古い映画のリメイクの方が人気が大きくなる場合がある。音楽でも同じで、オリジナルよりもカヴァー曲の方が大ヒットすることがある。今日もザッパつながりで映画について書くが、71年のオリジナルの方だ。
2005年のジョニー・デップが主演した『チャーリーとチョコレート工場』については触れない。それを筆者はまだ見ていないので、比較のしようがない。後者はジョニーが超有名俳優であることから、オリジナルの映画の何倍も有名のようで、使用される音楽を聴き比べたいが、71年とは違う作曲家が担当している。筆者がこの映画『夢のチョコレート工場(WIILY WONKA & CHOCHOLATE FACTORY)』の存在を知ったのは去年4月のことだ。ドゥイージルの新譜『ザンマタ通り』の紹介を兼ねた
インタヴュー記事に、ドゥイージルがこの映画を子どもの頃に見て、その影響が同アルバムにあると発言したことによる。同アルバムについては去年6月に感想を書いたが、当時はまだ本作のDVDを入手していなかった。すぐに買いはしたが、見たのは数日前だ。筆者は本でもDVDでも購入後にそのままにしておくことが多い。ファスビンダーのDVDセットやその他の映画も気になりながら、なかなか見る機会がない。手元にあるといつでも見られると安心してしまうからだ。それはともかく、ようやく本作を見たので、ドゥイージルがらみで感想を書いておきたい。まずはこの映画の感想を簡単に書いておく。映画の冒頭の俳優紹介は、チョコレートを製造するオートメーション工場で撮影した、ほとんど全部茶色の画面で、これがなかなかよい。どの工場を使ったのかわからないが、本作で登場するウィリー・ウォンカという板チョコは、ロゴがなかなか印象的で実際に存在するような雰囲気があるが、もちろん架空のものだ。また本作はミュンヘンで撮影されたが、その古い街並みは最後にわずかしか映らず、ほかはスタジオのセットだ。したがって、どの街での出来事かはわからないようになっている。71年らしい色合いや仕上がりだが、昨日の作品と同じくコンピュータ・グラフィックスを使わない自然さがよい。また本作は10代以下の子ども向きで、良質のファンタジーとまた道徳を提供している。主役の少年は新聞配達をして老人4人を養っているとの設定で、そのあまりの過酷ぶりがまるでギャグで笑ってしまうが、少年は学校から戻ると健気に働く。ほかの子どもたちはみな学校帰りにお菓子屋にまっしぐらで、好きなだけそれを買うが、主役の少年はじっと我慢だ。そういうさ中、ウォンカのチョコレートの中に金のカードが限定5枚で封入されていて、それを当てるとウォンカの菓子工場に家族と招待され、また1年は食べ放題のチョコレートが与えられる。ウォンカの工場は事情があって閉鎖されているが、その金のカードの告知によって、稼動が再開された。ここまで書くとどういう結末か大人はみなわかるはずだが、5人の中にその貧しい少年が含まれる。そして他の4人はどうしようもないわがままな金持ち育ちで、彼らは親ともども工場の中で次々に失脚して行く。簡単に言えば地獄行きだ。一方、貧しい少年はカードを引き当てた時、背後にしのび寄った謎の男から、工場からひとつの新発明の飴を隠し取って来れば、それに大金を出そうと耳元でささやく。
貧しい生活なので、大金はほしいだろう。自分のためではない。育ててくれている親たちを思うからだ。少年は悩みながらも爺さんと一緒にウィリー・ウォンカに工場の中を案内され、最後の部屋でウォンカのテストに不合格になる。その時、少年のポケットには例の飴が1個入っているが、それを少年はウォンカに差し出して爺さんと工場を後にしようとする。すると、ウォンカは笑顔になり、少年をテストに合格したと告げる。少年の正直さを計っていたのだ。それはいいとして、貧しい少年が応募締め切り間際になぜチョコレートを買う金があったかだ。それは少年が新聞売りの親方がいる場所近くの溝の中で見つけることにしているが、正直な少年が拾った小銭を警察に届けないのは不謹慎ではないかと思う人もあろう。ここは日本と欧米の違いかもしれない。日本では少年が10円を拾って交番に届けることが美談として時に話題になる。一方、昨日のニュースにあったが、阪急電車の女性社員が落し物を換金し、着服していたことでクビになった。同じような事件は毎日のようにあり、その中に警官が含まれることに誰も驚かなくなった。では、普通の人がいくら落ちていれば交番に届けるかだが、1万円では届けないだろう。筆者は何年か前、万博公園の中で走って行く軽トラックが荷台から小型の金庫を落として行くことに遭遇した。すぐに拾うと、ずしりと重く、おそらく数万円は入っていただろう。近くの店のその日の売り上げだ。それをどこへ届けていいかわからず、出口近くの花屋か土産品店に託したが、無事に所有者に戻ったかどうか定かでない。また、落とした人も数万円であれば諦める場合が多いだろう。筆者は大金を拾ったことはなく、せいぜい10円か100円だが、それらを届けたことはない。それに、筆者はお金を落としている方が多いだろう。ま、そのように考えると、本作の少年がチョコレートを買うだけの、今で言えば100円を拾ってもそれを警察に届け出ないのはさほど不正直とは言えない。そのお金を拾ったことが、ジョニー・デップ版ではどう設定されているか知らないが、子どもにとっての正直さが判断される場面なので、案外重要だ。ともかく、その少年はもっと莫大な金が手に入るというのに、ウォンカからもらった貴重な飴を返却し、そのことでウォンカの思いは満たされる。そういう正直な子がまだいたという現実に感動したのだ。そしてそれが誰よりも貧しい少年という設定だ。この物語を今の日本ではどれほどの子どもが嘲笑しないで見るだろう。筆者はこの少年ほどではないが、それでも小中は生活保護に世話になった学校一貧しい少年であったし、母は子を3人抱えて辛酸を舐め続けた。子どもひとりを育てることに参っている今の若い母親とは大違いで、学のない母は内職を初め、あらゆる雑な仕事に就いて筆者らを育てた。そして、他人に絶対に迷惑をかけるなと、とても厳格で、正直に生きることはあたりまえのように育った。世間がそうであった。時代と言えばそれまでだが、当時でも成金や教育ママといった変な親はいっぱいしたし、本作に描かれる世界と同じであった。本作がリメイクされることは、子どもは正直であるべきと願う大人の思いによるが、確かにこういう道徳的な作品を子どもに見せることはある程度の効果はあると筆者は思う。道徳という言葉はさっぱり日本では嫌われているが、天皇と結びつける必要はない。正直であれば、自分が一番気持ちがすっきりとしてよい。天を仰いで恥じることがないと自己確認出来る生き方は何よりもよい。簡単に言えば、そういう人間としてのあるべき姿を本作は描いている。そして、そういう子どもはいずれ最も恵まれた境遇となるという物語だが、それを嘲笑する人は不幸だ。
本作は71年製作だが、日本公開は当時なかった。それがなぜDVD化されたかだが、ジョニー・デップ主演のリメイク版の人気にあやかったのかもしれない。71年と2005年では30歳までの若者は両者の比較をするにも、前者の時代のことについてはあまり実感出来ず、ただの古い映画と見るかもしれないが、筆者のような60代半ばの年齢であれば、どちらの空気もわかる。とはいえ、古い人間であるので、古いオリジナルの方に軍配を上げがちだ。ドゥイージルもそうではないか。そう考えると、ドゥイージルと筆者はどうにか同じ時代感覚を持っていて、筆者は彼の音楽を理解出来る立場にあると言える。『ザンマタ通り』の録音は、ビートルズの『サージェント・ペパー』以上の時間を費やしたとのことで、その念入りさは確かにうかがえる。中期のビートルズらしい凝った音が散りばめられ、以前のドゥイージルにはなかった音楽性が横溢している。ザッパ・プレイズ・ザッパ(ZPZ)という、父の音楽をカヴァーするバンドは、今後もドゥイージルはやるべきと思うが、自分のオリジナリティをもっと示す機会がほしいと長年筆者は思っていた。ドゥイージルのアルバムはみな購入して、そこにZPZにない音楽性があることを知って来てはいたが、方向が明確に定まらないもどかしさもあった。その懸念が払拭された『ザンマタ通り』にドゥイージルが子どもの頃に見た本作の影響が多少はあることを知って、納得させられるものがある。それは、ドゥイージルが父の父が暮らした街パルティニコを訪れたことが契機になっていて、自分の音楽についてもより幅広い視点から見つめる自信がついたかのようだ。これは、ドゥイージルが自分の過去のすべてを均等に振り返り、また現在の世情もよく自覚出来る年齢に達したことであって、『ザンマタ通り』には父の影響をほとんど感じさせない個性がある。それは物づくりをする誰にも求められるもので、ドゥイージルの才能の本当の輝きはこれからではないか。ドゥイージルは前述のインタヴューで、父の作品をカヴァーするなら、それをたとえばラップ風にするなど、現代的にアレンジして演奏すべきという意見を否定している。これはたとえばオリジナルをリメイクすることとは違うと言えそうだが、父が雇ったメンバーをZPZに起用しても父の演奏と同じにならないと思っているからだろう。つまり、ZPZの演奏はドゥイージルなりにリメイクで、また一方で原曲の空気を忠実に再現しているつもりだ。これはクラシック音楽の演奏と同じアプローチで、編曲の必要はないとの考えによる。ラップ風に演奏すると、確かに一時ないし一部には歓迎されるだろうが、そのラップ風はすぐに時代遅れになる。となれば、父が演奏したような楽器編成で同じように演奏することがよりよく、また原曲が手を加える必要がないほどに完成していることを示して父への敬意の表明にもなる。またドゥイージルがわざわざラップ風に演奏せずとも、それが得意なミュージシャンはそのようにカヴァーする時代になっている。いわばそれほどにザッパの音楽は広く浸透して来ている。
少年時代のドゥイージルはヴァン・ヘイレンなどのロックに心酔し、それは拭い難いひとつの影響となって現在のドゥイージルのギター奏法に表われているはずだが、それがいいかわるいかの問題ではなく、父からの影響と同じく、ドゥイージルには影響を受けた多くの音楽がある。その点でもドゥイージルは父のコピーではあり得ない。もっと言えば、ZPZの演奏は父の曲をカヴァーするが、そこにはドゥイージルが影響を蒙って来たいろんな音楽が混ざり込んでいる。そうであるから、ラップ風など、現在の音楽の流行に迎合した編曲は不要と考える。ザッパの古いファンはよく知っている古いメンバーの参加を期待するが、ZPZの活動を長年続けるには、いずれメンバーは若返る必要がある。また、古いファンは60、70代になり、コンサートに行かなくなる。そして、今はZPZは父のバンドにいたメンバーは皆無になったが、そこで初めてドゥイージルの目指すものがより鮮明になった。そして、その次はZPZではない自分のもうひとつの多様な音楽性の表現だ。インタヴューでなかなか興味深いことを語っている。そのひとつは、父の時代とはまるで違う今の人々の音楽の受容性だ。ヴィジュアルの情報がごく限られていた昔は、1枚のアルバムをじっくり鑑賞したが、今は10や20のほかのことをしながらBGMとして聴く。それに、スマホのアプリに金を喜んで使う人は多くても、楽曲をダウンロード購入する者は少ない。そういう時代にあって、どういう音楽活動が可能か。音楽が軽んじられる時代になりはしたが、昔のようにLPやCDというモノを作らずとも、ファンと直接につながり、また支援を受けることで製作中の楽曲をダウンロードで提供することが可能になった。PLEDGEMUSICという方法がそれで、先日書いたように筆者はそのサイトからドゥイージルのCDの購入を申し込んだ。それはある程度の枚数を予め製作したものを販売しているのだと思うが、ひょっとすれば注文があればそのつど製作するCD-Rのようなものかもしれない。また、そのようにして先行的に販売するCDの売れ行きがよければ、正式にどこかのレコード会社と契約して商品化するのだろう。ともかく、ジャケットや盤などのモノを作るための経費を極力省き、また中間に介在する業者を通さないことで、音楽の作り手の利益が大きくなる仕組みがネット時代によって生まれた。それはザッパがかつて考えたことで、モノとしての形のない音楽の商品の流通に大きな変化が訪れている。ではモノとしての芸術はなくなるのかと言えば、人間もモノであるからには、それはあり得ない。ただし、その流通は変わって行くだろう。ドゥイージルインタヴューを再読しながら、筆者は自分のことも考えた。
こうして書いている文章は、それなりの労力を使い、また題材のために費用もかかっているが、無料で提供している。昨日ネット・ニュースを見ていると、数行読んだところに、「以降の文章は有料です」と表示があった。そしてその文章全体は1300字程度でその全文を読むのに50円を支払う必要がある。どのようにして支払うかわからず、面倒でもあるので文章の続きを読むことは諦めたが、一方で原稿用紙3枚強をひとり50円で読ませるとすれば、その文章の書き手にどれほどの入手があるのかと想像した。5000人として25万で、印税としては普通のその1割が書き手に支払われたとしても、2万5000円だ。これはうらやましい。その程度の量の原稿なら、内容はともかく、筆者は1日に4本は書く。それに費やす時間は2時間だ。それで充分生活が出来るではないか。そんなことを考えると馬鹿らしくなるが、以前に何度も書いたように、無料であれば人はどれほど優れた内容であっても軽んじる。一方、金を支払うと、元を取ろうとする気持ちが手伝って決して損したとは思いたくないものだ。無料で見られるYOUTUBEと、金と交換するCDやDVDを比較すればよい。そこでドゥイージルの音楽活動を思うと、自己表現を続けて行くには生活費とは別に活動費が必要で、父とは違って音楽を金に換えることが難しくなっている現在、彼はそれなりに綱わたり的に活動していて、またそのことに却って創作に真剣味が宿るだろう。昨日は『ビルとテッドの大冒険』に10代に対する教養主義が込められていると書いたが、ドゥイージルはインタヴューで似た質問を受けている。ザッパはアメリカの平均的な音楽の素養はひどいものだと発言したが、ドゥイージルはヨーロッパと南米は学校での授業のせいか、芸術への理解はまだ多いと答え、また音楽については世界中がアメリカと似ていると言う。そういう現状の中、若者がスマホのアプリに金を使うことに喜んでいる状態では、どういう芸術的な音楽行為が可能か。また、それは誰が求めているのか。そんなことを思ってドゥイージルは時に暗澹たる気持ちになるだろうが、父の時代から、あるいは自分の子や孫の時代も事態に変化があるはずはなく、ごく少数のファンに支えられて活動するのが実態だ。また、爆発的に歓迎されたとして、それがそうでない作品より長生きするかと言えば、そんな保証はどこにもない。若者の多くが真面目にロック音楽を聴かないとしても、ドゥイージルが活動を続けられるのは、支えるファンがあるからで、父と同じようにファンを大切に思う気持ちに変わりはない。そういうファンがない、あるいは想定していない筆者は幽霊のような存在だが、誰とも何ともつながっていない位置からの独白、放言の気軽さはある。
ドゥイージルが本作の映像と音楽の密着性をよく記憶していて、それに触発された曲を『ザンマタ通り』に含めたことは、同アルバムを実際に聴くしかわかりようがないが、筆者が本作を見て最も印象深かった音楽は、5,6人の小人たちのウンパ・ルンパが歌う曲で、本作は部分的にミュージカルになっている。ウンパ・ルンパのいかにも71年の作品のような服装や、彼らが合唱する場面での一種宇宙的未来的な感覚のセットは面白い。当時はヘルツォークも小人を起用し、映画で小人を使うのは一種の流行になっていたように思う。デップ版でもウンパ・ルンパの起用は欠かせないが、小人は今は俳優としてどれほど登録され、また実際に使われるのだろう。それに、これは筆者の思いだが、昔のようには小人を見なくなった。医学や栄養がよくなったためか、その理由はわからないが、一方では蔑視を強く禁ずる風潮もあって、映画という見世物に使うことは難しくなっているのではないか。日本では言葉もいろいろと使ってはならないものが増え、筆者はそれをかなりよけいは配慮と思うことがあるが、ひょっとすれば小人という表現も今は駄目なのかもしれない。ザッパはマンチキンという『オズの魔法使い』に出て来る小人を愛したのか、それを会社の名前に使ったが、DWARFという他の小人を指す言葉を曲名に使いもした。また、『シチリアのザッパ、82年夏』でも小人に言及される。そのため、ザッパは本作を見て、ドゥイージルにも喜んで見せたのだろう。本作の小人は不気味な存在ではなく、菓子工場を粛々と稼動させる存在として登場し、また化粧によることが大きいのか、全員が同じような顔に見える。そして、ヘルツォークの映画に出て来る小人とは違って、若い。たぶん20歳そこらではないか。この小人の登場によって本作は幻想性を帯び、また不気味さの一歩手前で留まっている。それがデップ作品ではデップのあの表情と演技では、かなり不気味さが増しているのではないかと想像する。それは本当は本作の原作者の本意ではないだろう。一方、『ザンマタ通り』は不気味な音楽があるかと言えば、ザッパらしい黒さはない。それよりも小さな子どもを見つめる愛らしさがある。それでいてただ甘いだけの味わいではなく、カラフルで凝った映像が見えるようだ。最後に書いておくと、『ザンマタ通り』はジャケットがよくない。ドゥイージルの写真を使いつつも、もっとカラフルなイラストを合成させて夢心地を表現してもよかった。ジャケットが中身の音楽をそれなりに表現していると思う筆者のような世代からすれば、同作はあまりにも内容とジャケットが乖離している。ドゥイージルはジャケットに金をかける余裕もないのかもしれない。