●『カッコーの巣の上で』
めて見たのではなく、今日は昔から気になっていて、ようやく今日見た映画『カッコーの巣の上で』について書く。年末であるので、心残りを少しでも減らしたい。



d0053294_00070475.jpgそれに家内が実家に出かけていることもあり、思い切って見た。本作は75年の公開当時、家内が友だちと映画館で見た。その頃、筆者と家内は交際していたが、どういうわけかこの映画はふたりで見なかった。家内はとてもいい映画だと言い、あらすじを教えてくれた。それから40年以上も気になっていた。去年DVDを安価で買ったが、すぐに見るつもりがなく、またその時間もなかった。半年ほど前に家内に薦めると、暇を見つけてひとりで見た。感想を訊くと、40年前のように感動しなかったと言った。時代が変わり、また内容を知っていたためだろう。それに暗い内容で、本来の意味での楽しみは感じられなかったのだろう。その理由のひとつとして、かつて本作を映画館で一緒に見た友人とは違う、もうひとりの親しい友人が、ここ10年ほど精神的な病を抱え、数年前に精神病院に入り、その生活が耐えられずに退院したことを聞いていたからでもあるだろう。その友人は筆者もよく話をするが、精神病院に入っていた間、却って病気が悪化して、本当に気が狂うと感じ、また病院は病を悪化させる場所だと思ったそうだ。心身ともに健康な人は医者を頼りにすることもないが、検診でおかしいところが見つかると仕方なしに病院に行く、そして薬を与えられ、いつの間にか病院通いを当然と思うようになる。風風の湯で毎週話をするようになった82歳のMさんは、医者も薬も嫌いで、その点で筆者と大いに気質が合うが、Mさんは薬を飲むほどに病気が増えると本気で考えている。その反対に家内の妹は毎日10種類ほどの薬を飲み、1年に一度は手術をしている具合だが、病院が大好きで、病院通いの話を会うたびに披露する。病院がひとつの趣味の場になっているのだ。多くの種類の薬が内臓にいいはずがないことは誰にでもわかる。ある部分を治すために薬を飲むと、その副作用でどこかがおかしくなる。その箇所を治すために別の薬を飲む。そうして10種類になるが、まるで漫画だ。薬を一切服用しない方が、健康を感じつつ寿命を迎えられる。10種類の薬を数十年飲み続けて寿命が10年長くなったとして、それが楽しい人生か。Mさんはサウナに20分続けて入っても平気で、またとても快活に話す。もともと体が頑健であるからではなく、医者や薬を信用しなかったからだ。また、信用しないことは、自己管理が出来ることで、精神が強いからだ。とはいえ、その精神は専門の医者があるほどに、体と同様かそれ以上に脆く、それで精神病院が存在する。
 そこは昔「キチガイ病院」と呼んだが、今はその言葉は書いても話しても駄目らしい。おかしな時代だ。「気」が明らかに普通とは「違って」いる人をそう呼ぶことは全く正しいではないか。「めくら」も昔はよく使ったが、これも駄目で、今は「盲目」も使えないのかもしれない。それで「目の不自由な人」と呼ぶようだが、視力が落ちて来た筆者はその部類に入る。だが、「めくら」ではない。では本当に何も見えない人と区別してどう呼べばいいのか。ハンディのある人に優しくとの思いから、そういう差別に値する言葉を使わないようにしようということになって来たが、そのことで偏見や差別がなくなったかと言えば、却って増えている。「いじめ」の増加がそれを示している。言葉つまり上辺だけていねいになっただけで、一皮向けば醜い嘲笑に満ちていて、ひどい慇懃無礼な世の中になっている。言葉狩りは日本だけかと言えば、アメリカでもあるのだろう。「インディアン」や「エスキモー」は別称ではなく蔑称とされ、「ネイティヴ・アメリカン」、「イヌイット」と呼ぶことになった。日本の「アイヌ」はどうかと言えば、これはまだそのままと思うが、「ネイティヴ・ジャパニーズ」と呼ぶべきか。あるいは彼らは日本という呼称がある以前からの住民で、「先住民」はいいとして、「ジャパニーズ」を拒否するかもしれない。時代によって人の考えは変わるから、言葉狩りはまた反動があって、「きちがい」「めくら」が復活することもあり得る。一方で思うのは、精神病院に入る必要のある人や、歩くのに杖の必要な目の見えない人ではなく、たとえとして「きちがい」「めくら」を使いたい場合、それらを使えないことは不自由だ。目が見えていても「めくら」以上に見えていない人はいくらでもある。一見正気であるように見えても、多くの政治家や宗教家はまあ「きちがい」すれすれで、自分以外の万単位の人が死んでも屁とも思わない。そういう連中に対してこそ、「きちがい」「めくら」が使われるべきだが、そういう連中は権力を持っていて、風刺されることを極度に嫌うから言葉狩りをやる。だが、そういう連中を、「頭のおかしな人」「目が不自由な人」とやんわりと表現することは、非難を浴びる恐れが少なくなっていいかもしれない。前置きが長くなった。本作を見る前から筆者は2年前の73年製作の大作『パピヨン』とどこか似ていると思っていた。自由を求めて囚われている場所から脱出する物語である点においてだ。だが、『パピヨン』は熱帯の国の明るい風景が出て来るので、本作よりも開放感がある。本作は途中でわずかに釣りに出かける場面があるが、最初から最後まで精神病院の中での描写に終始し、閉鎖感、圧迫感が強い。家内が改めて見て感心しなかったのはそういうところだろう。つまり、見晴らしの娯楽を求める向きにはあまり見ない方がよい。
 本作のような暗い映画でも、映画である限りは娯楽と捉え、役者の演技力に感心すべきだ。本作に描かれる病院側の抑圧的な行動は、実際とどう違うのか、あるいは一緒なのかは、病院に勤務する人と患者とでは思いが違う。また医者、患者ともに、国や時代が違っても思いは異なる。つまり、本作は精神病院とそこにいる患者の実情のドキュメンタリーではなく、あくまでもフィクションと捉えるべきだ。となると、本作を見て精神病院の実体はこうではないとか、あるいは本作の主人公はただの暴れ者でひどいと指摘することは的外れだ。映画としてうまく出来ているかどうか、つまり2時間ほど釘づけにされる価値があるがあるかどうかが重要だ。表現されたもの、つまり作品とはそういうものだ。ついでに書いておくと、筆者のこのブログも同じで、筆者はなるべく正直に自分の思いを書いているつもりだが、それは読み手にはどうでもよく、長文が最後まで面白く読めるかどうかだ。読む価値がないと思えば途中でやめるし、最後まで読んで面白いと感じると、また別の投稿を読む気になるだろう。つまり、映画を見て何かを感じ、それを他者に読んでもらう文章にする行為は、ひとつの作品化と言え、それ自体に魅力がなければ誰も評価しない。先ほど本作のアマゾンでの感想が100件以上も書き込まれていることを知り、多少拾い読みした。短文であるので仕方がないところがあるが、強く印象に残るものはなかった。面白く読んでもらおうとする思いが伝わらない。論文でも面白くなければ価値がないが、面白さを提供することは読者へのサービスではなく、論じる対象への愛の深さゆえだ。作品が立派であるほど、それに対する感情を綴る文章も秀でたものであってほしい。それはある程度長文になるだろう。筆者はなるべくそうしているつもりだが、作品から感じる核を自分の言葉で伝えたい。本題に戻ると、本作の魅力の大部分は、数多い役者の演技が占めている。主役のジャック・ニコルソンを初め、みんな驚くべきプロだ。ニコルソン以外、本当の精神病院の患者や医者が出演したならば、娯楽映画にならず、ただただ見ていて苦しくなったはずだ。18歳未満の女性と性行為をした罪で投獄され、労働を課せられたニコルソン演じるマクマーフィは、その役務から逃れるために精神病院入りを願う。その悪知恵は世間では反感を買うもので、本作では結局彼は病院からの強制的な措置でおとなしい廃人にさせられてしまう。そういう設定は、たとえば韓国ドラマでもよくあって、当然のものだ。そうでなければ、世間の良識に反し、あらゆる方面から非難を浴びる。悪いことをする人間の末路は哀れに描くべきと考えるのは、世界中で普遍的な考えだ。そうでなければ世界に悪が大手を振ってのさばると、良識派は思っている。だが、現実はいつの時代でも巨悪が幅を利かせ、マクマーフィのようなチンピラは惨めに消えて行く。
 本作の感動的な部分は、布石がいくつかあることだ。そのうちのひとつは、マクマーフィが親しく接近するインディアンの大男チーフだ。彼は「おし」だ。字幕では「ろうあ」になっていたが、同じことではないか。彼はいつもモップを持ってゆっくりと掃除をしている。マクマーフィは彼にバスケット・ボールを教え、患者たちと一緒に試合をするように誘うが、よほどの精神的な障害を受けて来たのか、無表情で、自分から活発に動くことはない。そういう彼が次第にマクマーフィの快活さに感化され、心を開いて行く。本作の原作はチーフの目から描かれたものというが、ジャック・ニコルソンとは何もかも対象的なその寡黙な男は、表情のみで演技し、本作ではマクマーフィ以上に印象的と言ってよい。本作の後半、話せないと思われていたチーフはマクマーフィだけに小声で話す。そのことにマクマーフィは仰天し、いつかふたりで病院を脱走しようと話を持ちかける。すると、チーフは自分の父のことを話す。チーフは父がマクマーフィと同じように「大きなこと」をする男であったが、アル中になって死んだと言う。その死因はわからないが、チーフが殺したのかもしれない。そのような悲惨な出来事からチーフは殻に閉じこもり、自分は「大きなこと」が出来る人間ではないと思い込む。ある日、マクマーフィは派手な遊びをしたことの罰として、病院から電気ショック療法を施される。それが終わって、同僚のもとに戻る時、ほとんど廃人のような歩き方で、チーフを初め、同僚全員がその姿に息を飲む。これは観客も同じだ。だが、それはマクマーフィの冗談で、大部屋に入ってまずかれはチーフの顔を見てウィンクする。そのことでチーフはマクマーフィが正常であることを悟るが、マクマーフィは次の瞬間、部屋の同僚全員に自分は全く以前と同じ状態であることを快活に伝える。その時点で、マクマーフィは同僚全員の心をつかんでいた。病院にとっては悩みの種であるマクマーフィは、いずれもっとひどい仕打ちを病院から受けることは誰にでも予想出来る。映画の最後で、マクマーフィは脳の手術を施され、もう意思表示すら出来ない廃人となって部屋に戻って来る。チーフはその姿に愕然とする。チーフはようやく自分の中に「大きなこと」を決行する勇気が芽生えたというのに、一緒に逃げようと言ってくれたマクマーフィはもうそれが不可能な体になった。つまり、友情のすれ違いだ。本作のあら筋を家内から聞きながら、筆者が予想しない場面が最後にあった。それは、ベッドに静かに横たわったマクマーフィを、チーフが枕で圧死させる場面だ。もがき苦しむマクマーフィは死ぬ。そしてチーフが次に取る行動は、マクマーフィがかつて同僚全員の前で試みながら、果たせなかった力仕事への挑戦だ。マクマーフィは、無理だと思っていることでも挑戦したことは確かだとみんなの前で威張った。同僚はみな最初から諦めている。やろうともせずに諦めることと、無理だと思っていても挑戦することと、どちらが「大きなこと」をする男か。チーフはマクマーフィから示されたその行動を起こして病院から脱出する。
 マクマーフィはチーフと一緒にカナダへ逃げようと約束していた。チーフは明け方の病院を脱出してそこへ向かうのだろう。それが成功するかどうかは別の話だ。どうせマクマーフィ殺しの犯人としてすぐに捕まると良識派は思う。彼らは最初から無理なことは何もしない。おそらくチーフはすぐに捕まって今度は死刑になるだろう。だが、「大きなこと」をしたという自信が持てた。それは本物の男として死ぬことで、何ら悔いはない。インディアンの死生感は独特なものだ。魂を信じる点で日本に近いかもしれない。チーフが廃人のマクマーフィを殺したのは、マクマーフィの惨めな残りの人生を想像したくなく、また哀れな父が「大きなこと」をした男として死んだのと同じように、マクマーフィの記憶を自己の中に留めるためだ。マクマーフィを殺すことで、自分はその分を生きる。本作の最も感動的な場面はその最後の数分だ。マクマーフィは病院側からはおとなしい人間に改造されたが、チーフによってその優しい魂は少なくてもチーフの中では永遠のものとなった。チーフがすぐに死刑になってもそのことは消えない。マクマーフィは本当は悠々とチーフとカナダに逃げることが出来た。だが、それを決行する夜、マクマーフィは目をかけていた同僚の若者ビリーが、マクマーフィが連れ込んだ蓮っ葉な彼女に恋心を抱いたことを見抜き、女を口説いてビリーとベッド・インさせる。ビリーは吃音の激しい若者で、またマザコンだが、病院に入ったのは女性に結婚を申し込んだのにそれが実現しなかったという失意がある。若い男が女の体に飢えるのは当然で、マクマーフィはビリーに恋心が芽生えたことを、まともになった兆しと見たのだ。だが、酒に酔ってマクマーフィその他、患者全員が朝まで眠り込み、ビリーと女が裸で寝ているところを婦長に発見されてしまう。婦長はビリーの母親とは友だちで、女と寝たことを伝えると言う。ビリーはそれだけはやめてほしいと訴えるが、婦長は聞く耳を持たない。そして、ビリーはガラスで手首を切って自殺する。それを発見したマクマーフィは婦長を絞め殺そうとする。その後にマクマーフィは脳の切開手術を施される。結果的にビリーを死に追いやった、また婦長を殺そうとしたマクマーフィが、チーフに殺されるのは、因果応報のようなところがあるが、前述したように全く正反対の意味を持つ。だが、世間ではチーフを人殺しと見るし、マクマーフィが殺されるのは当然と思う。規律を乱す者、法律を破る者には居場所はないとの考えだ。そして暴力は許されないとされる。一方、言葉の暴力は問題視されず、罵詈雑言、流言飛語が増える一方だ。
 男同士殴って済むところを、警察にすばやく訴え、自分の行為を正当化することだけに執着する相撲の親方が、自分は毘沙門天の生まれ変わりだと言う。そして、その親方に利害関係のある芸能人やTVのワイド・ショーの連中はみな世間の罵詈雑言に合わせて、つまりどうでもいい風向きになびいて意見し、そのことに相撲の親方衆も振り回される。思い出したのでついでに書いておく。カゴイケ夫婦を収監している拘置所は冷暖房器具がないという。首相は「あの人は詐欺師ですよ!」と叫んだが、まだ事件はすべて明らかになっていないのに、その言葉はない。だが、首相に逆らうとどのようになるのかの見せしめをカゴイケ夫婦で実行中で、それが怖くて誰もそのことに本気で異議を唱えない。カゴイケ夫婦が娑婆に出て来ることがあるのかどうかわからないが、出て来れば本人たちはマクマーフィのようにおとなしくなっているか。そして、以前以上に騒げば、すぐに誰かに刺されるかもしれない。話を戻す。マクマーフィは精神病院が強制労働よりも気楽な場所と思っていたが、そうではないことを知る。また、患者たちの大多数は、強制的に入院させられたのではなく、自ら進んで入っていることを知る。これはゴッホと同じで、ある時期はそういう病院で精神の健全さを取り戻したいと思う人があるのだろう。そのため、精神病院がなくなることは今後もあり得ないが、本作で誇張されて描かれるような場所ではないとしても、生きていても仕方のないような者は抹殺すべきとして、老人ホームで入居者を殺す事件が日本では後を絶たない。そういう事件を犯した若者に対して、マクマーフィが受けたような手術をすればいいと思うが、ともかく生きていても意味のない老人を、生きていても意味のない若者が殺すという、一見合理的だが、どう論評していいのかわからない狂気の極地としての事件が起こるようになって来た。これはアメリカでも同じだろう。そうであれば、本作から40年経った昨今、本作はもはやあまりに古い映画で、どこが衝撃的で名作であるのかわからないと思う人が多くても不思議ではない。そこでまた話を戻すと、やはり役者の演技が見物で、本当の精神病患者のように、あるいはマクマーフィのように温かみがある人間のように、また冷酷で融通の利かない看護婦長のように、各人の迫真的演技が時を越えて今後も評価される最大の要素だ。病院外でのロケ場面として唯一と言える、マクマーフィが同僚を連れてバスで脱走し、船を借りて大きな湖か川で釣りをする場面では、船の貸し主がマクマーフィに素性を確認する。その時、マクマーフィは全員がドクターであると言う。その場面では全員の顔が順に映るが、それまでの患者としてではなく、本物の博士のような真顔になる。それは現実の精神病患者ではあり得ないが、映画であれば、役者はすぐに博士にもなれる。その一瞬の表情の変化に、本作が作りもので、名役者揃いを納得させる。それがわかれば、現実生活で努力して自分だけの何かをつかもうという気になる。それゆえ、若者が見るべきだ。
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by uuuzen | 2017-12-20 23:59 | ●その他の映画など


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