タマランドー、レンピッカ。こんな独り言に笑える人はあまりいないだろう。昨日の投稿は冒頭の文字が「銅」であったが、それは筆者がパソコンのメモ帳に保存している「冒頭一字表」の順に倣って、昨日の投稿で使うことが決まっていた。
「冒頭一字表」は同じ文字を二度使わないという以外に決まりはない。だが、以前数か月前に同じ文字を使っていることがわかった。その一字のみと思っていたのに、昨日たまたま調べると、「銅」は「冒頭一字表」のずっと先にも出ているではないか。「これはタマランドー、レンピッカ」と思わず独り言をしながら、その一字を表から消した。冒頭の一字はブログの投稿のたびに以前に使ったことのないものを選んでいた。だが、メモ帳の検索機能が時に誤り、以前に使った字をもう一度使ってしまったことがあるようだ。検索の際、カーソルの位置を確認しないからで、昨日もメモ帳で「銅」を調べると、二番目の使用にヒットしたが、もう一度検索するとヒットしない。カーソルを最初に戻していなかったからだ。それはともかく、「銅」を昔の投稿、つまり冒頭の一字が紺色の投稿に二度使用したことは、筆者は金や銀に縁がなく、せいぜい銅止まりであることを暗示している。それでは「ほんまにタマランドー、レンピッカ」なのだが、もうこの年齢でそうつぶやいてもどうしようもない。それはいいとして、タマラ・ド・レンピッカはどこの生まれかと今調べると、ポーランドであった。レンピッカというピカピカの名前が金を暗示させて、なかなかタマランドーなのだが、日本ではアール・デコの芸術はアール・ヌーヴォーに比べると人気は劣り、彼女の絵は美術ファンしか知らないのではないか。それもともかく、今日の冒頭の一字は「タ」と決まっていたので、無理やりタマランドーな話を書いたが、本当は「タイプ」で始めようかと思った。それを止めたのは、あまりカタカタ言葉を使いたくないからだ。「タイプ」よりも「カテゴリー」の言葉がふさわしいからでもある。で、昨日の投稿は投稿のどのカテゴリーがふさわしいかとなると、「雑」として意識している「新・嵐山だより」しかなかった。今日もそうだが、昨日の投稿は没にしてもよく、それほどにジャンルやカテゴリーにうまく当てはまらない。今日の内容もそうなるだろうが、ブログに使いたいと思って撮った写真をネタに無理に何かを書こうとしているからだ。ならば書く必要はないが、普段から無理にでも何か書くことを自己に課していないことには、文章綴りの行為はこなれない。毎日最低8時間練習するというピアニストと同じようなことだ。筆者はごくたまに書いた原稿に対して収入があるが、文筆家ではない。文章でメシを食べている人は、毎日このような無料の長文を書くことはしない。必ず金目当てだ。そして、そこに一抹のいやらしさも紛れ込む。その点、このブログは筆者のひとつの気晴らしと、いざという時のための練習で、これくらいの努力はしていたい。毎日8時間ピアノを練習しても、いつまでも下手なピアニストはいるはずで、筆者のこのブログ行為も才能のない者のあがきに過ぎないだろうが、銅でも磨けばそれなりにピカピカになる。その光沢に「タマランドー、レンピッカ」と自惚れる。
昨日は家内とは1か月ぶりに大阪に出て、ほとんど同じコースを歩いた。ここ数年はほとんどそうで、いつも最後は天神橋筋商店街を歩き、玉出のスーパーで買い物をして帰る。その前に食事をするが、決まった2軒を交互に利用していて、また安い物しか食べない。「安物買いの銭失い」という言葉があるが、なるべく安いものを見つけたいのは大阪人ではあたりまえだ。それは自慢出来る行為だ。思い出したので書いておく。先日の郷土玩具の集まりの忘年会の席で面白い話を耳にした。大阪と東京は考えが違い、京都と大阪、また大阪と神戸でも違うということで、その例として、昔の同じ郷土玩具の集まりでのことが長老格から話された。東京で10数人が会合に参加した帰り、新幹線の切符を買う際、大阪のある会員がみんなから料金を集め、それで回数券を買って自分の分を浮かした。回数券を手わたされた人たちは、『さすが大阪人はえげつないことをする』と思ったが、話をした長老格は、「一概にその行為を非難出来ず、才覚とも言える」と意見した。すると、奈良から来ていた筆者と同じ年齢の人は、自分ならそんなことは出来ないと、吐き捨てるように行った。筆者もその部類かもしれないが、回数券を買って浮いた分の金額を均等に分けて全員に配るか、あるいは弁当でも買ってみんなに手わたすかもしれない。回数券を手わたされた10人の中に、強く抗議する人がいなかったのは幸いで、ひとりでもいれば、それ以降はせっかくの趣味の同好会に気まずい空気が流れるのではないか。大阪にはえげつない人が多いとの他府県人の思いは、多少は当たっているかもしれない。昨夜はそのようなことに遭遇した。家内と入った紅茶飲み放題の喫茶店で、パンの食べ放題を注文して食べていたところ、店の出入り口から西洋人の男女ふたりが入って来て、店員を呼んで質問していた。すると、直後に入って来た日本の中年男女のうち、女が店内に響きわたる大きな声で怒り始めた。「通られへんやろ!」。それを何度か繰り返し、女は目指すパンのある場所に行った。西洋人がレジを済ますと、その女はカウンターの若い男性店員に向かって、大声で叱った。「あのなあ、あたりまえのことやろ。お客さんが迷惑してるんやから、もっと気いつけなあかんやろ!」。その態度を斜め背後から筆者は見ていたが、女は振り返りながら、「何もあらへんがな! 向こうむいとき!」とまた怒鳴った。そして男と一緒にドアの外に出る時、振り返りながら筆者に向かって声を投げた。「あそこに座っとる男、こっちばっかり見やがって!」。男女はいかにも水商売風で、金には困っていない身なりだ。仮に主張が正しいとしても、みんながびっくりするような大声を出すのはアホかつ下品だ。他の客もそれがわかっているので、別の店員とともに素知らぬ顔をしていた。大阪には確かにそのような横柄な輩は多いかもしれない。筆者はその食べ放題の店にはよく行くが、味にはもう飽きている。また11月からは最初の頃から200円値上げして、今は880円だ。それでも安いが、家内はいつも別の店がいいと言う。1000円までではどの店で食べても見事に同じような内容だが、同じ大阪でも梅田のきれいな場所では2割は高い。
寒いこともあって、梅津のムーギョやトモイチに行くことも今は週一程度になっている。それで月1回か2回は天神橋筋商店街の玉出スーパーで買うことは、頻度としては少ないとは言えないが、出かけにくい季節は冷蔵庫の食材がなくなる寸前になりやすい。だが、ほとんど何もなくても筆者は平気で、お腹がいっぱいになれば何でもよい。数万円の本を平気で何冊も買うのに、食材は安物ばかりでは、平均的な人からすればアホに見えるだろう。それはともかく、本題にようやく入る。今日の最初の2枚の写真は、1か月ほど前にトモイチで見つけた。「ロマネスコ」というロマンティックな名前の野菜で、これを数年前から知っていたが、その日は半額で売られていたので迷わずに買った。そろそろあちこちが茶色に変化し始めていたための値引きで、そうした見切り商品を筆者は見つけるのがうまい。家内はそのことにいつも感心する。スーパーでは閉店寸前に行けば半額商品が多いのは知っている。トモイチは確か夜9半時だ。そのような時刻に嵐山から梅津に出かけることは全く億劫だ。それで、閉店の割引商品にはほとんど遭遇しないが、午前中でもたまに半額や3割引きの商品がある。ロマネスコを筆者が見つけると、家内は食べたことのない野菜で、買わないと言う。ネットでレシピを調べるので、絶対に買うと主張し、家内はようやく籠に入れた。筆者は本当は食べたいのではない。形が面白いので、じっくり観察し、写真を撮ってブログに載せたかったのだ。その機会がなかなかなかったが、今日は別の写真と合わせて投稿することにした。別の写真は後述するとして、ロマネスコはフラクタルの原理が目に見える。昔このフラクタルという言葉が流行ったが、この野菜を見ればその原理はすぐにわかる。同じ形が無限に増殖し、初期のコンピュータ・グラフィックス・アートのようだ。次々と同じ形が増殖して行くこの様子は、巻貝の育ち方と同じと言ってよいが、人間やパンダも同じで、すべての生物にも言える。だが、近年の日本では独身者が多く、彼らには微小な子孫を無限に増殖させるようなこの野菜のフラクタル性はない。それは本当は不自然だが、人間は元来不自然な存在とも言える。それは、いずれ生物ではなくなることを遺伝子的に所有していると考えることも可能かもしれないが、生物でなくなるとは、死滅することとアンドロイドだけが生き残ることの双方を意味していて、20世紀はそのことを最大に人類にほのめかした。それででもないが、ロマネスコの造形は植物の生命の基本がわかりやすく、筆者は一度実物を買いたかった。ロマネスコはロマネスクを「真似するっこ」との考えで命名されたと思うが、ロマネスクはローマに因む言葉でありながら、1000年ほど前の西洋の教会建築様式を意味し、怪奇的な彫刻を狭義には指す。「すべての道はローマに通ずる」で、日本の「浪漫」もローマにつながると言えるかもしれないが、ロマンティックとローマは結びつきにくい。
家内は安い場所でしか食べないことにいつも不満を言う。もういい加減飽きたからで、またせっかくクリスマス前日の梅田に出てもロマンがないと思うからだ。それで、百貨店や地下街の人ごみを見ると、筆者のような世代は100人にひとりもいない。そこで家内と言い合うのは、筆者らが20代であった時のことだ。当時でも事情は同じで、繁華街は若者のものであった。もう老人になった筆者らには梅田は場違いだ。では、筆者らの世代は梅田に出ればどこで食事しているか。彼らは高級な店を利用する。それで筆者らには姿が見えない。そういう高級な人間に出会う場所に筆者らが訪れないかと言えば、そうではない。筆者は1年に数十回は家内と一緒に美術館に行く。そこでは若者も多いが、年配者も目立つ。またそれなりに知的な感じがする人が多い。関西文化の日で無料であった先月19日、家内と大阪に出て国立国際美術館に行ったことは昨日触れた。その次にその向かいにある市立科学館に行ったが、同館を訪れるのは初めてであった。ただし、当日はプラネタリウムは別料金で、これは見なかった。これまで予想していた以上の展示の充実に驚いた。家族連れ、カップルが訪れるのに最適な場所だ。筆者らは2時間近く要して見たが、また行きたいと思う。今日の3,4枚目は鏡で遊べるコーナーで家内と撮り合った。30代の父親が、5歳くらいの男児を連れて訪れていて、その男児がなかなかこの鏡から立ち去ろうとせず、父親は手を焼いていた。10分ほど待ってふたりは去り、筆者らの番になった。家内と筆者の姿は、反射の繰り返しで時計と同じ12人に見える。それが風風の湯のサウナ室の12分時計を連想させる。また、鏡を見て自画像を描くと必ず視点は自分を見つめる顔になると、昔赤瀬川原平が書いていて、そのことに対し筆者ははがきか手紙を出したことがある。鏡を複数使用すれば、視線を合わさない自画像が描けると指摘したのだ。そのことをこの合わせ鏡の遊びコーナーで思い出した。この時計状の鏡の反射はフラクタルではないが、ロマネスコの野菜と同じく、幻惑的で面白い。こういう鏡の遊びは遊園地によくあるが、さすがサーヴィス精神旺盛な大阪の科学館で、遊びを大いに取り入れて親子連れやカップルに科学に関心を持ってもらおうとしている。別の展示では、70代の男性が筆者に順番を譲りながら声をかけて来た。孫と一緒かと思ったが、ひとりでの来館で、また校長か重役を経験したような貫禄があった。梅田の繁華街ではあまり見かけないタイプだが、歩いていても地味なので目立たない。60代半ばの筆者と家内は、その人の年齢になるまでには数年はある。それで相変わらず家内とまた梅田に出かけて散歩し、帰りは天神橋筋商店街の安い店で夜を食べて帰る。確かに家内の言うように、もうそれは飽きた行動で、筆者も「タマランドー、レンピッカ」と独り言したいが、金や銀に無縁の筆者はせめて銅の輝きを求めるしかない。それでも家内は「仕方ないか」と諦めて笑っている。