えたから、現在見られる形で妥協したのもやむを得なかったのだろう。今の日本ならもっと簡単にさっさと建ててしまえるはずだが、そんな問題ではない。あくまでも庶民がわずかずつ費用を出し合い、信仰というものに支えられて再建されたことに意義がある。それは先の巻物「大仏殿虹梁木曳図」が端的に示していた。そこに描かれる民衆はみな名のない普通の人々だが、道にひれ伏して公慶を拝む者、材木の巨大さにびっくりして紐で寸法を測ろうとしている者、はしゃぐ子どもたち、そして何より信念を持って着実に一歩ずつ歩んでいる様子が伝わる公慶の姿など、みんなお祭り騒ぎにうかれているように見える一方、確かに自分たちで大仏殿を復興しようという思いがどの顔にもみなぎっていた。それを見ながら思わず涙が出かかったが、元禄時代のまだ仏教信仰がそれなりに生きていた時代に比べて、現在はあまりにそれがなくなった。会場を去る直前、会場内に安置された重要文化材の公慶上人坐像を前にしての法要が取り行なわれ始めた。僧侶が散華をしてくれて、3枚拾えた。裏面には「公慶上人三百年 御遠忌法要」という文字と東大寺の朱印があり、表は「落慶法要を祝う迦陵頻」が印刷されている。展覧会の後、八尾に向かい、それから難波の高島屋で『タイムスリップ大阪万博展』を見たことは先日書いた。それで思ったのは、現代の東大寺大仏は万博の「太陽の塔」であったかもしれないと。だが、それは信仰を基盤にしていない。大仏のように1000年以上も伝えられるだろうか。
by uuuzen | 2006-02-02 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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