CHRISTのお祭りは今年はさっぱりその雰囲気がない。クリスマス・ケーキを買っていたのは20年ほど前までのことで、近年はめっきり見かけなくなった。
第一に、わが家の近くにあったケーキ屋がとっくの昔になくなった。松尾駅の近くにも1軒あったが、その店は10年ほど前に湖北の転居し、京都で店を出していたという売り文句が大いに歓迎され、松尾駅近くで営業していた時よりもはるかに儲かっているらしい。そのことを土地鑑定士から数年前に聞いた。息子が小さな頃は近くの山崎の特約店のパン家がクリスマ・ケーキの予約を催促していて、毎年買っていた。その店が経営をやめたのも20年近くなる。そう言えば和菓子屋もあったのに、それもなくなった。ケーキも和菓子もコンビニで買う方が安いという時代になった。小売店に関しては多様化の反対を突き進み、今では日本中で名が知られるチェーン店ばかりだ。百貨店では有名洋菓子店がクリスマス・ケーキを売っているが、ふたりで食べてちょうどいいサイズのものが3000円では買えない。筆者は甘いものも辛いものも好きで、ケーキはあればあったでいくらでも食べられるが、なければないで我慢出来るので、先日の23日に大阪に出た時、家内がクリスマス・ケーキを買おうかと訊いた時、買わないでよいと返事した。2,3年前までは聴いていたジェスロ・タルのクリスマス・アルバムも今年はちらりと思い出しただけだ。日本ではクリスマスよりもハロウィーンに人気があるとネット記事にあったが、どちらにしても西洋の祭りだ。クリスマス人気が衰えたとして、それはイスラム教に遠慮してのことではないはずで、日本で騒ぐのは気晴らし商売に過ぎない。一方、正月を祝うかと言えば、昔のように門松をほとんど見かけず、正月らしく着飾る人もあまり見かけない。毎日が祭りのような騒々しい時代になったからだ。ハレとケの区別がなく、これを「ふしだら」な世の中になったと言い換えてもよい。それが日本だけに顕著なのかどうかは知らないが、毎日ろくなニュースがなく、昼間のTVのワイド・ショーに出ている連中の無責任発言にうんざりする一方で、政治家も同類であることに、世の中の末期を感じる。金でぶよぶよに太って、あちこち癌に冒されている醜い姿を連想するが、素敵な人や優しい人は人目につかないところでひっそり生きている。そういう人々のことを想像して心を洗う。そう言えば、『YOUは何しに日本へ』と『何でも鑑定団』のふたつは予約録画設定しているが、ここ3か月ほどは見ていない。また、見る気もしないが、その時間がもったいないと感じるからだ。買ったままで見ていないDVDやビデオテープで映画を見た方がよく、そうすればこのブログのネタも得られる。
今は仕事の小休止で、来年からはまた忙しくなるので、ブログの投稿は途切れる。ずっと気になっているのは、「毎日投稿」を謳っておきながらここ1、2年、投稿が断続的であることだ。全部埋めたいが、投稿ネタよりもまとまった時間が必要だ。それがいつ得られるのか見当がつかない。家内が簡単な日記をつけているので、いつどこへ出かけたかはわかるが、1年以上経てば筆者が感じたことを思い出すのは難しい。思い出すきっかけになるのは写真だ。シャッターを押した時のことはよく覚えているもので、その時の気分を蘇らせて遡って投稿する。だが、それが出来るのは写真がある場合で、これまで投稿しなかった日数以上の写真はない。その何を書いていいかわからない日は、撮りためてある神社の写真を使うつもりでいる。それはさておき、2,3日前にこのexciteブログの第2回の応募要項が何かの拍子に画面に表示された。上位10名にはそれなりのプレゼントがある。また容量無制限という言葉に目が行った。応募は無料であるから、試しにという気持ちで応募欄にチェックを入れて投稿した。すると、投稿の最下段に応募したことを表示するバナーが自動的に貼りつけられた。これは予想外で、投稿を読む人に応募したことがわかってしまう。別段かまわないが、気がかりであるのは、ここ数日は数日遡って投稿していて、それが応募要項に沿っているのかどうかわからない。また、前述のたまたま目についた画面では、特定のカテゴリーに応募する仕組みになっていたはずだが、その画面がどこを探しても見つからない。筆者のブログが選ばれる可能性はかなり低いと思っているので、どうでもいいのだが、1年にしろ数日にしろ、筆者は遡って投稿することがひとつの癖のようになっていて、それは仕事のやり残しをこなしていることであって、あまり気分はよくない。毎日リアルタイムで投稿すればいいが、長文ゆえにその時間がない場合が多い。どうでもいい言い訳を書いていることも気分はよくなく、本題に入る。先に書いた『YOUは何しに日本へ』は、自信喪失気味の日本を勇気づける雰囲気に満ちているところが多少鼻につくが、こだわりがあって日本にやって来る外国人がいることを知るのは面白い。そんな中に、道路の交通信号の写真を世界を歩いて撮っている男性がいた。彼が出かけたのは大阪の花園駅で、そこから南へ10分ほどのところにある四つ辻に設置されている信号機がとても珍しいと興奮していた。筆者にとってそれはどうでもいいものだったが、去年その信号機の下を家内と歩いたことを知ったのが面白かった。家内が生まれた家を探すために、花園駅に三度下りた。そして、おそらく三度ともその信号機の下を歩いた。
今日の最初の写真は9月18日の撮影だ。その日は天王寺の市立美術館に行った。その前だったか、どこかで食事しようと思い、TVで紹介された店を探してうろうろした。その店が見つからず、歩いたことのない道を右往左往したが、四つ辻の頭上に前述の外国人が花園で見つけたものと同じ信号機があった。それを真下から撮った。撮影後に目当ての店を見つけたが、そこは先ほど前を通りながら筆者は気づかなかった。家内はたぶんここだろうと思いつつも、筆者がさっさと先に歩いて行くので、仕方なしについて行ったと言った。店の前には待っている人が2,3人いて、入るのを諦めた。それで大通り沿いの安いチェーン店の食堂に入った。筆者らのテーブルの隣りに、制服姿の女子高生が5人入って来て、2,3人と別れて向かい合って陣取った。3人では狭く苦しいが、その横は小柄な家内なので、どうにか譲り合って座ることが出来た。彼女たちは大食漢で、テーブルの上は料理が収まり切らないほどであった。2枚目は10月27日で左端に看板をわざと入れた。3枚目は2枚目の信号機を真下から撮ったが、この場所は交通量が多い。だが道が狭く、この信号機のおかげで車は徐行しながら走る。撮影するのに数分待ったが、撮影出来たのは運がよい。車が来れば筆者は怒鳴られる。この写真は昨日の投稿の2枚目の地図の青い線上にある。そして、向日市に自転車で向かう途中で撮った。先のTV番組を見た時、この信号があることを思い出し、それほど珍しいものではないと思った。また、この信号機のすぐ近くに風風の湯でよく話すTさんが住んでいる。それもあって筆者は向日市に行く時はこの信号の下を走る。4枚目は11月1日だ。嵯峨のスーパーの近くで、これも以前から知っていた。ここは交通量は少なく、余裕で真下に立って撮影出来た。3つの信号は最初と最後が同じタイプでありながら、角度が違う。先の番組の外国人は2,3枚目と同じ型を撮影していたと思う。録りためた番組は見た直後に消す。また、たまに見ないままで消すこともある。せっかく録画したのにもったいないと感じるが、見る時間の方がもったいないと思い直す。TVに振り回されると、ブログを書く時間がない。とはいえ、TVより筆者のブログが面白いと思われるはずもない。そうそう、今日は「四つ辻の信号機」と題したが、信号機は四つ辻にある。もっと適当な名称がないかと思いつつ、ひとつ思い出した。先月19日に入った大阪市立科学館の最後の展示は信号機であった。目の高さに展示されていたので、それがかなり大きく見えた。ほかの人も同様で、「こんなに大きかったか?」とみな口にしていた。頭上高くあるので本当の大きさを知らないのだ。ではキリストが目の前にいれば偉大な人に見えるかと言えば、凡人に偉大さはわからず、それでキリストは磔にされた。「キリストの信号機」としよう。