誤るを謝ると誤って書いて謝る羽目になることはよくあるだろう。筆者のブログは誤字と脱字だらけで、それを見つけた時にはすぐに訂正しているが、その日時が記録されないので、便利でもあり不便でもある。
便利というのは、そっと直すことが出来るからだが、簡単に訂正出来ることは、その文章を書いた日や時期特有の香りのようなものがなくなることにつながる。ま、筆者のブログは読み手がごく少ないので、誤字や脱字を訂正しても誰も気づかないどころか、存在していることもほとんど知られないので、気が楽と言えばそうだが、一方で、せっかく書くからには、そして誰かが何かの拍子に誤って読むからには、それなりに襟を正したような気持ちで書きたいとは思っている。簡単に言えばなるべく真面目にやるということだ。中村真一郎は文筆家であることの矜持から、毎日原稿5枚は書き続けたそうだが、それを長年続けることは大変だ。筆者のブログは枚数はもっと多いが、書き始めてまだ10数年で、しかもここ1、2年は投稿しない日が多い。これでは文章のプロにはなれない。昨日ひょんなことから小説家になるための心がまえのようなことをたくさん列挙したサイトを見つけた。若者、しかも初心者相手の親切な手引きで、小説家になることを夢想している人にはなかなかよい内容だと思った。その中に、とにかく小説は完成させることが大切とあった。これは意味が深い。油彩画もそういうところがある。文章も絵画も手を加えると切りがない。これでもう筆を置くと決心した時が完成で、小説であれば尻切れトンボのような状態でもかまわないし、絵であれば塗り残しがあってもよい。そのため、とにかく完成させることが大事と言われても、それは単に心の持ちようで、『もういいか』と断念出来ればそれでよい。筆者のブログはそのようにしている。思っていることを全部書くということは不可能だ。生きている限り、思いは湧き続けるからで、その意味で筆者が小説を書けば、大長編になることは間違いない。先のサイトにはまた、プロットを予め作ることは大事ではないともあった。書きながら予想外のことを思いつく場合は多く、だいたいのプロットは脳裏に浮かべながら、とにかく書き進めることがよい。筆者のブログはそのようにしている。冒頭の一字は以前書いたように、今後何百日分は決まっていて、たとえば次回の投稿は「古」で、次は「分」、次は「梅」だが、書く前にその一字からどういう言葉を選ぶかを、長い時には30分ほども考える。それで、書き始めると思ってもみなかったことが出て来るが、これは半ば無意識で、日馬富士が思わず貴ノ岩をたくさん殴ったというのも筆者には理解出来る。人間にはそういうところがある。それを激情に駆られた愚かな行為と言うのは簡単だが、誰でもそういうAMOKな行動をすることはある。そのカッとなったことを貴乃花は警察に訴えるという激情で応じた。勝負師である力士がカッとなることは冷静であることと同じほど自然だ。それはともかく、話をどう本題に進めようかと思いながら、本題前の落語で言えば枕が本当は面白いと言い訳を思い浮かべている。AMOKという言葉を使ったが、一昨日まで5回連続で書いた『シチリアのザッパ、82年夏』は、ザッパのアルバム『ユートピアから来た男』収録の「TINK WALKS AMOK」が少し流れる。それを字幕に記すことを筆者は伝えたが、何度かメールをやり取りしている間にそれがどうなったかを確認していない。また、その題名の邦題を指定いないので、表示されるとすれば片仮名表記のままで、これは今考えると不意親切であった。また、その曲は20秒に満たない使用で、その程度ならわざわざ題名をその音楽が鳴り始めた瞬間に画面に表示する必要はないかもしれない。
それはともかく、ザッパ関連で長らく気になっていたアレックス・ウィンターが登場する作品『BILL & TED‘S EXCELLENT ADVENTURE』を今日ようやく見た。いちおう俳優としては代表作で、1989年の作品だ。しかも10代に大いに歓迎された内容とのことで、正直な話、退屈で途中で少し眠ってしまった。テンポが遅いというのではない。内容が漫画の実写版と言ってよい他愛もないものであったからだ。同じ年にアレックスはパーシー・アドロン監督の『ロザリー・ゴーズ・ショッピング』にも出演している。それを知ったのはつい最近だが、なるほどと思った。筆者がその作品を見たのは京都ドイツ文化センターで同監督のフィルムをまとめて上映された時だ。90年代初頭であったと思う。その時のチラシをどこかに保存しているが、『バグダッド・カフェ』など、4,5本を2,3日通って見た。その中に『ロザリー・ゴーズ・ショッピング』があり、そこに重要な役でアレックスが出ていたはずだ。ザッパが遺したテープやフィルムのデジタル保存とドキュメンタリー映画を製作するためにアレックスが寄付を募った時、そのアレックスの顔をどこかで見たなと思ったが、それは『ロザリー・ゴーズ・ショッピング』であった。その作品を出来れば年内にまた鑑賞し、ブログに感想を書こうと思っている。それで今日は『ビルとテッドの大冒険』だが、映画の冒頭がガレージでロックを演奏する場面で、これはザッパの『ジョーのガレージ』の影響ではないだろうが、ザッパとはつながる場面と言ってよい。この作品はSFアドヴェンチャーに分類され、アレックスは俳優としてのみの出演で、ロック色を強くしたのはステファン・ヘレク監督だが、彼は後にロックを題材にした映画も撮っている。アレックスは本作でギターをわずかに演奏するが、実際に彼が弾いていたのかどうかはわからず、また演奏の技術があるのかどうかもわからない。また、ザッパに関心を抱いたことは確かだが、それがいつのことかもわからない。アレックス自身が『シチリアのザッパ、82年夏』の監督と同じように、ザッパの音楽との出会いをこれから撮るドキュメンタリー作品で盛り込むかどうかだが、これも何とも言えない。わからないことづくめだが、本作を見てアレックスがロック好きの青年であったことは推察出来る。それでステファン監督と馬が合い、主役に抜擢されたのではないか。アレックスは1965年生まれなので、本作の撮影当時は23歳で、それは映画での高校生役としては少し無理なところがあるが、お茶目なところは当時の10代に大いに歓迎されたことはわかる。その彼が今はザッパが死んだ年齢と同じになった。顔の皺が増えるのはあたりまえだが、陽気さは本作と同じだ。
本作は日本ではバブル期の作品で、登場人物の服装やまた挿入されるロック音楽はみないかにも当時のもので、その点は時代の推移を強く感じさせる。それがよくないと言いたいのではないが、中途半端に古い作品であるので、骨董的価値はなく、また斬新さの面でも見るべきものがないという感情が湧く。だが、これがもう数十年先ではまた見え方が違うだろう。SFアドヴェンチャーものはその後もアメリカではたくさん製作されているが、コンピュータ・グラフィックスを使用することが常套となり、それはそれでまた数十年先には時代を強く反映した貴重な記録となるだろうが、本作はその技法を使わない分、温かみがある。アナログ時代特有の手作り感で、そこにはちょっとしたミス、つまりザッパが言った怪獣の着ぐるみの背中に見えるチャックのようなものが不可的に写り込むが、それを含めての温かさで、そこを楽しむか糾弾するかで、作品の価値が大いに変わる。本作はデジタル技術を使っていない分、今見ればかなり豪勢な経費を使った贅沢な作品という一面が印象に強いが、当時のアメリカは日本に圧されながら、まだ制作費をふんだんに使う映画が許されていたのだろう。とはいえ、本作がいくらで制作されたのか、またその制作費が当時として破格の部類に入っていたのかどうかは知らない。本作を今リメイクするとなると、コンピュータ・グラフィックスを駆使してもっと派手な映像にする一方で制作費を削減するだろうが、そうなれば本作に漂う人間味は消えるだろう。また、そういう作品をむしろ歓迎する時代に今はなっている。それで本作を今の10代が見れば、どのように評価するかだが、これも筆者にはさっぱりわからない。また今の10代が本作を面白くないとみなすならば、映像の質などの技術的な面以外にやはり描かれる内容であるはずで、筆者が今の10代であればどう見るかという立場で少し書いてみたい。それは本作に漂う教養臭だ。NHKの教育TV的と言ってもよい。そういう教養主義を今の、特に日本の10代はどれほど無理なく咀嚼しようとするだろう。その教養臭のどこが面白いのだとそっぽを向く者が多いのではないか。そして、それは本作が制作された当時のアメリカでも同じではなかったかと思う。10代はその初期と最期とでは、いわば子どもと大人ほどに差があり、本作が10代に喜ばれたとして、どの辺りの10代かが疑問だ。10歳や11歳では理解出来ない歴史上の登場人物が多いはずで、そこは本作のビルとテッドが扮した高校生という年齢を思い浮かべる必要があるだろう。ただし、高校生が本作を心底楽しむかと言えば、筆者には幼稚な作品に思える。幼稚な物語であるのに、20代でも関心のない歴史上の人物がたくさん登場するところに、本作の教養臭の違和感を覚えるが、一方でこういう映画が大ヒットしたところに、アメリカの一種の健全な教養主義が見え、なかなか見上げたものだと思う。
本作は簡単に言えばタイムマシーン映画で、過去を遡って歴史上の人物を現代に連れて来る。選ばれた歴史上の人物は、ナポレオン、ビリー・ザ・キッド、ソクラテス、フロイト、ジンギスカン、ジャンヌ・ダルク、リンカーン、ベートーヴェンで、それらの人物が生きていた時代の場面がそれぞれに用意されるが、それは衣裳やロケその他、わずかな場面であるのに、経費がかなり嵩んでであろう。ナポレオンの登場場面は有名なワーテルローの戦いが映るが、大人数の軍隊の映像をたとえば『ワーテルロー』から部分的に買って挿入したのではないか。そうでもしなければあまりにも贅沢で無駄だ。それはさておき、アメリカや日本の高校生にとって、歴史上の人物として上記の8人はみな馴染みであろうが、ソクラテスは日本ではどうだろう。また日本の人物が登場せずにジンギスカンというのは、アメリカにおける歴史教育がほの見える。フロイトも筆者には渋い登場人物で、ソクラテスと同じようにその業績の実体を高校生はほとんど知らないのではないか。大学生、いやもっと大人になってもソクラテスやフロイトの本を読まない人の方が圧倒的に多い。そのため、本作の教養主義がやや鼻につくが、ソクラテスやフロイトに生涯無縁の人がほとんどであるからこそ、こういう映画でせめて登場させたいという思いもわかる。そこで次に思うのは、アレックスはそういう教養をどう思っているかだ。というのは、ザッパのデビュー・アルバム『フリーク・アウト』の見開きジャケット内部には、ザッパが敬愛したたくさんの人物の名前が列挙されていて、ザッパを深く知るにはそれらの人物についての最低限の知識ないし関心は欠かせない。つまり、教養が強要される。そのザッパが作った人名簿は若気の至りで、あまり意味はないと考えるザッパ・ファンも多いだろう。だが、若いザッパがそれらの人物の名前に関心を持っていたことはやはり重要だ。そして、いつの時代でもそういう教養主義は大多数の若者には関心がない。ロック音楽となればなおさらだろう。もっと言えば、ザッパの知名度がある程度以上にならないのはあまりに当然で、それほどに世の中は教養を重視しない人が多い。それどころか、そういうものに関心がないことを自慢するおっさんがあまりにも多い。アレックスはその点どうであろう。ザッパの音楽に深い関心を抱くからには、無教養を自慢するような人間ではないだろう。本作を見て筆者はアレックスがザッパのドキュメンタリー映画を作りたいと思ったことがわかった気がした。それは先に書いたように、本作がロックと教養という観点を持ち、またタイムマシーンに乗って過去の偉人を現代に連れて来るという物語であるからだ。アレックスの作業はザッパを今に蘇らせようとすることだ。しかもそれを自分が好きなロックと映画という手法に頼る。そのことは『シチリアのザッパ、82年夏』の監督も同じと言ってよい。ともかく、本作は今のアレックスの行為と大きくつながっていると思える。AMOK状態で書いているうちに思いついたが、ザッパが計画していたオペラ『アンクル・サム』は本作をブラックにしたようなものであったろう。誤りであっても、AMOKのせいにして謝らない。