ヤクザの語源が893と何かで読んだことがあるが、花札で「かぶ」の遊びをする場合、8,9と引いて、次に3が出れば合計20で、これは零点となるからだ。
つまり、ヤクザは役立たずということだが、何が有益か無益かは人それぞれで、この世に存在するものはみな有益で無益だ。であるから、自分が正義と口にしない方がいい。相手を悪と思っていると、相手も同じことを考えている。それで戦争が起こる。また、相手の立場で物事をよく考えろと言われるが、これがなかなか難しい。それで非寛容は「あかんよー」と思って筆者は先日「捨石の力士」とその続編を投稿した。あまりに長引いている大相撲界の醜聞は、大相撲ファンでなくても敬遠したいが、そのことがTVやマスコミは飯のタネになっていて、それも見方によれば有益だ。それはともかく、ヤクザと聞いて893を連想し、そこから「歯臭い」をさらに思う筆者だが、歯は臭くなるものだ。それも歯医者の生活のためには大いに有益で、歯の臭いヤクザさんも存在価値がある。歯が臭くなくても、「自分を小さな人間と感じる」というのは、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」の歌詞に出て来るが、若い人はちょっとしたことで自殺願望を抱く。どんな卑小なものでも存在価値があると思い込めば、生きて行くことは少しは楽になる。「小さな虫はすぐに死ぬ運命にある」という反論が聞こえそうだが、小さな虫は次から次へと湧いて絶えることはない。つまり、死なない。そう考えればいい。さて、今日は先日23日に大阪の国立国際美術館で見た展覧会について書く。今年は展覧会の感想をほとんど投稿出来なかったが、年末に少しは書いておこう。23日はこの展覧会を見るためだけに家内と出かけ、また最初の大きな部屋では撮影が許されていたので、今日は入場券以外に3枚の写真を載せる。ここ数年の筆者はこの美術館の地下3階の企画展を毎回楽しみにしている。前回も前々回も、その前も見た。どれもそれなりに印象に強いが、特に現代美術展の場合はそうで、広々とした会場にふさわしい内容がほとんどであることも楽しい。本展はチケットを見る限り、具象彫刻かと思うが、それを手がけても、たとえば日展の作家にひけを取らない力量を持っていることを思わせる。このチケットに見える帽子を被った人物は、高さが数センで、真っ黒で大きな四角い箱状の作品の一部だが、その元の大きな作品はこの美術館が茨木の万博公園にあった時から筆者はよく知っている。だが、その作者の名前が福岡道雄であることは覚えなかった。ごくありふれた名前で、作品が印象的な割りに名前は覚えにくい。1936年大阪生まれで、今回の大回顧展によってその作風と名前をしっかりと結びつけた人は多いだろう。筆者もその部類だ。
展覧会の題名に「つくらない」とある。どういう作品かと大いに期待させられたが、何も作らないでは会場はがらんどうになり、彫刻家とは呼べない。それで立体的な形のある何かを創造する必要があるが、その根本を福岡は若い頃から真剣に悩み続けた。その軌跡が本展だが、「何も作らない」「何も作るものがない」という思いを言葉にして、それをそのまま作品の表面にびっしりと書き込むというシリーズ作品が晩年にたくさん作られる。それは、釣り人を点景として、池を四角く切り取った真っ黒な立体作品シリーズの延長にありながら、釣り人シリーズ以前の、文字を連ねた紙作品のアイデアを合成したものだ。作家は晩年にはそれまでの作品の総合化をよく行なう。福岡もそうだ。「何も作りものがない」といった白く細かい文字を作品の表面全体にびっしりと書き込んだ立体は、その総合的な華やかさを感じさせつつ、一方では本当にアイデアの枯渇に苦しむ、やむにやまれない創作活動も見える。話は少し変わる。最初期から最晩年までの作品を揃える本展のような回顧展は、先日紹介したザッパのインタヴューをまとめたドキュメンタリー作品と同じく、作家の生涯が端的にわかる。前述したように、筆者は若い頃から福岡道雄の作品はよく知っていたが、その作品の前後にどういう作品があるのかが今回はよくわかり、そのことで1点だけ知っていた時とは違う、作家の全体像が見えた。それは本展でも充分でないか、あるいは本展を年を隔てて何度も見て考えねば、作家の意図は把握出来ないのかもしれないが、世の中に芸術家は無数にいて、この美術館で福岡道雄の本展以上の展覧会が開催されるのは50年ほど先になるだろう。つまり、筆者にすれば、本展によって福岡の作家像を考えるしかなく、また他にも絶えず展覧会を見ているので、彼のことばかり考えることは出来ない。本展を見た大多数の人も同じ考えだろう。筆者のようにそれなりの長文で感想を書く人はかなり少なく、ほとんどの人は「面白かった」と思い、やがてそのことも忘れる。福岡はそういう現実を若い頃からよく知っていたはずで、そのことが作品の一種の暗い雰囲気を決定し、また彫刻家を自称するには何をどう表現すべきかと悩ませ続けた。それは創作する人すべてに共通する問題でありながら、日展の具象彫刻とは違う、現代美術のジャンルで表現するには、卓抜な技巧は当然のこととして思考の斬新さが求められるから、作っていない時の熟考とその中での閃きを待ち続ける必要がある。それは毎日が行のような苦しみと言ってよい。職人ならば毎日同じことを続けて常人には到達出来ない技術を得るが、芸術家にその姿に満足しないし、またしてはならない。だが、考える時間が長ければ必ず良質の閃きが訪れるかと言えば、その保証は全くなく、考えても何も出て来ない場合が普通だろう。ストラヴィンスキーは毎日少しでも五線紙に作曲し続けた。その過程で作品が生まれることを知っていたからだ。福岡も思いの点では同類ではないだろうか。本展の最後の部屋は、それ以前と同じく真っ黒な作品だが、釣りに使うミミズやまた男性の金玉を写実的に表現し、枯れた境地とヤクザ的、つまり役に立たないものをことさら主張する意図がうかがえ、その反骨精神はさすが大阪人を思わせた。
作品の産みの苦しみは小説家も同じだ。福岡と同じ大阪人の開高健はそのことをそのまま主題にして小説を書いた。一方では釣りを大いに楽しみ、大物が釣れた瞬間の喜びを自作の小説のこれまでにないプロットにもした。つまり、小説が書けないことをテーマにした開高の小説は、最後に大物を釣ったことで喜びが一気に訪れて終わりを迎える。それとほとんど同じことが福岡にもあったようだ。釣り人を添えた池を四角く切り取った作品は、後年その表面に「何をすることがない」という小さな文字を埋め尽すが、その文字の羅列にほんの一部その釣り場についての文章が混じる場合があって、福岡は大の釣り好きのようだ。それは納得行く彫刻を作ることが出来ないので、閃きを求めて釣りをし続けたと考えてもいいが、大物を釣った瞬間は悟りであって、それが新たな創作を生む契機になると本人は思っていたのかもしれない。それが本当にそうであったかどうかは本人に訊かねばわからないが、その閃きが、以前の作品に別の以前の作品を合成することであったことは、大物を釣ることはほとんど創作には役立たなかったと筆者には見える。それは、前述の開高健の小説は世間の最高傑作との評判の割りには筆者にはさっぱり面白くなかったからで、創作の苦しみを言い訳しているとも思った。「何もすることはない」は、正直な思いの吐露だが、何でも正直に表現して斬新な創作が生まれるとは限らない。ジェスロ・タルのアルバムの題名に『ロックンロールをやるには老い過ぎたが、死ぬには若過ぎる』というがある。そのアルバムは当時のイアン・アンダーソンの創造力の停滞期を正直に示すものの、面白い作品ではない。だが、レコード会社との契約もあり、また録音活動を停止してしまうと再起は難しく、とにかく駄作であっても作り続けることはよいし、また仕方がない。ストラヴィンスキーも日々の作曲のかなりの部分は駄作であったはずで、その中に時に秀作が生まれた。また、手も足も出ないという気分であっても、とにかく何かを作り続けるのは、この世がいやになったので自殺するという若者とは反対の生きる勇気があるためで、福岡は生涯にわたってこの作る意味のようなものを問いながら、作り続けている。そして、以前の繰り返しに見えながら、それは作家としての一貫性を示していて、人間はいかに変身を望んでも、本質は変わるはずがないことを認識させる。つまり、似たような作品を作り続けることは真剣であればあるほどそうだと言える。前言に反するようだが、がらりと作風を変化させて来た福岡でありながら、そこには本人らしさで貫かれている。
会場の最後で本展の協力者か機関名が列挙されていた。枚方市役所内に作品があるそうだが、これはいつか見たい。また福岡の娘さんの名前が挙がっていて、父の業績を伝えるために動いている。これはなかなかうらやましい。作品の所蔵機関も列挙されていて、それなりに作品がしかるべき場所に売れて生活が出来て来たようだ。彫刻家は儲からないと思うが、現代美術の作品をほしがる美術館はそれなりにあって、そのことが福岡の創作活動の原動力のひとつになって来たのだろう。作っても買ってくれるところがなければ、大きな作品を製作する費用や保存場所に困る。それでほとんどの作家はどこかの学校で教えるが、その口のない者は製作時間も費用も少なくなって、存命中に有名になれる可能性も少ない。福岡がその点どうであったのか年譜を読まなかったが、会場には60年代後期に撮った8ミリ映像が3本常時上映されていて、そのうちの1本は全体をに布カヴァーをかけたスバルの自動車を、大阪四ツ橋北の信濃橋画廊前で少し運転して停め、そこから本人が出て来るところを撮ったもので、当時30代前半で自動車を所有するほど経済力はあったようだ。画廊前の道は舗装されておらず、また当時はまだ中央線の高架もなく、大阪はのんびりしていたことがわかるが、映像作品は初期だけであろう。3本目の映像は今日の3,4枚目の写真にある風船状のオブジェを熱心に磨き続けるもので、2本目は地面にチョークで直線を引き続けるところを高速で追い続け、途中でピンク色がなくなったところで黄色に持ち替える様子が映り、またそれがなくなりかけたところで映像が途切れる。2本目は当時流行し始めたパフォーマンスだが、一本線を道路上に引き続けるという単純かつ無意味的な行為は、晩年の「何もすることがない」につながっている。またこの話に戻ると、ありとあらゆる小説が書かれて来たので、今さらもう書くことは何も残っていないと開高健は思った。福岡もそれと同じで、芸術、美術の世界に何をどう追加出来るのかと自問し続けた。そしてそれがそのまま作品行為となって、本展の題名にある「つくらない彫刻家」を自称するに至った。これは大げさに自分を彫刻家と思わない謙遜と見ることも出来るし、この世には表現するに値するものがないと考える厭世主義と思ってもよい。何も作るものがないのであれば、さっさと彫刻家をやめてしまえばいいと、たぶんほとんどの人は指摘するだろうが、福岡は彫刻家であることをやめたくはなかった。ここが重要だ。開高健も釣りに大いに時間を費やしたが、それは小説を書くための行為でもあって、小説の神様を信じていた。福岡もそうで、彫刻を真剣に考えれば考えるほどに手が動かなくなった。それで当時の流行に多少は同意しながら、一方では自分だけの何かを探し続けた。もちろん、こうすれば評価され、作品が売れるなどとは考えなかったはずで、その真面目さが少しずつ評価されて行ったのだろう。福岡はある時期は似たような作品を量産したが、それは各地の美術館に所蔵されるためには必要な行為で、いわばシリーズが一段落すると次の新しい作風を生む必要がある。長くなったのでここでは書かないが、人の背丈以上の真っ黒な蛾がいくつか展示された部屋や、白い毛で全面を覆った同じように大きな地球儀など、作風の変化は著しく、時に度肝を抜かれた。最も福岡らしいのは、釣り人と池を写実的に捉えた作品で、日本的かつ箱庭的、また緻密な技術も素晴らしい。FRPで作られているが、この原理を10年ほど前、とある画廊で彫刻家に詳しく教えてもらったが、筆者には無理な技法に思えた。