少ない人影は寒さと平日のせいで、筆者と家内も早々に帰宅した。15分程度の外出で、とても2年前のように竹林にまで足を延ばす気になれなかった。今日は先週木曜日の夜に撮って来た写真とともに、今年も嵐山で開催された花灯路がらみで書く。
嵐山花灯路に関しては2年前に詳細を投稿したので、もうほとんど興味がないが、今夜まで開催されていた毎年恒例の地元の催しであり、またせっかく出かけて写真を撮って来たので投稿しておく。写真は先ほど5枚選んで加工を済ませたので、これから4段落は書く必要がある。どういう内容になるのか自分でもわからない。花灯路の期間中、午後3時頃から法和寺境内で演奏される音楽がわが家にまで鳴り響いた。風の向きによっては部屋の窓をしっかり閉め切っていてもよく聞こえた。却って麓の真下に住む住民の方が聞こえにくいだろう。音楽はさほど有名でない若手の、せいぜい数人のグループがオリジナル曲を演奏し、ロック音楽はない。自治会の住民から苦情が出るからだろう。簡単に言えば癒しになる曲ばかりで、退屈で筆者はまともに聴いたことがない。寒い中で、あってもなくてもいいような音楽を少ない観客のために演奏することにどれほどの意義があるのかと思うが、そう考える人は自宅にこもって自分の好きな音楽を聴く。筆者はそうしているが、先に書いたように家の中にいても聞こえるほどの大音量だ。その音に魅せられて法輪寺のあの長い石段を、しかも真っ暗な道を歩いて地元の人がどれほど行くだろう。法輪寺があるわが自治会住民でそれを聴きに訪れるのは、数人のはずだ。その中に以前は筆者と家内が含まれていたが、今年は聴きに行かなかったので、数人より少ない1,2人だったろう。寒いので、立ったままでじっくり聴くという気になれない。電車に乗ってやって来た若いカップルなら、暗がりを幸いとばかりにいちゃつきながら聴くが、それにしても今年は縮み上がる寒さだ。筆者らは自治会内をぐるりと一周する形ですぐに帰宅した。そして、あまりの人の少なさにさらに寒さを感じたが、このような人の少なさでは、もう来年からやる必要はないとさえ思った。法輪寺の和尚が花灯路に合わせた毎年の演奏グループの選定をどれほど携わり、また資金援助しているのかどうかは知らないが、無料出演ではないはずだ。主催は京都市で、それに地元の商店街や住民が協力していると思うが、市から援助があるのだろう。また歩道沿いに設置される電気の灯篭は、民家1軒に2個の割合で、その電気代は民家が負担するが、わが家は花灯路の経路から外れているので、設置には無関係だ。また、阪急嵐山駅から渡月橋に至るまでの民家や商家がすべて参加の義務があるかと言えば、協力しない店もあり、夜になるとそこだけは歩道が真っ暗だ。観光でやって来た人は多少その場所の区間は足元が見えにくいが、実際は街灯もあるのでそんなことはない。
中国その他の外国人観光客が激増した京都だが、花灯路を目当てにやって来る者はいないだろう。花灯路が見頃の午後6時から8時頃は、そういう観光客はホテルで温泉に入るか食事をしている。それでは地元商店街が潤わないので花灯路が企画されたが、その期間中は天龍寺前の商店街の店はどこも午後9時頃まで営業しているかと言えば、今年はどうであったか知らないが、開いていたのはせいぜい半分ほどだろう。また一見客相手の高い価格設定で、あまりのアホらしさに筆者は地元ではほとんど食べたことはないが、外国人観光客にすれば、高価であっても我慢するしかなく、また店の数も少ない。先週の火曜日だったか、風風の湯のサウナで京都に研修に来たという若者ふたりと話をした。30代で、ひとりは香川、ひとりは金沢から来て、京都で落ち合ったという。その日の翌日が研修で、まだ宿も探していないとのことで、その楽天ぶりに驚いたが、当夜は河原町辺りでどこかホテルが見つかったのだろうか。外国人観光客増加のために、予約なしではなかなかすぐに泊まれるホテルはないと思うが、カプセル・ホテルなら開いているか。それはいいとして、彼らは嵐山に食事が出来る場所があると訊いた。風風の湯の付近ではそういう店は日が暮れるとすぐに閉まる。駅前に喫茶店がある限りで、そこも9時まで開いているかどうか。サウナにいた顔見知りのTさんも話に加わって、上桂なら食事が出来る店があると言ったが、彼らにすれば行ったこともない小さな町の駅に降り立って温泉でぽかぽかになった体を冷やしながら店を探すのは億劫だろう。それで四条河原町に出るとよいと行ったが、それでも午後9時ではほとんどの店が閉まっている。なかなか礼儀正しい、また溌剌としたふたりで、きちんと挨拶をして筆者より先に洗い場を出て行ったが、無事にどこかで食事が出来ただろうか。だが、スマホで簡単に調べられることに気づき、心配無用と思い直した。どういう会社の研修かは訊ねなかったが、技術職と言っていた。今の若者は結婚出来るほどの収入がないなどという話にもなって、彼らの収入が多少気になったが、30代で今から技術を覚えるというのはなかなか大変だ。それでもそういう職業が見つかっただけでもいいのかもしれない。ひとりは妻帯者で、また妻の実家が大きな不動産屋を経営していて、妻を初めその親や兄弟はみな高価な外車に乗っていると言った。そしていっそのこと、妻の親が経営する不動産屋に勤務すると収入の心配はないが、それでは家内の手前、男が廃るので、自力で自分にふさわしい仕事を探したとのことであった。そういう夫に金持ち育ちの妻がずっとついて来てくれればいいが、親にねだれば高級な外車でも買ってもらえる身分であれば、いつまで夫の給料だけで我慢が出来るだろう。若い世代に離婚が多いことは筆者も身近に実感しているが、最大の原因は男の甲斐性だろう。それはつまりは口先だけではなしに、共働きとして妻よりも夫がたくさん稼ぐことが絶対条件だ。だが、女が最初からそう思っているならば、男は結婚などしたくない。
ところで、筆者は男が男と性交することに全く関心がなく、理解も出来ないが、女が男より美しいかと言えば、そうとは限らないと思っている。それどころか、女が男に好意を持ってもらうためにいろんな方法を使うことに、一種の辟易さを感じる。TVで若い美人女優が出ていても、どこがいいのかさっぱりわからず、それどころかとても醜いと感じることが多い。それは男としての精力減退のためと考える人があるし、筆者もそう思わないでもないが、それよりかはむしろ、今まで筆者は女に幻想を抱いて来ただけであって、ようやくそれから醒めることが出来たと考えることにしている。聖書に聖アントワーヌの誘惑の物語がある。ちょうどそれに似ていて、筆者の周囲に絶世の美女が何人も素っ裸で筆者を誘惑しようとしていても、それには目を閉じて靡かない自信のようなものがある。それは、女に対する恐怖心ゆえということも出来る。女が怖い存在であるとはよく世間で言われるが、それは女が自分の性に振り回されて利己的に行動する一種の動物的な悲しみと見ることが出来る。また、女が自分の性の魅力を断念した時、次に金に執着する怖さもあって、そうなれば醜い男と同じで、その金目当ての男くらしか近寄らないだろう。だが、女が金に執着することは、性への執着の延長として理解すべきことかも知れない。女は男に接近して妊娠することを本能的に求めていて、またそのために男を得ても、それだけでは満足してはいけない生存本能がある。子どもを無事に育て上げる必要があり、そのために金が必要だ。それゆえ、女が金に執着しても、それは本能として肯定出来ると見るべきだが、子育ての必要がない高齢の女でも金に執着する者がある。そこに男は女のさびしさと醜さを見て近寄りたくないと思う。また、そのように思う男がロリコンになるのかと言えば、それは筆者にはわからないが、性欲も金欲もむき出しの女に辟易する男というのは理解出来る。それは自分を動物的な男と思っていないことになりそうで、それこそ女にさっぱり相手にされない典型であろう。人間も動物であるからには、性欲なしでは魅力がなく、また金に恬淡というのも人間嫌いのようで近寄りにくいと思われる。したがって、老人でもぎらついた金満家の方が、めざしのように痩せ細った大学の名誉教授よりはるかに女には人気があるだろう。ま、そんなことはどうでもよく、女であれ、別の趣味であれ、楽しく過ごせるのがよく、また収入の少なさもあるいがそう思う若者が増えて来たので結婚する者が少なくなって来たのだろう。以前どこかの中学校の校長が女子生徒に、これからの日本のことを考えて子どもを産むことが最も大切なことと発言した。本人にすれば真剣は正論だが、あまりにも単純な思考で、本当に教育者かと筆者は思ったが、今はそのような変な人が教育者に多いのだろう。風風の湯でよく話す82歳のMさんは、「これだけコンビニが出来て、食事に困らない時代になると、結婚なんてアホらしくてしないという考えはまともだよ」と言うが、Mさんも女を煩わしいと思っているのだろう。それは女も同じで、男など不細工なだけの動物と思っている。
花灯路に関係のないことばかり書いている。花灯路目当ての客が風風の湯をどれほど利用するのか多少関心があるが、筆者の見るとこと、花灯路の期間中に利用客が増えたとは感じない。それに、閉まっている店もあり、また渡月橋付近の屋台も営業しているのは1,2軒のさびしさで、イルミネーションのみで客を呼び込もうという考えにもう限界が見えている気がする。神戸のルミナリエにしても筆者はもう関心を失って何年も見たことがなく、今年は神戸港で世界一のクリスマス・ツリーが夜に映えるとTVなどで大いに宣伝されているが、それも見たいとは思わない。夜間照明が珍しくなくなったからで、家内によれば、阪急京都線沿いに見える民家のLEDにより飾りも一時とは違って今年はめっきり少ないそうだ。それは電気代節約の意識のせいもあるが、やはりキラキラ光る電飾が面白くなくなったからだ。花灯路はそういう家庭の電飾が一般的になり始めた頃に始まった。その催しが数十年もそのまま続くかどうかは誰にもわからず、むしろ人は派手なものにはすぐに飽き、以前とは違う変化を求める。LEDの電飾が飽きられると、次にどういう夜間照明かと言えば、照明そのものが不要ではないかとの考えもある。大阪も御堂筋のイチョウ並木の照明その他、神戸や京都に負けじと夜間照明の場所をパンフレットを作って宣伝しているが、寒い中をあまりきれいでもない照明目当てにうろつく暇人は若いカップル程度で、筆者はもうLEDの電飾はもうなくてもいいのではと思う。そのことは何度も書いたが、どこの電飾も大同小異で、これは芸術的と思わせられるものがない。真っ暗な夜に満月が見られる方がどれほど感動的か。それが京都の嵐山でも難しくなり、また有名寺院でも電飾で一儲けしようとするところばかりだ。先日嵯峨のスーパーに夕暮れに家内と徒歩で行き、その帰りに鹿王院でLED照明による夜間参拝をしていることを知った。そのために警備員が出ていたが、門まで行くと拝観料が600円ほどしかか、すぐに筆者は踵を返した。そして、渡月橋をわたって風風の湯の前まで来ると、その玄関前の植え込みは年中青や白のLED照明が光っている。温泉のあることを知らせるためにはその程度の灯りは必要かと、筆者は今ではあまり気にならなくなったが、どこへ行ってもLEDの電飾で、そのあまりに安易な存在誇示は安っぽくて恥ずかしくなる。その点、まだネオンの方がいいが、わが家の玄関脇にネオンをつけると何年か前に家内に言うと、知らない人が店があるばかりに寄って来ると反対した。それで空想の中だけで楽しんでいる。そういう半分冗談の空想を今では実現しなければ我慢ならない人が増え、世間もそれを許容するようになった。暗い世の中である証拠か。そのうち、日本の夜はLED電飾のせいで暗くなくなる。花灯路という名称はいいが、実際に歩いていると、「どこが花やねん」と思う。最後に写真を少し説明しておくと、1,2枚目は風風の湯から桂川沿いの嵐山公演に入ってすぐのところで、今年は背の低い行灯ばかりであった。まさか台風を心配してのことではないだろうが、風で倒れることを心配したのかもしれない。3枚目の
顔出し看板は2年前にも載せた。毎年使い回しをしている。4枚目はその近くの活け花で、豪華でまた面白い造形だ。5枚目は渡月小橋からライトアップされる嵐山を見た。この全景を2年前に載せた。